過去からの自由 ジョーイ・ロット

 
過去も未来もない、ということは非二元のミーティングでも本でも決まり文句のように語られる。

何年か前に、大英博物館で大量のミイラを見物してから、ウンマニのミーティングに出かけたことがあった。彼女が「過去はない。ここ、今しかない」と繰り返すのを聞きながら、「あのエジプトのミイラも過去があったことの証拠にはならないのか」と恐ろしく思ったのを覚えている。「というか、そもそもこのミーティングに来る前に大英博物館に行ったという過去だって今ここで起こっている記憶だ。それが本当かどうかはどうやっても確認できないんだな」と気づいて、ぞっとした。

ジョーイ・ロットが過去というテーマについて書いた文章を訳してみた。

原文: The Past

== 以下、訳 ==

過去

いま本を書いている。過去からの自由を見いだすというテーマの本。単純だけど核心的な探究をいくつか集めたもので、過去の本質、過去と自分との関係の本質を発見することに力点を置きつつ今この瞬間の経験を探究していく。もちろんだけど、自分は過去から本当に自由なんだってことを読者が発見してくれたらというのが願いだ。単に頭でわかるだけじゃなくて、感覚的にも。

そういう本を書こうと思った動機は (そんなものがあればの話だけど) 、いろんな人たちとワークをした経験から生まれた。僕は対面でもワークをするし、電話とかスカイプを使ったりもする。扱う問題は人によって違うけど (健康問題とか「スピリチュアル」な問題とか不安とか) 、ほとんどいつも、過去に縛られているという認識とか、束縛されている感覚に話はすぐに向かうことになる。

そうやってとらわれているケースの大半に、過去に起こったひどく恐ろしい出来事がからんでいる。子どもの純粋さを裏切る行為。暴力。残虐行為。ほんとうにいろいろある。

僕のとるアプローチは稀なものだ。それは、僕の考え方が稀なものだからだ。自分の経験から言うと、この考え方はものすごく役に立つ。本当の自由をたった今この瞬間に見つけられる可能性があるってことがわかるからだ。

どんな考え方かと言うと、こうだ。過去がもう終わったものだってことは僕には火を見るほど明白だ。すっかり。完全に。過去はもうない。それだけじゃない。まったく本当のことを言ってしまえば、過去っていうのはいま起こっている単なる思考だ。実際、過去には実体がない。独立して存在するものじゃない。

これは、当然だけど、僕らが普段感じているのとは違う。その点については僕はすごくよくわかる。過去というのは言ってみれば幻影みたいなものなのに、僕自身が過去にすっかり捕われていたからだ。過去に縛られてる感覚がすごく強かった。だから過去はあったという見方があるってことはよくわかる。

そのうえで質問。過去に縛られていたいだろうか?

縛られていたいなら、それでいい。そのままそう思っていていいし、疑わなくてもいい。

過去に縛られるのは嫌だという人には、いい知らせがある。自分が今している経験を簡単に調べてみるだけで、過去というのはじつはこの瞬間に生じている単なる思考であって実在するものじゃないってことがわかる。

当たり前だけど、過去がたしかにあるっていう証拠を見せて反論する人たちもいるはずだ。たとえばだけど、誰かが暴力事件を起こして服役しているとしたら、その人は過去に縛られているように見えるだろう。そういう例を興味深い哲学的な議論だと感じる人たちも少しはいるかもしれない。でもそういう議論は、ここで紹介しようとしてる探究の邪魔になる。ここでする探究というのは、今の瞬間の経験をじかに本当に調べてみるってことだ。

つまりわかってほしいのは、僕が哲学の議論をしようとしてるわけでも、因果関係があるようにしか見えない説得力がある現象なんか一切ないとか言い張ってるわけでもないってこと。

ここで僕が言ってるのは、いま現在の直接の経験を調べてみて、そうすることによって直接の真実を自分自身の感覚で見つけてみませんかってことだ。思考じゃない。理屈じゃない。哲学でもない。直接わかることだけ。

僕自身の経験から言うと、そういう探究をすると自由があらわれる。直接の経験だけを見れば、過去というのはいま生じている単なる思考なんだってことがわかる。直接の経験のなかには純粋な潜在性がある。これは因果のにある。これが先にある。これはたった今、誰にだって経験できる。これというのが何であっても。

簡単な調べ方をいくつか紹介しよう。

たった今、過去がどこにあるか、その場所を見つけられるだろうか? 実在していて、つかまえられたり、目に見えたりする過去というものがどこにあるのか、その場所をつきとめられるかな?

これは考えてすることじゃない。思考はこれのまわりをぐるぐるまわるだけだ。いつもしているように。それが思考のすることだ。そうじゃなくて、直接の経験を見てみる。どんな思考が出てきても、それを答えだと思っちゃいけない。

つぎに、過去の記憶をひとつ思い出してほしい。感情的な反応があまり出ない、どちらかと言ったらニュートラルな感じの記憶がいちばんいい。

で、いつもは記憶の中身に関心が向いてるってことに気づくかな。でも今は中身じゃなくて、記憶そのものはどんなものなのかってことを調べてみよう。実際の記憶が見える? どこにあるだろう? 記憶はどんな感じがする? 記憶は何でできてるんだろう?

そうやって調べていると、過去が違った感じに見えだすんじゃないかと思う。

僕が気づいたのは、過去についての思考にものすごくこだわってる人がほとんどだってこと。言ってしまうと、未来についての思考も、僕の見方では過去についての思考にほかならない。過去の思考を僕らはいつも想像上の未来に投影している。

でもそんなふうに生きてたら、どうやって自発的でいられるって言うんだろう。本当の気づきの可能性がどこにある?

僕が言いたいのは、本当の自発性を発揮して本当の意味で生きることができるたったひとつの可能性は、どんな思考にも先立ち、どんな時間にも先立ち、どんな分離感にも先立つものだってこと。ここ、生のまさに源泉のここだけが、自発性が生まれるただひとつの可能性だ。

いい知らせがある。僕の経験では、生と自発性の本当の源泉、つまり本当の自由を見つけるのは考えられないほど簡単だ。なにしろそれはどんなものよりもずっと近いところにあるわけだから。努力もまるで要らない。

必要なのは、いまあるものを真剣に調べてみるってことだけ。それで、何が実在していて、何が実在してないかってことをただ認識する。

というよりも、生と自発性の究極の源泉を見つけるためには、ちょっとだけ止まるだけで本当は十分だと言ってもいい。たった今、ちょっとだけでいいから、思考を追いかけるのをやめてみてほしい。注意の向きを180度変えて、自分の源泉の方に向いてみよう。自分の目を見てみる。本当に直接見てるみたいに。想像じゃなく。

これは誰だってできる。すぐにできる。頑張らなくても。

何が見つかった?

これは言葉にはできない。言葉より前のものだ。まったくシンプルだ。

そして、そこにとどまってみてほしい。

もちろん、普通はそうはいかない。たいていは誰でも思考をまた追いかけはじめる。

で、思考がこんなことを言うはず。「こんなの単純すぎる」とか「こんなんじゃないはず。もっとすごいのを期待してたんだから」とか「何も起こらなかった」とか「やり方を間違えたかな」とか。

究極の現実はそんなに人目を引くようなものじゃない。マインドにはわからない。シンプルすぎる。それは創造に先立つものだ。

でも否定もできない。

そしてここで、過去、現在、未来がことごとく崩れて、無の中に、純粋で区別のない愛の中に消える。これは潜在性にすら先立つものだ。これは静寂だ。

意外なことだけど、ここで選択ができる。シンプルな選択だ。ここにとどまるか、思考を追いかけるか。

ここにいると、過去も現在も未来も、そのすべてがここという広大さの中で起こってるってことが明白になる。ちっぽけで何の重要性もない。あるのは純粋で区別のない愛だけだ。

難しくはない。妙なことみたいに聞こえるかもしれないけど、これはたったいま味わえる。ちょっとのあいだだけ、思考を追いかけない。注意を源泉に向けてみる。

で、そのままでいる。

== 訳は以上 ==

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過去からの自由 ジョーイ・ロット」への3件のフィードバック

  1. いつも楽しくブログを拝見させて頂いてます。
    このところのジョーイ・ロットシリーズは最高ですね。
    本当にストライクといった感じでビンビン来てます。
    本人の言葉の操り方も然ることながら、やっぱりヒロさんの翻訳の素晴らしさでしょうね。
    これからも楽しみしています。

  2. ruirui2014さん、コメントありがとうございます。

    ジョーイ・ロットはシリーズにする気もなかったのですが、すっかり惹かれてしまって、続いています。ジョーイはすごい勢いで本やブログを書いていますが、目覚めのあとの爆発のような印象です。ジェフ・フォスターの初期の文章や映像にもジョーイと同じ感じのエネルギーが溢れていて好きだったのですが、いまではすっかり落ち着いています (というよりも、「個人はいない」とか「時間はない」とか「すべて無意味だ」という表現は一面的すぎて有害だとして、批判に転じていたりします) 。ジョーイ本人も、何年かたったら自分が何を言ってるかはわからないけど、と書いています。

    僕は翻訳というよりも、ただ原文を邪魔しないように和訳しているだけなので、素晴らしいのはやはり原文だと思います。(彼の表現に出会ったということ自体については自分を褒めてもいいかなと、こっそり感じていますが!)

  3. いつも読ませていただいています。
    英語がわからないので、こうして訳していただけるととてもありがたく読ませていただいています。

    こういったことにとても興味があります。
    興味が湧き出してから8年くらいたちます。

    「本当はこうなんだよ」と指摘してもらえないとなかなか気づけななかったです。
    ああ。小さなころからずっと、あのときも、あのときも、、、透明な意識が常についてきていたんだなぁ・・・とか
    わかっていたといえばわかっていたような気もするんですが、それが重要だなんて考えてもみませんでした。
    結局、あの時もあの出来事もいろいろなことは起こっては過ぎていって、「それ」だけが、あったんだということになるのか・・・とか。

    頭ではわかっても、、なにか違いますね。
    もっと素晴らしいことなのでしょう

    思考を手放すのは、まるで水中か空中に浮かんでどこにもつかまるところがない、けれど少しでも力がが入れば溺れるか落ちてしまうような、身軽になるための集中が必要なような心細い感じがします。

    本で錯覚にすぎないよと指摘されても、まだまだ不安や恐れが出てきてます、たくさん。
    冷静にありのまま見なさいと指摘されてもなかなかそうなれていない自分を見るばかりです。
    不安な気持ちや恐れをじっくり見ることは勇気がいりますね。、
    日常の些細なことにすら巻き込まれていることを自覚するのはとても勇気がいるし、強烈に感じます。

    矛盾してるようには感じるんですが、出来事、感情、思考、ほんの些細なことにすべてに疑いを持つように気をつけるくらい真剣にならずにはいられないんです、
    あとで、こんなことしなくてよかったのに、意味がなかったということになるかもしれませんが・・・

    アジャシャンティの本で
    あるとき他の人よりわかっているという「優越男」がでてきて、それは自分で許せるようになるまでは消えなかったとありました。
    そんな感じで、あらゆる「○○女」が現れてきます。
    それを見るのはすごく集中していないと見逃します。
    アジャシャンティさんもすごく真剣に取り組んだん時があったんだと、本で読んで感じました。

    反復横飛びのように、横にずれてはまた中心に戻って
    思考は止めようとしても無駄だというのは何度も経験しました。
    いくら考えてもいい、けれどまた無を思い出して
    出たり入ったり。。。という状態かもしれません。

    早く質問が止むまでわかりたいのは山々な気持ちです。

    けれどこればかりは本当に「わかる」までになるにはいつ誰がどうなるかわからないですよね。
    だからくつろぐようにしています。。。

    求めている一人でも多くの人たち自分もですが、「わかる」ことができておだやかに過ごせるようになりますように。
    これからもちょくちょく読ませていただくと思います。
    よろしくお願いします。

    ここで長く書いてしまってよかったかはわかりませんが、
    何の役にもたたない文章だったかもしれませんし、何か感じてくれることもあるかもしれません。乱文ですがすみません。
    もしあまり長ければ削除してください、

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