自分は本当は誰か 前半 ハーディング (6)

 
ブログ Raptitude のダグラス・ハーディング紹介記事を訳すシリーズの続き。(予告編その1その2その3その4その5)

原文: Who You Really Are (Raptitude)

== 以下、訳 ==

本当の自分

さてこの記事は、あの有名なうさぎの穴をくぐり抜ける旅の最後のひと押しになる。今回の旅では、自我とは何か、それから、すごく重大な問い ― 自分とは本当は誰なのか? ― の答えを探すときに今は亡きダグラス・ハーディングがどう手を貸してくれるのかってことをここまで見てきた。今日は、前後半に分かれている記事の前半部分だ。

***

そこで何をすることになるのか、僕は知らなかった。10月のことだけど、ある島にあるホーリーホックという名前のリトリートセンターに僕は到着した。仏教について教わる5日間のコースに参加するんだと思っていた。でも実際には、5日間ずっとマインドフルの状態でしゃべらずに過ごしながら、決められたやり方で毎日6時間から8時間も瞑想をすることになったのだった。

メインホールでの始まりのあいさつの後、指導役に連れられて僕らのグループは森の中にある瞑想小屋へ歩いていった。そこへ行く途中、指導役の彼は僕らの足を止めて、上を見るように言った。静かで晴れていて、都会から来た僕らのような人間が見慣れているよりもはるかに暗い夜だった。生まれて初めて見るような星空。

「気づいてください」 僕らが黙って上をじっと見ていると、指導役の彼は言った。「自分が見ているということに」

そして、もういちど同じことを言った。僕はそのとき星空に夢中になっていたんだけれど、彼の言葉が耳に入ってきたとき、こう思ったのを覚えている。「え、そんなの当たり前でしょ」 もちろん僕は自分が見てるってことに気づいてるさ。気づかずに見るなんてこと、あるわけないじゃないか。

そのすぐあと、彼の言葉がもういちど僕の頭の中で繰り返されたとき、彼の言っている意味がわかった。このとき初めて、普段は自分が見ているものにしか気づいてないってこと、それと、自分が見てるってことをまったく当然だと思っていたことに気がついた。意識は、存在している中身に没頭していて、存在しているというそのこと自体には向けられていなかったのだ。そのとき、そもそも見ることができるものがそこにあるってこと自体がすごく妙だ、という考えが浮かんだ。もっと変に感じたのは、何かを見ている何か ― どうやらそれは自分だ ― があるってことだった。ものごとがこんな感じになってるのは奇異だなとか、奇異とまではいかなくても不思議だなと、それまで一回も思わなかったのはなぜなんだろう。

その瞬間、星がリアルさを増して、存在感を際立たせた。星の見かけは何も変わってないのに。それはなんとなく、一本の木の写真に見とれていたらそれが本物の木だったことに気がつくような、そんな感じだった。この体験に強い印象を受けたのは間違いないけれど、それが何につながるのか、その場ではわからなかった。

座って学んだこと

つぎの日にはわかるだろうと思っていた。二日目の晩、僕らは森の中にある温かい円形の小屋で黙って座っていた。

何時間も座り続けるのは疲れる。起こっていることをただ見守るということをするわけだけど、相当いろんなことが起こっている。いつもは音楽や運転やテレビで気をまぎらわせているけど、そういうことをしないでいると、自分の体や頭が実際どれだけいろんなことをしているのか、いやでも気づかされる。いっぺんに起こっている数十もの感覚の混沌で意識がいっぱいになる ― 膝の痛み、クッションに接している尻の重み、出ては入る息、かゆみ、うずき、一度もまともに意識したことがなかった摩訶不思議な消化プロセス。

それから思考! 思考の群れが押し寄せる。騒々しいし、押し付けがましい。それに、いつまでたっても途切れる気配がない。

あまりにもたくさんのことが起こっていて、気づき続けるのに苦労する。起こっていることの中ですぐに自分を見失ってしまう。気がつくと、一週間前に友人とした議論を想像の中で漠然と続けている。そのときに言っておきたかったことを、今になって空想の中で言う。

そしてパッとそこから出る。おっと。気づいてなくちゃ。呼吸に注意を向け直す。ちょっとのあいだ、完全にそこにいる。

そのうち膝がもっと痛くなってくる。そしてその感覚に注意を向けて、頑張って観察する。固い場所にずっと座り続けているせいで、ますます膝がきつくなる。そのうちズキズキしはじめるんじゃないかな。前のセッションのときもそうだったし。姿勢をちょっと直したいと思っていることに気づく。そして無意識に体を動かしそうになって、たじろぐ。動かずにじっとしてなくちゃいけないんだった。家に帰ったらもっとマシな瞑想クッションを買おう。それから自分に言い聞かせる。空調の温度設定を下げておくのも忘れないようにしなきゃ。この部屋、かなり暑くなってきたよ…

…という感じで、また思考に没頭してしまう。呼吸に注意を戻し、今度こそずっと気づいたままでいるぞと誓う。そんなことをしばらく繰り返していると、こういう感覚や思考は絶えず行ったり来たりしていて、絶対に消えたりはしないってことに気づかざるを得ない。起こることは何でもどこからともなく自分の意識にやってきて、それを観察していると質感や強さが少し変わる。そしてそのうち薄れていくか、別の何かに押しのけられてしまって、影も形もなくなる。痕跡はないし、すでに別の思考とか別の感覚とか場合によっては思考や感覚の大群がそれにとって代わっていて、前に何が起こっていたかなんて思い出せない。

1時間の瞑想セッションのあいだ、大量の奇妙なものごとが意識を歩きまわる。それは筋も何もない大げさでわけのわからないショーで、絶えず形を変え続けていてわかりづらい。

ホーリーホックでの一週間の瞑想をとおして、人生の本質について僕は二つの大きなことを学んだ。

その1: 人生で経験するどんなことも、絶えず変化を続ける思考と感覚の組み合わせにすぎない。 現れ方の組み合わせは無限で、どんな形もつねに別の形に取って代わられる。どの時点をとってみても、存在しているのは五感と思考の単なる組み合わせだ。

その2: 現れるあれやこれやの中では信じられないほど簡単に自分を見失い、その結果〈その1〉を忘れてしまう。

その意味では、人生はそのすべてが「ものごと」の絶え間ない交代にすぎないように思える。ウィンストン・チャーチルが言ったように「人生とは、ろくでもないことの連続にすぎない」。

目を閉じて座っていれば、そのことはまったく明らかだ。からっぽのスクリーンの上であらゆる種類のものごとが起こるのを見ているような感じだ。思考、体の感覚、音、感情。あんまりせわしなく起こるせいで、自分はそれを見てるんだってことを忘れてしまう。くだらないおしゃべりが多すぎて、特に頭の中のおしゃべりだけど、じっとしながらちゃんと見守っているのはものすごく大変だ。立ち上がって雑誌かビールに手を伸ばしたくなってしまう。

でもときには、思考や感覚の狭間にある空間に気づいたりもする。ほんの少しのあいだだけだとしても。実際に、こういうものごと全部が映しだされているからっぽの「スクリーン」を見る (でなければ、なんとなく感じる) 。瞑想セッションを何度も何度も繰り返さなくても、いずれそれを垣間見ることになる。それで、そんなものがあるんだってことに気づく。

それに、もっともな話でもある。スクリーンがなければ映画は見られない。「ものごと」が起こるには、そのための空間がなくちゃならない。

そのスクリーンって何だ?

感覚と思考のこの組み合わせが、自分が生きている70年か80年のあいだ、ひっきりなしに回転して、つぎつぎと入れかわり、絶え間なく他のものに取って代わられているというのは間違いない。それは動きつづけるひとつの大きなシーンで、映画と似ているようにも思えるけれど、映画と違って三次元で、見えるものと音だけじゃなくて味や香りや感覚や思考も混ざっている。

でもすべての行為が起こっている空間 ― それとそれが起こる空間があるという事実 ― は変化しない。空間はいつだって存在している。空間は人生の中でただひとつ変わらないものだ。空間は、誕生してから死ぬまでのあいだずっと存在し続けている唯一の要素だ。

どうだろう。自分の人生をとおしてずっと変わらずにありつづけるものは何もない。自分の体を見てみて、10年前、20年前、30年前の体と本当に同じ体だと言い切れるだろうか? 体を構成している細胞が絶えず生まれ変わっていることは誰だって知っているし、自分の見た目が10年前と違うってことは認めないわけにいかないはず。申し訳ないけど。

言うまでもなく、体だってもので、人生をとおして現れては消えていく。これは自分の体だとか、自分がコントロールしてるんだとは言えるかもしれないけれど、体がそっくりそのまま自分だってことはない。それは喜ばしいことだ。体はただ通り過ぎているだけだし、たいていは下り坂を転げ落ちているからだ。その意味では、体というのは根本的に僕らが運転する車と変わらないし、どこかから聞こえてきたと思ったら消えていく大きな音とも変わらない。違いがあるとしたら、現れて消えるまでのスピードだけだ。

思考もそれと同じで、ものだ。思考には質量がないし、目にも見えない。でも、思考は他のいろいろな感覚とまったく同じように起こる。思考には形がある。特徴もある。だから思考だってものだ。じっくりと観察してみれば、痛み、しびれ、音、皮膚の感覚が起こるのとまったく変わらないかたちで思考が起こっているのがわかる。

あらゆるものは ― あらゆるかたちは ― 、思考にしても身体感覚にしても近所で犬が吠える声にしても窓の外を飛んでいく鳥にしても、気づきの中、境界のない空間の中で起こる。こういうものが存在するためには空間がなければならない。この空間自体には形はない。

宇宙に浮かぶ星のことをもういちど思い浮かべてみてほしい。星には形がある。色があって、熱を出していて、大きさ、輪郭、質量がある。それぞれの活動をして、やがては別の形に変わる。赤色巨星、ブラックホール、超新星。星は空間の中にあって、空間はからっぽだ。

これは逆説のように思える。空間はものじゃなくて、ものがないってことだ。空間はまったく何ものでもない。それでも空間はある。実在している。空間を知覚することもできるし、意識することだってできる。でもマインドが空間を理解しようとしたら、空間とは何でないかという点からしか理解できない。星はその空間の中で生じる。生じるための空間がなければ星は存在しようがない。

でも空間それ自体には何の特徴もない。それでも空間はあり続けていて、空間がなければどんなものもまったく存在できない。

生はもので満ちているけれど、生はもの以上のものだ。生は空間でもある。空間は生の隅々にまで浸透している。空間がないところには何も存在できないからだ。それは、空間は体にも浸透してるってことだ。しばらく前の記事に書いたけれど、体に限りなく近づいていけば、細胞が見えて、それから分子、原子が見え、やがてはからっぽの空間だけになる。

自分とは本当は誰か

人生が空間の中に生じて消えていくだけのはかないものだとしたら、自分とは何なのだろう?

一般的には、自分というのは体で、そこになんらかの形でマインドがくっついていると思われている。でも実際の経験を見てみれば、体もマインドも人生をとおして何回もすっかり変わってしまうってことがわかる。

唯一変わらないのは、ものごとがその中で起こる空間だ。それは思考がそこから生まれるからっぽさで、そのなかで星が存在し燃えていくからっぽさで、これまでに目にしたもの、聞いたもの、触れたもののすべてがそこで起こったからっぽさだ。どんな感覚も、どんな知覚も、どんな思考も、現れては消えていく。そういうものが起こっている空間それ自体には特徴も境界も味も香りも質感もない。無と同じように思える。宇宙みたいに。時間を超えていて消滅することがない。言葉で表すとしたら (言葉が好きな人ならだけど) 、不死だ。

じゃあその全体像の中で、自分って誰なんだろう?

自分とはスクリーンだ。

自分というのはからっぽの三次元スクリーンで、そのスクリーンの上にあらゆるものの中で一番素晴らしいショー (訳註: この記事は英語原文) が映しだされている。自分とは、すべてがその中で起こる空間だ。

自分とは何かってことについてスピリチュアルや宗教の情報源にあたってみれば、その答えは見事に一致している。大昔の賢者も現代の賢者もそれについては同じ見解で、答えはいつでもこんな感じだ。「あなたは気づきだ」、「あなたは意識だ」、「あなたは空 (くう) だ」。

僕自身の経験から言っても、これは瞑想しているときもしてないときもそうなんだけど、同じ結論になる。座りながら起こることを見守っていると、すべての「ものごと」の背景だけが ― ものごとがその中で存在している空間だけが ― 自分の人生をとおして変わらずあり続けてるってことに気づかざるを得ない。それ以外のどんなものでありえるって言うんだろう? 自分がずっと見ていた、変化を続けるはかなくて気まぐれなものごとが自分だなんてことがありえるだろうか?

いまでは「あなたは気づきだ」というのが何を意味しているのか僕には明確にわかる。以前はそれはちょっとかっこいい概念にすぎなかったけれど。別にこれを信じてもらおうというつもりはない。ただ、同じことに気づくかもよ (もう気づいてるかもしれないけど) と言ってるだけだ。そんなことを言っているあいだに、自分で確かめたくなってる人もいるかもしれない。

ダグラス・ハーディングの頭のない方法に僕がこれほど夢中になっているのは、それが、賢者たちがずっと曖昧で神秘的な言葉で表現してきたからっぽの空間を実際に自分で体験できて、そこから生きることもできるすごく簡単な方法だからだ。まだちんぷんかんぷんな人も大勢いるってことはわかる。でも、ハーディングの手法に価値を見いだした人なら、頭のない方法が、本当に本当の自分、つまり永遠で不動の気づいている空間がわかるやり方をはっきりと示してくれるってことを知っている。この方法を知っていれば、ものごとの中で自分を見失ってしまったことに気づいたら、いつでもそのからっぽさにつながることができる。

これが唯一の方法だってわけじゃない。この記事のまとめの部分に書くけれど、このことは本当にすごく長いこと知られてきた。

ここまでが、前後半に分かれた記事の前半部分。後半に続く。

== 訳は以上 ==

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自分は本当は誰か 前半 ハーディング (6)」への4件のフィードバック

  1. 空間、という言葉に出会って嬉しかったです。
    本を読んでも、あなたは気づき、意識だ、という言葉にしっくりこず、自分は何か間違っているのだろうかなんて思っていました。
    おかげで大きく前進できそうです!

    訳してくださってありがたかったです。

    ハーディング、グレッグ・グッド、ショーイ・ロットに大いに惹かれています。

  2. 追伸すみません(笑)
    この、Who You Really Are (Raptitude)の気づきのプロセスがまさに自分に重ね合わさったことも大きかったです。
    気づきがより深まったと思います。
    ありがとうございました!

  3. youさん、コメントありがとうございます。

    たしかに気づきとか意識とか空(くう)といった言葉にはいろいろな余計な意味がくっついているので、スペース(空間)のほうがニュートラルでいいのかもしれませんね。

    ハーディングの実験の会に出たとき、自分は気づいている空間以外のなにものでもないんだ!とびっくりしました。ものや人や意味や言葉はその空間の中で現れるという教えは何度も聞いていましたが、自分で見るのは全然違うことだったので、このRaptitudeの記事のおかげで実際に見るということに真剣な興味が持てたのは僕にとってもすごくありがたかったです。

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