苦しみを終わらせる 後半 ジョーイ・ロット

 
苦しみについてのジョーイ・ロットの記事の後半部分を訳した。前半はこちら

本文にも書いてあるが、これを読んだ人のほとんどは「こんなの効果あるわけない」とか「似たようなことを前にしたけどだめだった」と言ってすぐに却下するだろうと思う。

原文: How to End Suffering. Seriously.

== 以下、後半の訳 ==

苦しみを終わらせるための秘密というのは、起こっていることについての自分の考えに注意を向けるのをやめて、起こっていること自体に注目するってこと。本当に本当に簡単だ。実際すごく簡単で、労力も要らない。起こっていることにはどんな意味があるかという思考やストーリーに注意を向けていると、労力を費やすことになる。

さて、そんなことは僕自身も最終的に「わかる」までは、うんざりするほど何度も耳にしていた。だから、説明がそれだけなら、まだこれを読んでいる1%の人たちのうち99%はこの時点で読むのをやめるってことくらいわかってる。でも心配無用だ。すごく詳しく説明していくから。

繰り返しになるけど、混乱してるってことが問題のほとんどだ。なぜそう言えるか? それは僕自身が長いあいだ混乱してたから。ストーリーに目を向けるんじゃなくて今起こっていることに直接寄り添えっていうメッセージは聞いたことがあった。でもなぜかはわからないけど、その意味は一度も理解できたことがなかった。で、いま起こっていることは何なのかという抽象的な思考に飛びついて、今あることと共にあるという経験をしないでいれば、混乱は続くだろう。僕が言っている経験を一度でも経験したら、いろんな疑問を持つことがなくなる。この経験はすごく直接的で直観的で明白だから、僕が何を言っているのかがわかるはず。経験すれば。

混乱が生まれるのは、かなり限られたやり方でずっと生きてきたっていうのが原因だ。思考をとおさないと現実を知ることはできないと思い込んできた。感情とか身体感覚のようなことについてさえ、思考を使っている。起こっていることを直接ただ経験するかわりに、それに名前を付けてしまう。悲しみとか怒りとか。苦しみとか喜びとか呼んだりもする。でもそうしてしまうと、それよりもっと近いところにあるものを見逃してしまう。

思考より近いところにあるのは直接の経験だ。直接経験するためのエクササイズを具体的に紹介していきたい。

このエクササイズを僕はビッグ・チル (超リラックス) と呼んでいる。これはいつでもできるけど、「問題」を経験しているときにやると効果がわかることが多い。

はじめのステップでは、自分の注意が思考に向けられていることに気づく。何が起こっているのか、それは何を意味しているのか、それに対して自分は何をすべきかという分析に注意を向けていることに気づく。何のことを言ってるんだかわからないという人は、読み進めていくと意味がわかってくるはず。

つぎのステップでは、自分の身体に身体感覚があるのに気づく。いま「問題」を抱えている人は、たぶんこういう身体感覚に気づくのをいつも避けているはずだ。身体感覚を直接経験するんじゃなくて、その感覚についての思考にすぐに飛びつくことによって感覚を感じるのを避けているんじゃないだろうか。で、今ここでするのは、「問題」を解決しようとして思考の助けを求めることなく、この身体の感覚にじかに出会うってことだ。

注意というのは不思議なものだ。注意は注目できるものをほしがる。自分の注意を気づき ― 生の全体性の別名だ ― に向けさせる方法を教えよう。と言っても、たぶん想像してるのとは違うやり方だ。気づきは対象じゃないというのがその理由。だから気づきを探しても見つからない。気づきに注意を向けるためには、ある仕掛けを使って、対象を探そうとするのを止めなきゃいけない。どうすればいいかは、このあと。

そのつぎのステップでは、自分の注意を使って身体をスキャンする。まず注意を自分の頭のてっぺんに向けて、身体を部分ごとにスキャンしていく。足先までずっと。各部位で起こっていることにただ注意を向ける。起こっていることを変えようとしてはいけない。ただ気づく。好奇心をもって。こんなことは今まで一度もしたことがなかったと認めよう。起こっていることにきちんと注目するかわりに、起こっていることについての思考にいつだってすぐに飛びついていたんだから。

頭からつま先までのスキャンを何度も繰り返す。毎回、起こっていることにただ注意を向ける。何が変わるかにただ注意を向ける。起こっていることはいつも違うってことに気づくだろう。思考はそうは言わないけど。でも思考はあまり敏感じゃない。鈍いと言ったほうが当たっている。僕らは経験に名前を付けて、実際に起こっていることを見逃している。実際には一瞬一瞬が新しく、異なるものだ。痛み、悲しみ、欲求不満、怒り、喜び、自由、その他なんでも、名前を付けたとしても、それはつぎの瞬間にはもう同じものじゃなくなっている。だから、名前を付けるんじゃなくて、実際に起こっていることに寄り添おう。ただそれを経験する。それがどう変わるのかにただ気づく。好奇心をもって。

そうしていると、たぶんだけど、注意が自然に身体の感覚よりも近くにある何か、経験よりさらに近くにある何かに惹きつけられだすことに気づくだろう。無理やりそうすることはできない。ただ、それが起こるにまかせることならできる。そうなったらそのままにしよう。このプロセスでは、普通向いている方向とは逆の方向に注意が向きだす。注意がそっちにむき出すと、注意が向かっている先がものじゃないってことに気づくかもしれない。これが気づきだ。これが本当の自分だ。形がない。自分を見ることはできない。でも自分を認識することならできる。その方向に向くと、注意はその源泉に自然に惹きつけられるだろう。

さっき言ったとおり、これは華やかじゃない。グルの御足のもとに頭を垂れることになるかどうかは僕にはわからない。それに、これをやった人の心が千の花弁の蓮のように花開くだろうなんてことも言えない。このエクササイズをやってもクリシュナやイエス・キリストに会える可能性は少ないだろう。でも自分自身を発見できる。

この方法が広く受け入れられるなんてことはないはずだ。というのも、率直に言えば、ほとんどの人は求めるってことに中毒になってるからだ。求めるのをやめる気なんかない。ここにすでに今あるものを認識するために少し時間をとるよりも、マントラと特別な能力に1,000ドル支払うことを選ぶだろう。僕もそうだった。これほど簡単だなんて僕だって信じなかっただろう。でも実際は簡単だ。本当に。苦しみは複雑だ。自由はシンプルだ。

自由ほどシンプルなことはほかにない。

自由は華やかじゃない。これを書いている時点で、僕は何週間もずっと同じズボンを履いている。昼寝をしている娘の隣でPCに向かっている。娘のすぐ隣にいるのは、部屋が一つしかない小屋に住んでるからだ。ハエが何匹も飛びまわっている。パートナーと息子は朝から出かけている。いつも片づけてくれるパートナーがいないせいで、カウンターには洗ってない皿と食べ物の空き箱が積み上がっている。

華やかじゃない。自由だ。本当の自由だ。ついに自分自身でいられるという自由だ。本当にほっとする。

自由は何も与えてくれない。逆に奪い去る。本当じゃないものをすべて奪い去ってしまう。苦しみを奪い去る。

だから勝手にすればいい。また本を読んだらいい。別の修行をすればいい。もっと探し求めればいい。

でも探し求めるのをやめたとき、これを発見する。

質問がある人もいるかもしれない。このページのコメント欄かメールを使って質問を寄せてほしい (気楽にメールしてもらって大丈夫だ) 。質問とその答えはこの下に書き加えていくつもり。(訳註: あくまでも記事原文の話。メールで質問しないでください!)

***

Q. ビッグ・チルのエクササイズの説明で書かれていたようなことは、全然経験できません。やり方が間違っているんでしょうか?

A. たぶんそうでしょう。ちゃんとできているかどうか、ビッグ・チルの公認トレーナー確認してもらってください。

冗談はさておき、どんな経験をしているとしても、それがまさに経験していることです。それと共にただいてください。自分が経験していることにただ気づいていてください。思考がどう生じるかに注意を向けます。「あなたが言うようなことは全然経験していません」というのも思考にすぎないってことに気づくでしょうか。その思考に飛びついてもいいし、直接の経験に寄り添うこともできます。

やりはじめたときは奇妙な感じがするかもしれません。というのは、いつも思考に飛びつくのが習慣になっているからです。そのため、直接の経験と共にいると、自分は何も経験していないんだとはじめは思うかもしれません。でもそれは思考の視点から見たときの話です。思考は今あるものを知ることができません。思考は単に思考です。良いものでも悪いものでもありません。ただ限定されているというだけです。思考は思考にすぎませんが、生はそれをはるかに超えるものだからです。ですから、思考の視点からは、起こっていることは「空虚」だとか「退屈」だとか「難解」だとか、そういういろいろな感じに見えるかもしれません。でもそういうのは単に名前だってこと ― つまりそれもまた思考だってこと ― に気づいてください。

僕の経験では、何も変えようとしないで身体スキャンをするのは (好奇心をもって行えば) 、注意をその源泉の方に向けなおす仕掛けとしては一番直接的なやり方です。ですから、プロセスを続けてみてください。身体の中で何が起こっているか気づくということにきちんと注意を向けていれば (起こっていることを変えようとせずにですが) 、注意はその源泉の方に向くことになるはずです。障害があるとしたら、起こっていることではなく起こっていることについての思考に注意を向け続けてしまうということだと思います。

Q. 起こっていることと、起こっていることについての思考を区別するにはどうしたらいいのでしょうか?

思考も起こっていることの一部です。感覚もそうです。記憶もです。音も。すべては起こっていることです。ですから思考を無視しなければいけないというわけじゃありません。起こりえるのは、言われたことを誤解して、思考を無視したり拒否したり止めたりしないといけないと思い込んでしまうということです。思考を悪者にしてしまうんです。でも思考には何も悪いところはありません。思考に対しては何もしないでください。思考が生じるままにします。思考が起こっていることに気づくだけでいいんです。

たいていの場合は、何も変えようとせずにただ身体の感覚に注意を向けてくださいという説明がいちばん効果的です。これはたぶん感覚は思考よりも源泉に近いせいだと思います (当然これはまったくのたわごとです。全体性という視点からの距離なんてものはないからです。それでもなぜかはわかりませんが、そういう指示が役に立っているようです) 。いずれにしても、起こっていることすべてをそのまま好奇心と共にただ見て経験してください。何が起こっているかという考えを見るのではなく。この感覚は何なんだと考えるのではなく、どんな感覚なのかに注意を向けるということをやってみるんです。感覚がどう感じられるかということに名前を付けることもしないでください。ただ感じます。思考について言うと、思考について考えるのではなく、思考が生じるという経験は実際どんなものなのかに注意を向けてみてください。

もし経験にラベルを貼っているのであれば、それは直接の経験と共にいるのではなくて思考に注意を向けているということのはっきりとした証拠です。間違っているわけではありません。悪くもありません。失敗でもありません。単に、思考がまた出てきたというだけです。そうなったら、プロセスにただ寄り添います。身体スキャンをして、好奇心をもってください。

Q. このプロセスをしていると身体がくつろぐ感じがするんです。これは一般的なことですか?

A. かなりよく起こることです。でもそれが目標というわけではありません。副産物です。副産物としてはけっこう心地よいものではありますが。

このやり方を最初に発見したころ、僕は人生の中で本当にものすごく絶望的な時期にありました。感情のアップダウンが激しかったという表現では生ぬるすぎるほどです。自殺衝動があって、怒りもありました。

その頃、感情的な苦痛に身体の緊張が伴っていることに気づきはじめました。そして、身体そのものをリラックスさせようとしていろいろ試しました。かなり効果はありました。でもそれを続けるのはものすごく大変なことでした。というのも、生に反応するという習慣と闘うのに抵抗と力を使っていたからです。

最終的にこのもっとやりやすくて穏やかで効果的な方法を見つけるまで何年もかかりました。無理にくつろごうとするかわりに、起こっていることに気づくだけでいいんです。身体の中には自然の知性があって、実際に起こっていることに注意を向けると (起こっていると思うことにではなく) 、その知性がくつろいだ状態をつくりだす余地がたいてい生まれます。

リラックスした状態は楽しいもので、さらにはほとんどの状況においてはもっとも望ましい状態ですが、リラックスすることは目標ではありません。それが目標だとしたら、自由はくつろいでいるかどうかによって左右されるものだということになってしまいます。でも実際は違います。自由はすべてに先立ちます。自由は状況にまったく左右されません。思考にはまっていてもそうでなくても、僕らは自由なんです。緊張していてもくつろいでいても自由です。

というわけで、身体がくつろぐというのは、注意を源泉に向けることにともなう心地よい副産物だと言ったほうがいいでしょう。必要条件ではありません。それに、くつろいでいるかどうかという点にあまり注目しないほうがいいと思います。ただ単にいま起こっていることとして楽しんでいればいいんです!

Q. あなたは相当強烈に悟りを求めていたようですね。そういう探求はあなたが言うような本当の自由を発見するために必要だと思いますか?

A. いえ、そんなことはありません。

まずはじめに明確にしておきます。悟りという考えそのものがくだらないたわごとだと僕は思っています。それは追いかける対象のひとつにすぎません。棒にぶら下がったニンジンです。現実じゃないんです。

現実というのは、つねに存在している無条件の自由で、その反対のものがないものです。あなたははじめからこの自由です。

じゃあそのことに気づいてないのはなぜでしょうか? それはまだ探し求めているからです。僕のおすすめは、悟りとは何かという思考に飛びつくかわりに、いまあるものと共にいるということです。今起こっていることが起こっているということに注意を向けてみてください。それから、自分の注意がそのうちのものすごく限られた狭い部分 ― 起こっていることは何なのかとか、どんな意味があるのかという思考 ― にだけ向いているということに気づいてください。

いま起こっていることと共にいてください。起こっていることには思考も含まれますが、起こっていることは思考によって限定されてはいません。

あなたの質問には、たぶん、自分自身を実際に探して直接の経験に寄り添う準備ができた人とできていない人の差はどこから生まれるのかを知りたいという意味も含まれている気がします。それは謎です。本当の自由がどっちにあるかという方向を示すことはできるけれども、示された人がたしかにそれを聞いて心に留めるかどうかは僕には保証できないと言っているのはそのためです。

とは言っても、自分のかわりに誰かがやってくれるのを待っているとしたら、永遠に待ち続けることになるでしょう。グルを求めてヒマラヤに行き、グルに額を触ってもらった瞬間にずっと続く至福に目覚めた人たちの素晴らしい物語を誰もが聞いたことがあるはずです。そういうのは単なるお話で、探求を続けさせることになるだけです。苦しみが続くことになるだけなんです。探し求めるのをやめるというのが答えです。そのための僕が知るかぎり一番効果的なやり方が直接の経験に注意を向けるという方法で、そうすることで注意は源泉に戻ります。

Q. 自分の注意が源泉に到達したかどうかを確認できる方法はありますか?

A. 答えを探すのをやめたとき、そうなっているとわかります。問題がなくなるんです。

念のためですが、嫌なことが起こらなくなると言っているわけではありません。カリフォルニアに住んでいるなら、他の地域と比べれば地震を経験する確率は高いでしょう。それは変わりません。フロリダにいれば、ハリケーンに遭遇するでしょう。誤解もなくなりません。ガンも生じます。原発事故も起こるでしょう。嫌なことは続きます。

Q. じゃあ、問題がなくなるというのはどういう意味なんですか?

A. 僕が言っているのは、解決できないことの答えを探さなくなるということです。そういう答えを探すことこそが苦しみです。苦しみには基本的に2種類あります。

ひとつめは、完全なるでっちあげです。僕は以前は毎日数えきれないほど何度も手を洗っていました。(いや、実際にはたしかに数えていましたね。でもそれも同じ種類の問題です!) 手が汚れていたからではありません。手を洗わないのが怖かったからです。本当の問題は何だったでしょうか? 問題など実際にはありませんでした。まったくの作り事です。苦しみは実際にありました。ただ、実際には問題はなかったという話です。

ふたつめは、自分にはどうやっても変えることのできない状況の中に置かれて、必死に状況を変えようとするときの苦しみです。たとえば僕には乳房があります。男なのに乳房があるんです。そのことは僕にとって問題でした。今は問題ではありません。というか、それが問題だったことはないんです。今ならそれがはっきりわかります。はっきりとわかるというのはずっと楽しいことです。

== 訳は以上 ==

この記事では「僕の知るかぎり一番効果的な方法」という感じの表現が何度か出てくる。ちょっと気になる人もいるかもしれない。でも、最近のジョーイ・ロットの本では (特に最近改版されたものでは) そういう表現が改められている。本人曰く、独善的なトーンが弱まってきたらしい。

この記事にもあるように、結局は何を言われてもそれが耳に入るタイミングというものがあるのだろう。リック・リンチツは、サティヤム・ナディーンという彼の先生が「Consciousness is all there is (意識しか存在していない = 意識がすべてだ )」と言うのを何百回耳にしても響かなかったのに、あるときその一言を聞いた瞬間に探求が終わったという。「謎」ということなのだと思う。

広告

苦しみを終わらせる 後半 ジョーイ・ロット」への7件のフィードバック

  1. 早々の後半翻訳ありがとうございます。
    最近ルパート・スパイラルの「プレゼンス」という本を読みましたが、やっとダイレクト・パスがどういうことは分かった気がしました。
    (分かった気がするのと、実践するのは別だと思いますが)
    ジョーイ・ロット氏の身体の感覚を感じるというのも、
    そのダイレクト・パスに通じるような気がしました。
    ジョーイ・ロット氏の著作も是非読んでみたいです。

    何時も素敵な翻訳ありがとうございます。

  2. このサイトを知るきっかけになったのが、
    マハラジのアイアムザットをAmazonで買ったのがきっかけです。
    そっからAmazonのおすすめからわかっちゃった人たちを購入。
    読んだらとにかくおもしろい。ほんでヒロさんの名前を検索してこのサイトを発見。今回のジョーイロットの記事を読ませていただきました。ありがたいですね。本当に、こんなすごい記事が日本語で無料で読めちゃうなんて!これからもブログ更新楽しみにしております。

  3. satoshiさん、コメントありがとうございます。

    喜んでいただいてよかったです。なんとなく一区切りついたような感覚になったので、ブログはちょっと休もうかなと思っていたのですが、ボチボチ更新していくことにします。

  4. ありがとうございます。
    本当にあっさり問題が無くなりますね。
    苦から救われたわりには感動もなく、当たり前なことに思えるのは何なのでしょう。

    前半の求めることの苦しみや、問題はないといった説明が助けになりました。

  5. やまさん、こんにちは。

    劇的なドラマがないというのは、ちょっと足りない感じがしますよね。でも足りない感じも身体感覚だったりします。

    ジョーイ・ロットのある本ではもう少し詳しくそのあたりを扱っていますが、単純な手法ながら奥が深いようです。(本当は深さなどなくて、「これ」だけなんでしょうけど)

  6. ヒロさん、はじめまして。
    数日前、「わかっちゃった人たち」を拝読させていただきました。

    私はもともとスピリチュアルなことが好きだったのですが、相変わらず続く苦しみをなんとかしたくて、この2~3年は心理療法を学び携わってきました。

    この1年くらいは、「セラピーなんて、セラピストとクライアントのエゴとエゴのぶつかりあいじゃないか・・・」と無力感を感じ、葛藤しておりました。
    自分も含め、完璧でないセラピスト(中には悪徳セラピストも?)をたくさん見てきて、これからどうしていこうか悩んでいました。

    でも、ヒロさんのこの記事を読んで、救われました!
    私がやりたかったことはこれだったんだから、これで良かったんだと・・・。
    「直接体験すれば、心がやすらぐ」ということを言葉で表現するって、難しいと思っていましたが、この記事で私自身もとてもよくわかりました(^^)

    「わかちゃった人たち」にも心理療法課家の人の話が出てきましたし、
    私が怒っていた悪徳セラピストさえも問題はなかった、とわかり(笑)
    あらゆることが楽になりました!!

    長々と失礼いたしました。
    本当に感謝しています。これからも楽しみにしています!

  7. MARIさん、はじめまして。コメントありがとうございます。

    あらゆることが楽になった、とはいいですね。ジョーイの表現に接すると、言葉の力を感じます。

コメントは受け付けていません。