至福と「至福」 ジョーイ・ロット

 
ジョーイ・ロットのブログの記事をひとつ和訳してみた。至福についてのもの。

いろんなミーティングに出てみて感じるのは、至福という想像上の状態についての質問がけっこう多いということだ。「あなたはつねに至福の境地にいるんですか?」と先生に聞く人を何度も見た。それから「至福の境地からいつも追い出されてしまうんですが、追い出されないようにするにはどうしたらいいんですか?」という質問もある。

そのあたりについてかなり噛み砕いて説明している記事だ。

原文: Bliss (joeylott.com)

== 以下、訳 ==

至福

ここ最近の話だけど、(大きなくくりで言えば) 至福というテーマについて何人かの人たちから話が出た。それで、そのことについてちょっと書いてみようかという気になった。書く意味があると思うから。

どんなストーリーを抱えていても、何に関心を持っていても、どういう性格だとしても、何をしているとしても、ほとんどの人が至福を求めている。それで、ほとんどの場合、至福っていうのはある種の素晴らしい境地 ― 自分が拡がる、あらゆる点で魅力的な境地 ― だと思っている。もしかしたらそんなふうに思ってるのは僕だけかもしれない。僕の場合、自分が追い求めている至福の境地というのは永久に続くオルガスムみたいなものなのかなあと (はっきりとじゃないけど) 空想していた。

そういうのは素敵なイメージではある。

落とし穴でもある。

とりあえず僕の経験で言うと、いま目の前にあることと少しでも違うことを追い求めているあいだは、至福という現実 ― それはたった今、まったくありのままのこれだ ― を見逃していた。

だから、至福を定義しなおしたい。というのも、至福というのはある意味で超越的だったり途方もなかったり特殊だったりする状態のことだっていうお決まりの観念では、僕の経験するような至福の現実性が抜け落ちてしまっているからだ。

おっと、そうは言っても、僕の新しい定義がすぐに受け入れられるなんて思ってない。なにしろ、僕の定義する至福はまるで特別なものじゃないんだから。意識が拡張した状態のことじゃない。いつまでも続くオルガスムとも違う。

そういうことじゃなくて、僕の定義はこうだ。たったいま、まったくありのままのこれ。自分が何を望んでいるかは関係ない。こうだったらいいのにというようなことでもない。実際はこうなんじゃないかなあと思い描くこととも違う。

ただこれ。

そしてついに、これに抵抗したり、なにか別のことが起こるかもとか想像したりしなくなること。というのも本当に、すべてがものすごく単純なのだ。気にいるかどうかには関係なく、たった今起こっているのが恐ろしいことだったとしても (実際そういうことはときどき起こる) 、このたった今はまったく否定できないし、まったく変えられないし、まったくどうしようもなくすでに起こっている。そこから逃げることはできない。これはもう起こってしまってるんだから。

それについて何かをしようとか、解釈しようとか、理解しようとかしたところで、その瞬間には、つかもう、わかろうとしているものはもう消えてしまっている。あるのは、それについての単なる観念や記憶で、それもたった今起こっている。つまり、今、これが今あるものだ。

というわけで、ボーグは正しかった! 抵抗は無意味だ。(そう、スタートレックにちょっと登場してもらった)

とは言っても、ボーグというのは (よく知らない人もいると思うけど、ボーグというのはSFに出てくる「種族」集合体で、人を恐怖のどん底に陥れる。というのもボーグはどんな人も同化して、人間を個々のアイデンティティを失った単なる自動機械にしてしまうからだ) 、抵抗を完全にやめたらどうなってしまうんだろうという恐怖から生まれた空想だ。

でもここで僕が言っている抵抗というのは、いまあるものに対する抵抗のことだ。それがどれだけ無意味かわかるだろうか? いまあるもの、それはいまあるものだ。そこから逃げられる見込みはない。そして、いまあるものに抵抗しなくなると、それまでと変わらない現実が単に明らかになる。抵抗しても現実は変わらない。抵抗は、自分はいまあるものとは別の存在だっていう錯覚の強化につながるだけだ。

意外なのは、抵抗をやめて、自分はこれと別のものじゃないんだということがわかると、生きてるってことの創造力と表現が本当の意味で可能になるってことだ。実際は、それはいつでも起こっていることだ。でも抵抗が止まったとき、いまあるものがはっきりとしてくる。

それに、抵抗しなくなったとしても自動機械になるなんてことはない。単に、ずっとそうだったことが明らかになるだけだ。つまり分離している自分というものはないし、これがあるだけ。だから、自動機械になるもなにも誰がですか?っていう話だ。

ということで、僕らが探し求めている至福は本当の至福じゃなくてただの幻想で、そのせいで幻影を追いかけ続けるはめになってしまう。

本当の至福は、僕の経験から言うと、真の意味での休息だ。いまあるものへの対抗が終わること。これが存在するすべてだってことを絶えず発見し続けること。それからそれ以上に、存在するあらゆるものが、自分であるこの無限の生へとずっと還り続けているということを発見し続けるってことだ。

それと至福は、ときどき現れる恐怖のような姿で現れたり、そう感じさせたりすることもある。病気。苦痛。暴力。そういうことは起こる。

僕らが追いかけている至福という虚構の幻影には、その境地に到達してずっとそこに留まり続けることができれば、生のあらゆる恐怖から守られることになるという保証がついている。病気も苦痛も暴力も、きれいさっぱりなくなりますよ、と。

けっこうな空想だ。

でも実際、もっとよく考えてみると、至福という空想が成立するためには、生そのものの直接性、生々しさ、まったくの予測不可能性から隔てられ、切り離されている必要がある。

というわけで、僕らが本当に求めているのは、じつはすでにここにあるものなのだ! 僕らが本当に求めているのは、つながり、全体性、包括性だ。僕らが本当に求めているのは、直接性、生々しさ、自発性だ。僕らが本当に求めているのは、まったく今あるとおりにあって、これがどんなものだろうとその無限性を果てしなく発見しつづける自由だ。

そう、それが至福だ。まさかと思うかもしれないけど。

正真正銘自分自身で経験したことによって僕が完全に確信しているのは、なにか別の至福、ここではないどこか、別の場所でいつか別のときに見つけることになる神秘的で魅惑的で意識が拡大する至福、それを手にすれば自分は完璧になってすべてはいつでも思いどおりに進むことになるような至福を追い求めること、そういう空想を追いかけるというそのこと自体がいわゆる苦しみだってこと。本当に。

つまり、苦しみの終わりは、至福という空想を追いかけるのを止めることだ。苦しみの終わりは、自分が追いかけ続けてきたのが幻影だったってこと、そのせいで疲れ果ててしまった上でに何も手にできなかったという事実を認めて自分をごまかさないということだ。それから、追いかけるのをやめて、何が起ころうと進んでそれに向き合い、直視し、迎え入れること ― 真の至福がたった今ここにあるという現実に気づくことだ。

で、平板な感じを感じたら、さらにもっと迎え入れ、手放し続けよう。もし気が抜けているとか無慈悲だとか冷たいとか感じられるのなら、手放し続ける。あらゆる防御を手放す。もしからっぽで虚空のような感じがしたら、もうすぐ、ほんとうにもうすぐだ。なにしろそれはからっぽさそのものなんだから。虚空そのものだ。でもそこにはもっとはるかにたくさんのものがある。というのも、それは自分がこれまでに求めてきたものすべて、これまでに拒否してきたものすべてだからだ。そのすべてだ。それは具体的な何かじゃない。全体性だ。だから、それがからっぽであるあいだは、そして本当の至福をあともうすこしで見いだせそうなときは、それからからっぽさが至福のように感じられることがあっても (実際そうだからだけど) 、手放し続け、迎え入れ続ける。進んですべてを失おう。どんな状態になってもそれを進んで手放すこと。至福の境地もだ。本当に求めている至福はどんな境地でもないんだから。どんな感覚とも違う。そういうものをすべて含んでいる。そしてそのからっぽさすら通り抜けてしまったとき、自分は手放すことそのものだってことに気づく。すべてがその中に消え去る無限性、それが自分だ。拒まれるものなど何もない。これが本当の至福だ。でもそれはこれとまったく同じに見えるし、同じ感じがする。たった今のこれと。

== 訳は以上 ==

ガツンと来る文章だ。勢いがあって、遠慮がない。遠慮がないのに、愛がある。落ち着きどころはひとつしかないんだと思い知らされる。

ジョーイ・ロットは記事をたくさん書いているから、もう少し訳してみることにしたい。

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至福と「至福」 ジョーイ・ロット」への9件のフィードバック

  1. ヒロさんこんにちは。
    言葉という記号でここまで直接的でシンプルに、しかし具体的にも表現できるというのはすんごいですね!
    すんごい人見つけちゃったヒロさん。
    今年はびっくりすることが多いです(笑

  2. というか、やっぱりヒロさんの翻訳センスがすんごいのだと思いマス。
    わかっちゃった人のレビューでも書かせていただきましたが、ヒロさんの訳は語り手の人間的な香りまで伝わってくるところがすんごい。

  3. なんか幻想を打ち砕くというか、
    言いきっちゃっているのが、
    気持ちがいいくらい良いですね。
    是非他の記事も読んでみたいです。

  4. 青雀さん、このジョーイという人、なかなかすごいですよね。直接的な表現というのは文字にしてしまうと無味乾燥になりがちですが、この人の書くものは非個人的な広がりと強い個性的な香りが両立していて、見事です。

    原文の勢いを殺さないようにとだけ気をつけて訳しましたが、褒めていただいてとても嬉しいです。いつもブログの写真を拝見しながら「この写真を撮ったときは、すっかりからっぽ(撮る人ではなくて撮ることそのもの) になってたんじゃないかな」とか勝手に推測しているのですが、このBlissという文章は多分それにちょっと近い感じで訳せたのかもしれません。

    KOJIさん、もう一つか二つは訳してみようと思っていますので、お楽しみに。

  5. ヒロさん、こんにちは。
    このジョーイ・ロットという人の「至福」、すばらしい文章ですね。青雀さんがおっしゃっているように、言葉でここまで表現できること自体、驚きです。アメリカってすごい国だなと思ってしまいました。アメリカの絶望がそれほど深いということでしょうか。それにしてもヒロさんのアンテナはよくこんな方を見つけてきますね。(^^;) そしてそのニュアンスを見事な日本語に移してくれて。
    これからもよろしくお願いします。(-||-)
    Love   pari

  6. pariさん、こんにちは。コメントありがとうございます。

    彼のKindle本を何冊か読んでいるのですが、非常にシンプルな言葉づかいで短いページ数で、どれも説得力をもって迫ってきます。

    アメリカはいろいろな意味で極端なものが現出しやすい土壌なのかなとも思いますが、単純に英語だからリーチが簡単ということなのかもしれず、よくわかりません。フランスやスイスでも「ニューウェイブ」、「ネオ・ネオ・アドヴァイタ」とも言うべき人たちが現れているようで (日本ももちろんですが) 、興味はつきません。

  7. ヒロさん、いつも素晴らしい訳をありがとうございます!

    今回のジョーイ・ロットさん、今まで読んできた文章の中で一番衝撃的でした。読んでいて勝手に意味不明の笑いが止まらなくなりましたwwwww

    これからもヒロさんの訳を楽しみに拝読させていただきます!

  8. まつたけさん、コメントありがとうございます。

    一番衝撃的でしたか。意味不明の笑いは本当に意味不明ですよね。僕も昨日彼の本を読んでいて、呆然としてしまったんですが、どこに呆然となったのかよくわかりませんでした。

    意味不明の笑いという点では、J・ジェニファー・マシューズのRadically Condensed Instruction云々という本が僕にはいちばんツボなのですが、その本の邦訳は夏前には出版される予定になっています。まつたけさんには是非読んでほしい本です。

  9. ヒロさん、お返事ありがとうございます!

    実は「わかっちゃった人たち」も読みたいと思っているうちに売り切れてしまったので、増刷ということで本当にうれしいです!
    ジェニファー・マシューズさんという方も知らなかったのですがヒロさんにおすすめしていただいたことがなにかの縁だと思うので是非読んでみたいです!

    最近は本当に一気に非二元論ブームが日本に来てるみたいですね。ほんの一年前くらいまではそういう情報を探してもヒンドゥー教のおなじみのグルか、それこそヒロさんのブログでしか聞いたことがなかったような人たちの本が、にわかにぽこぽこ出版されているみたいで驚きました。

    でも変な話そのとき同時に思ったことなんですが、それまではほとんど脅迫的に「新しい本が出たら読まなきゃ!」って思っていた気持ちや執着がなくなっていました。憑き物が落ちたみたいでした。

    とはいえヒロさんの訳となぜヒロさんがその本を訳したのかというチョイスの部分は個人的に勝手に信頼させていただいておりますので、「もう思い残すことはない」とのことですが「まだちょっと早い」という気持ちは僕も同じですwwwwwwww

    これからもヒロさんのブログや訳してくださる本を楽しみにしています!

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