自分は本当は誰か 後半 ハーディング (7)

 
Raptitudeのダグラス・ハーディング紹介記事を訳すシリーズの続き。

原文: Who You Really Are part 2 (Raptitude)

== 以下、訳 ==

本当の自分 後半

これは前後半に分かれた記事の後半だ。前半部分では、自分というのはマインドでも体でもなく、マインドや体 (それと他のもの全部) がその中に存在している気づいている空間だってことを説明した。まだの人は、文脈が理解できるように、まずは前半を読んでみてほしい。

***

自分というのはあらゆることがその中で起こる空間だってことが本当だとしたら、そういう空間が存在していることに普段気がつかないのはどうしてだろう? 存在しているのはものごとだけだというふうにしか感じられないのはなぜだろう? その空間が自分だというのが本当なら、もっとはっきりと実感できてもよさそうなのに。

でもそうとも限らない。考えてみればわかる。自分は空間だ。自分がその空間に気がついてないというのは、単に空間が空間に気づいてないってことだ。それでも空間は、空間の中で起こっていることには気づいている。気づいている主体は何なのかってことには気づいてなくても。これは重大な見落としだけれど、人間にとっては普通の状態でもある。つまり、普通僕らは形やものと完全に一体化している。

通常僕らは、目に見えるいろいろなことがその中で起こっている空間を意識したりはしない。だから、自分というのはいつかは消滅することになる目に見えるもののひとつか、その組み合わせなんだと信じて疑わない。僕らが普通自分だと思っているそういうもの、もしくはその組み合わせは、自我と呼ばれている。

すべてを (自分の自我をも) 包含している空間を見落とすと、ものの中で自分を見失ってしまう。自分自身を見失って、ものがあれこれ動いている劇だけしか存在していないように思えてくる。ものが至高の価値を持つようになる。自分にはものしかないのだから。

これは残念なことだ。というのも、ものはそれが何であれその本質から言って消える運命にあるからだ。ものに囲まれているのは気分がいい。でも、ものははかないし、いつかは滅びる。だから当然だけど、ものと一体化してしまえば不安をずっと感じ続けることになる。ものはどれもいつかは消える ― 間違いなく、議論の余地なく、消滅しつつある。そして僕らはどこかではそのことに気がついている。人生が、死ぬまでのあいだにいろんな物質をできるだけ望ましい形に整えるという単なる競争になってしまえば、勝てる気はしなくなる。実際、勝てない。

ほとんどの人がそういう生き方をしている。なんともならないほど思考と一体化してしまって、人生はものの寄せ集めにすぎないし、自分もそういうもののひとつなんだと思いながら。

自我を意識したときはいつでも自我との一体化から離れる。自我を自我として認識していなければ、自我と自分がごっちゃになって、自分は本当は誰なのかがまたわからなくなってしまう。

ここで実際に起こっているのは、まず思考イコール自分だと主張する思考、そして自分というのは被造物のひとつにすぎないと主張する思考がやってきて、そういう思考が (それから他のいろいろな思考や形も) その中で起こっている空間のことを意識できない状態が続くという事態だ。そうなると、そういう思考がどんなことを言っても、それを額面どおりに受け取ってしまう。そういう思考が自分なんだと思っているからだ。ほとんどの人にとっては、ここが大きな引っかかりどころだ。自分は思考じゃないんだということを認められない。頭の中の声は自分じゃないとか、その声は信用できるとは限らないなんてことは想像もできない。

それは実際には自我の声で、いつまでも居座り続けながら勝手にいろんなものと結びついている思考の集合体で、いくつもの概念で自分というものを定義づけようとする。僕は29歳で、一般的な事務職で、ジムほどじゃないけどアルよりはよく働いて、立派な将来計画はあるけど実現できるのかどうか心配していて、今日は職場で恥をかいて、普段休憩をとることはなくて、バックで運転するのが本当にうまくて、人見知りで、ダンスが苦手で、食事は健康的で、お金はあるけど使い方は下手で、子どもたちは行儀がよくて、今履いてるようなジーンズなら見栄えがするけど、ああいうのを着ているとダサく見える・・・

これは、明けても暮れても繰り返される、自分や自分のものについての思考にほかならない。考えることを続ける中で人生を通じてずっと変化し、時間とともに恐ろしく複雑なものになる。思考を管理するというのは悪夢だ。実際、それは不可能だ。でも、自我をありのままに認識しないかぎりは ― それが移ろいやすい思考の集合体だってことに気づかないかぎりは ― 、思考をどうにかしようとして一生を費やすというのが僕らの運命だ。自我の正体がわかると、離れたところから眺めることになって、それと同一化したままでいることはできなくなる。

瞑想の達人とか内省を習慣にしている人なら、自分は頭の中のおしゃべりじゃないってことにいつかは気づく。頭の中のおしゃべりをしばらく観察してみれば、それがいきあたりばったりでとりとめのない意見製造マシンだってこと、それから絶対に黙ることもなければ、自分が置かれている状況についてのありのままの評価など全然期待できないってことにも、すぐに気がつく。「モンキーマインド」と呼ばれることも多い。何度も瞑想セッションを繰り返さなくても、音を聴いたり自分の息に注意をむけたりするのと同じように頭の中のおしゃべりも観察できるようになる。それは自分の気づきの領域の「どこか」にある何かで、いろんな形と同じように観察することができる。つまり、頭の中のおしゃべりは自分じゃない。

これは信念の入れ替えとは違う

この事実は何千年も前から知られてきた。それを他の人たちに教えるのが上手だった人たちは、歴史上もっとも有名な存在になっている。

そういう人たちについてエックハルト・トールが言ったことを紹介しよう。

あなたが見ているもの、聞いているもの、感じていること、触れているもの、考えていることは、言ってみれば現実の片面にすぎません。そういうものは形です。イエスの教えでは、そういうものは単に「世界」と呼ばれていて、もうひとつの面が「神の国」です。

僕の知っている範囲での話だけど、形、空間、そして意識の進化がもたらす人間の性質についての教えを誰よりも明確に曖昧さを最小限にしてまとめたのがトールだ。この記事に少しでも関心をもった人でトールの本をまだ読んでない人がいたら、読んでみてほしい。

宗教という情報源から学べることはたくさんある。といっても、それは ― 宗教のストーリー、ドグマ、象徴 ― の中で迷子にならなければの話だ。宗教があまりにも形式にはまりこんでしまっているせいで、このメッセージを宗教の中で見つけ出すのは至難のわざだ。でもたしかにあるのは間違いない。

自分というのは空間なんだと無理やり納得しようとしなくてもいい。自分とは誰かってことについてこれまで教わってきたことと全然違うし、誰でもそこにすぐに意味を見いだせるってわけでもない。無理に納得しようとしなくても、気づきさえすれば自動的にわかってくる。納得しないとだめだってこともない。これは自分の意見を変えるってことじゃない。単に、気づく機会を増やすってことだ。ほとんどの人は、気づいている状態と、形と一体化している状態を行ったり来たりする。そうしているうちに、気づいている時間がしだいに長くなって、気づく頻度も増えていく。

空間の中にあるいろいろな対象に没頭するかわりに空間そのものに注意を向けていると、すべてがあるべき場所にあるってことに突然気づく。ものごとのありよう全体が、完璧な美しさを帯びる。ものの中で迷子になっていると、自分にとっていちばん貴重なもの ― 自我 ― にとってどんな価値があるかという観点からしかものごとを見られない。

「わざと死んでみる」の記事で、自分が今いる場所に自分がいないところを思い描いてみたときにどんなことが起こるのかについて、ちょっとヒントを出した。瞬間瞬間をありのままに見ることができるようになるのだ。自分に役立つのか、役立たないのかという観点から評価したりしないで、ありのままに見られる。これが自我を離れた気づきで、自我を離れた気づきの瞬間はいつだってどんなことも不都合には感じない瞬間だ。それは、望ましくない状況に頭を悩ませるような「自分」がそこにいないおかげだ。これが、神秘主義者や賢者が語っていた宇宙の本質的な美と完全性だ。一回も経験したことがない人にとってはまったく意味不明だろうけど。

これは比喩じゃない

前の記事では、空に浮かぶ星々のあいだの空間を、僕らの本当のアイデンティティである気づいている空間にたとえた。星のあいだにある空間は、僕らの真の姿である気づいている空間を表す完璧な比喩のように思える。ただ、これは比喩じゃない! たとえ話ではまったくなくて、本当に同じものなのだ。そのはずだ。このふたつには違うことがありえるような性質が何もない。違ったりできるための内容が何もないからだ。からっぽで、どんな形もその中に存在できて、何がその中で現れたり消えたりしてもそれ自体は変化することも傷つくこともない。永遠で、時間を超越している。

そして空間には気づく力があるってこともはっきりしている。その中にあるものごとに気づくだけじゃなくて、最後にはそれ自体の存在に気づく。

これは少しとっぴに聞こえるだろう。普通は空間は生きてなくて、自分で動くこともないし、感覚もないと思われている。どうやったら空間がそれ自体に気づくなんてことがありえるだろう?

形を通じてだ。

空間は形を生む。これがどう起こるかを科学的に説明した現代の理論はビッグバンと呼ばれている。それが真実かどうかはわからないけど。何十億年もかかったけれど、地球上で形が意識を生じさせた。そういう形のうちのひとつが、僕らが鏡を覗いたときにそこに映っているものだ。人間は意識をもっている形で、人間には空間そのものに気づく能力がある。

形を道具として使うことによって、空間は空間自体に気づくようになった。そして僕らの今がある。

ほぼすべての人が、空間 ― 僕らの本質 ― にほとんどの時間は気づいていない。僕らは今、あちこちで人々がすこしずつ空間に気づきはじめるという進化の段階にいる。中には形との同一化から完全に脱した人たちもいる。悟っているとか、解放されたとか言われる人たちだ。数人だけ名前をあげれば、イエス・キリスト、老子、ブッダはそういう人だったと思う。でも今ではもっとたくさんの普通の人たちがそれほど間隔を空けずに空間に気づくようになってきている。本人はなにが起こっているのか自覚してないかもしれないけど。

宗教の役割

世の中の宗教は想像力豊かな何人かの叫びだ。
ラルフ・ワルド・エマーソン

宗教は、このメッセージを取り囲むようになったいろいろな ― ストーリー、制度、規則、神話、因習、政治的理念、偶像、象徴 ― の(人を惑わせることの多い)集合体だ。

いま世界に存在している宗教は、自分が本当は誰なのかを人々に気づかせるという点について言うと、大した成績は残していない。もともとはどの宗教もそのことを意図していたんだと僕は本当に信じているけれど。人間は形と同一化しようとする (そして、形がその中で起こっているからっぽさを見落としてしまう) 傾向がすごく強いから、そのせいで主な宗教はどれも信念、道徳、封建的な忠誠、その他いろいろな思考形式に取りつかれてしまって、もとのメッセージはすっかり失われてしまっている。

教えが広がるにつれ、組織が作られていった。どの組織もそうだけど、宗教の組織も形だけに集中するようになった。そのことは、大聖堂の過剰な装飾、中世の教会がためこんだ莫大な富、まったくばかばかしい罰と恐れの強調、ある種の超自然的な独裁者としての神のイメージ、宗教への疑問に対する悪魔扱い、科学の進歩に対する頑迷な反対といったことを見れば明らかだ。

教会は、物質や世俗的権力を蓄積する上での見事な手本になった。ほかの何よりも、教会は信条や思考と同一化することを人々に勧めてきた。そのことで、形の世界以外のことに気づくのがものすごく難しくなってしまった。

自分は対象じゃなくて、〈主体〉だ

またトールの登場。

空間意識の立ち上がりが、人類の進化のつぎのステップです。空間意識というのは、ものごと ― 五感を通した知覚、思考、感情にかならず帰結するもの ― を意識するにとどまらず、底を流れている気づきというものがあることにも気づいていることです。気づきとは、ものごと (対象) を意識するだけではなく、意識しているということ自体も意識しているという意味です。

ダグラス・ハーディングの手法は、普段の僕らがそうであるように対象にしか気づかないかわりに、〈主体〉に気づくようになるための簡単な方法だ。鏡の中の顔は自分の自我の顔で、それは対象だ。見ている側にある明晰で気づいている空間が〈主体〉で、それが本当の自分だ。

無意識の行動というのは、空間に気づかないでものや形と一体化しているときに起こることだ。ものごとが起こる空間に気づかず、ものごとだけに意識が向いていると、人生は形や概念や感覚的なものの戯れを操ろうとする絶望的な試みになってしまう。金、権力、地位、満足感、いろいろな形だけが、生きる動機として認識される。でもそういうものは全体像の一部にすぎない。

僕らは思考の中で自分を見失い、形の中で自分を見失っている。鍵をにぎっている側面である空間に気づいていなければ、全体は見えない。全体像が見えていないことが、人類のあらゆる問題の元凶だ。もっと効率的にお互いを殺したり、人類を養ってくれる地球の力をだめにしたりするための方法を血眼になって探したくなる理由など、それ以外にありえるだろうか?

悪? 「悪い性質」というような、人々を (たいていは他人を) 堕落させている怪しげな性質がその理由? 悪という概念は、人類がとてつもなくひどい問題をこれほど手際よく自分たちにもたらしている理由を説明するには、説得力に欠けているし根拠が薄い。

全体像が見えていないというのが人類の現状ではあるけれど、僕らはすごくゆっくりとそれを乗り越えようとしている。

***

気がついてみたら、これも長くて重くて呑み込みづらい記事になってしまった。何か意味を感じた人がいても、吸収するのにはちょっと時間がかかるかもしれない。このシリーズを書き続けてほしいという声をコメントやメールですごくたくさんもらっている。でも全員がこれを気に入っているわけでもないってことはわかっているから、今後はもう少し短かめにもっと間隔を空けて書いていこうと思う。

もしかしたら、気づきを深める具体的な手法がこの記事には書かれてないってことに気づいた人もいるかもしれない。それはトピックとしてはすごく大きなもので、いつかここでも書くことになるとは思うけど、自分自身で調べてもらうのがベストだ。この話題についてはブログ記事をいくつか読んだらもう充分だよってほどの興味しかない人が、ここから少しでも効果を得るってことはないだろうけど、関心をかきたてられた人が何人かいてくれたらいいなあとは思う。

エックハルト・トールの本は、この教えをわかりやすい言葉で見事に表現していて、取っかかりとしては最適だ。それ以外のおすすめが知りたい人はメールかコメントで聞いてほしい。

もうひとつ。ブログ読者のTom Kがコメント欄で素晴らしい講演のことを教えてくれたんだけど、これは僕がしてきた説明よりもはるかに優れている (僕よりもずっとずっと先まで話は及んでいるけれど) 。この講演には圧倒された。同じように感じる人もいると思う。6つのMP3ファイルに分かれている。

その1 2 3 4 5 6

このシリーズを読んでくれたことに感謝したい。なにか得るものがあったならいいんだけど。このずっしりした宇宙規模の話はしばらくはお休みにして、来週からは別の話題に移ろうと思う。よい週末を。

== 訳は以上 ==

キンズローさんの『クォンタム・リヴィングの秘密』にある空間ウォーキングと似ている要素もある記事で、面白い点もあるけれど、個人的にはあまり好きじゃない。というのは、進化云々とか、社会問題がどうこうという感じのストーリーが前面に出過ぎている感じがするからだ。思考との同一化の弊害を強調しすぎるのも思考との同一化の産物じゃないの、と反応してしまう。

ただ、ハーディングの実験を実際にやってみようと思わせる力という点から言えば、このシリーズはかなりのものだと感じる (だから訳したわけだけど) 。

なお、記事のおわりの方で紹介されている講演は、Alan Wallaceという人が2008年にカリフォルニアで「The Conscious Universe (意識をもった宇宙) 」という題名で行ったもの。仏教と物理学の融合という、いかにもカリフォルニア的 (ちょっと前かもしれないが) なテーマ。聴いていないけど、ダグラス・ハーディングの主題からはちょっと外れているかもしれない。

この記事のあと、Raptitudeではダグラス・ハーディングに直接触れる記事は書かれていなかったが、間接的にはいくつかの記事に登場している。だが、訳して紹介するのは、いったんここで終わりにしたい。

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自分は本当は誰か 後半 ハーディング (7)」への7件のフィードバック

  1. 初めまして、いつも楽しく読んでます。
    「ユーフィーリング!」「わかっちゃった人たち」「クォンタム・リヴィングの秘密」
    読みました。
    エックハルト・トールの本以外のおすすめが知りたいです、
    よろしくお願いします。

  2. 西嶋さん、はじめまして。訳書を読んでいただいて、ありがとうございます。

    この記事の「おすすめの本」をきいてほしいという部分は、原文の中で書かれているものですが、この記事原文のコメント欄ではひとりだけ尋ねている人がいて(トールの本はどれがいいか?) 、その答えはパワー・オブ・ナウよりニューアースのほうが難しくないからおすすめだ、というものです。

    ダグラス・ハーディングの本については、Raptitudeでは一貫してOn Having No Headをすすめているようです。残念ながら日本語版 (『心眼を得る』) は絶版ですが。ただ、実際には本よりも実験をすることをRaptitudeの記事でも強く薦めていますので、本は実験で何かを見てからでもいいのかなとは思います。

  3. ヒロさん、ありがとうございます。
    昨年、髙木悠鼓さんの「私とは本当に何かを見る」ワークショップ
    参加しました。
    ニューアース読み返してみます。

  4. こんにちは。ダグラスハーディングの記事を読ませていただきました。
    私も2年程前にダグラスハーディングを知り、一時ハマっていましたが、
    しばらくしてわかったことは、思考に気づいているもの、空間意識 といったもの、それこそがまさに自我であり思考だということです。気づく、観察するということは、事実が起こった後、それを間髪いれずにフィードバックして見るというもうひとつの思考作用ですね。そこがはっきりしていないと見ているもの聞いているものとは別にそれをみている本当の自分がいると考えてしまいがちです。本当はそんな余計なことはしなくてよかったんです。思考に巻き込まれている時は思考だけであり、音をきいている時は音だけなんです。音を見ている主体なんて妄想だったんです。ですからダグラスのいっていることとは反対ですが、自分とは音を聴いている主体ではなく、音そのものです。思考している時は思考そのものです。それ以外ありません。ですから思考を観察しなければ、とか、空間意識に気づいていなければといった余計なことが一切いらないとはっきりします。どうこうしなくてもいつでも本当の自分自身ですから本当に楽になります笑。もちろん思考を観察したい時はすればいいのですが。

    と長文失礼しました。

  5. はじめまして!偶然にハーディングを識り、実験を体験。指の二方向実験の体感で空間を感じ、眼が覚めました。

    この文章を感じた瞬間にこれまでの疑問がすべて氷解しました。ありがとうございます。

  6. オショーさん、はじめまして。

    氷解とは、気持ちよさそうですね! Raptitudeの記事は、実験をやろうという気にさせるという意味では、とても優れている気がします。

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