節分の日のもろもろ

 
しばらく続けていたある本の翻訳がとりあえず終わって一段落した。

フランク・キンズローさんの『クォンタム・リヴィングの秘密』がもうすぐ発売される。『ユーフィーリング!』等と合わせて、訳した本が3冊も出ていることになる。あと1年か2年たてば、たぶん2冊は追加されている。

そのことは、「自分も何者かになった」とか「何らかのかたちで人の役にたっている」というちょっとした自己満足 (これは控えめな表現かもしれない) の源泉にもなるし、「あれ、こんなものだったのか」という妙な落胆の感じにもたまにつながったりする。

そしてその合間に感じるのは、自分の全然関係ないところでものごとが進んでいくという感じ、さらには「自分の関係すること」なんて何もないのかもという感覚だ。

そこには、何かを買うために寄ったコンビニで最近の歌が耳に入ってくるときの、「ああ、こんな歌が流行ってるんだな」と思うときと似た感覚がある。「ああ、いま自分はこんなことをしてるんだね、ふうん」

* * *

この数か月ほど、ついついチェックしてしまうのが、いわゆる金融崩壊についての情報。連銀や日銀の未曾有の量的緩和がいかに破滅的な最期につながるかとか、政府発行の紙幣は過去一度も100年以上続いたことがないとか、先進国の銀行がいかに秘密裏に崩壊への備えを進めているか (でもそれは破局の前では無駄なあがきだ) とか、そんな感じのことだ。

そんな情報をあさっているときは「ああ、いま自分はこんなことをしてるんだね、ふうん」なんていう感覚はまるでない。完全に何かを守りたい何かになっている。

「全部ストーリー」とか「自分というのはストーリーだ」とか、そういう話は全部飛んでしまう。ジョーン・トリフソンの強迫的な指噛みの話を思い出す。

* * *

自分の中の須賀敦子ブームが終わって、ブローティガンブーム (藤本和子ブームとも言える) がやってきている。

須賀敦子のエッセイを読み、それからブローティガン (の藤本和子訳) を読みながら感じるのは、ふたりの表現には、ストーリーとの同一化へのものすごく強烈な重力と、ストーリーはストーリーにすぎないという呆れるほどの突き放し感が無遠慮に同居しているということ。それから、死の影がつねにつきまとっていること。そこで語られているのは人の死のはずだけど、瞬間が瞬間瞬間死んでいること、続くものは何もないという静かで圧倒的な事実が、実際には浮かび上がっている。

* * *

しばらく前に、時間が存在しないことと占星術の関係についての文章を訳して紹介したけれど、それを書いた人に占星術のリーディングをしてもらった。時間が存在しないことを前提にした占星術というものに興味をもったからだ。

内容を見ると、以前みてもらった占星術の内容や、いわゆるスピリチュアル・リーディングの結果とかなり重なるところがあった。人生のテーマという側面から見ると、どれもみごとに一致していたと言ってもいいかもしれない。(結果的には、時間が存在しないということと占星術がどう両立するのかという好奇心が満たされるようなものではなくて、普通の占星術の詳しい版のような感じだった)

それは、ひとりの人間のテーマや運勢をいろいろな角度から見ることなのに、それ以上に、自分というものは情報の連関、連なっている何かの中の相対的な視点としてしか存在できないんだというあっさりした諦めにもつながる何かであったりもする。

10ページ以上にもわたる詳細なレポートを眺めながら、そんなことを感じた。

* * *

と、全然まとまらないが、どうにかまとめようとするマインドの動きを見守りつつ、関係あるのかないのかわからない文を訳して終わりたい。ロバート・ウルフの言葉だ。

====

遍在している現実はすべてとしてあって、そこには分裂はない。それは霧のような均一な粒子の中で漂っているわけではない。どんな場所にも現実のすべてがあり、それはあらゆる場所にいちどにある。そうでなければそれは無限でも永遠でもない。遍在している現実がない時間や空間はまったく存在していないし、過去に存在したこともないし、未来に存在することもない。存在するもののすべて ― 解放をもたらす愛と自由と真実のエネルギー ― が、まさにここに (どこかではない) 、たった今 (そのうちではない) 、まさにこの時点、この瞬間にある。ということは、偶然だが、それはあなたなのだ。それは「いまあるもの」であって、あなたがそこから自分を切り離す方法はない。

====

おわり。

(このあと、Raptitude のダグラス・ハーディング紹介記事和訳シリーズにちゃんと戻る予定)

広告