頭がないこと Q&A ハーディング (4)

 
ブログ Raptitude のダグラス・ハーディングの紹介記事を訳して紹介するシリーズの続き。これは、頭がないということについて、よくある反論や質問とそれに対する答えだ。

原文: Headlessness FAQ

== 以下、和訳 ==

頭がないことについてのQ&A

これは、頭がないことと名づけられたダグラス・ハーディングの自己探究手法についてのシリーズの四つめの記事になる。これ以前の記事:その1その2その3

三つ目の記事では、ハーディングの発見、つまり一人称単数現在形の経験の中では自分には頭がなかったという発見について書いた。素直に先入観を持たずに見てみれば、誰でも同じことに気づくはずだとハーディングは断言する。

どう考えてもこれは途方もない主張だし、疑問もそれなりに出るだろう。引っかかる点としてよくあるものをとりあげる。

要点は何なの?

要点は、自分の本質を経験すること。自分の本質についての考えを経験するだけじゃなく。

自分とは何かというのをとらえるとき、人は思考が主張していることをそのまま受け入れがちだ。つまり、自分は他から切り離された有限の身体で、住んでいる世界と比べるとちっぽけな存在だと思っている。

自分とは誰かということについての考えは、そのほとんど全部が、離れたところから見た姿に由来するもので、それは他の人たちから言われたこととか、鏡や写真にうつる姿を根拠にしている。

数メートル離れたところから見ると、自分というものはたくさんの有限なものに囲まれている有限なものみたいに見える。距離ゼロのところからだと見かけはそれとはだいぶ違うけれど、僕らは自分が自分に実際どう見えるかを無視してしまって、自分とは何かということを直接は経験していない情報源から得た情報を採用しがちだ。そういう知識が集まったものが自我と呼ばれているんだけど、自分とは誰かということと自我っていうのはもしかして別のもの?と疑ったりする人はほとんどいない。そういう知識はどれも、自分とは誰なのかということについての間接的で過去形の誤解につながる情報で、自分が見ているものが絶対に見えないような視点から出てきたものだ。

主なスピリチュアルな教えは、どれも必ず非二元性 ― 自分と自分のまわりの宇宙のあいだには本当の意味での分離はないということ ― を示すことになる。そうじゃないかと思っていたり、そう信じていたり、それが本当だったらいいのにと思っていたりする人は多いけれど、ほとんどの人にとっては非二元性というのは単に興味深い概念のままだ。

「頭のない方法」(「頭のないこと」でもいいが) によって何が可能になるかと言えば、非二元性がはっきりわかるようになる。自分と自分を含んでいる宇宙のあいだには途切れがないってことを実際に見ることができる。このことには、人間関係や、自我が人生に及ぼす否定的影響や、人間の進化など、いろいろなことに関わってくるものすごく大きな意味がある。

意味不明なんだけど?

それでかまわない。ここに書いてあることを読んだだけでわかる人はいないんだから。このブログの記事のほとんどで僕は概念を説明しているけれど、各概念を理解して自分の生活に応用する人たちの役に立てばいいなと思ってそうしている。だから普段なら、概念を理解するには記事を読むだけで済む (はず) 。

このハーディングのシリーズは、ほかの記事と違う。このシリーズで説明しているのは概念じゃない。経験だ。その経験をするかどうかは読む人次第。いちどでも経験すれば (ここで再度念を押すけど、それは難しくもなければ人を選ぶようなものでもない) 、その周辺の関連概念の意味が一気にわかるようになる。でもここの記事 (それにダグラス・ハーディングの著作も) を読んだだけで意味がわかる人はいない。

このシリーズは、記事を読む人にハーディングの自己探究の実験を自分でもしてみようと思ってもらうことだけを目的にしている。頭がないとはどういうことかを思考だけで理解するのは無理だし、そもそもそんなことは意図していない。

実験については、ハーディングの活動についてのすばらしいウェブサイト The Headless Way (頭のない方法) にそのすべてが掲載されている。 http://www.headless.org/ (日本語ページ)

そんなこと言ったって、自分に頭があるのはわかってるし

僕も自分に頭があるってことは知ってるけど、それはいま自分のいるところから自分の頭が見えるってことじゃないし、いま目の前にある証拠だけを元にして素直に見たときに、他の人たちにあるような頭が自分にもあるという結論をくだせる可能性があるってことでもない。いま僕にたしかに見えているのは、巨大な空間、境界がなく、すべてを ― 頭以外の自分の体も ― 含んでいる空間で、それは自分の肩の上の真ん中にある。それは明晰さそのものだ。

僕は他の人じゃないから、他の人が自分を見たときに何が見えるかは僕にはわからないけど、誰にでも自分の頭は見えないんじゃないかと思う。五感を通した知覚と、思考や記憶とをごっちゃにしてなければの話だけど。

自分に頭があると知ってるってことはここでは関係ない。面白いんだけど、自分に頭があると知っていることは、自分には頭がないっていう経験とじつは矛盾してない。いちど経験してみれば、なんで矛盾してないかってことはわかるはず。

思い出してほしいのは、どのくらい離れたところから見るかによって、自分の見かけが変わるってこと。ナノメートルのところからだと分子に見える。2メートル離れたところからだと頭のついた人間に見える。距離ゼロのところからは頭がないように見える。ひとつの見かけだけを選んで、それだけが真実で他の見かけは間違ってると言うのは筋が通らない。

でも確かなことがふたつある。(1) 距離ゼロのところから直接経験するしか自分自身を経験する方法はない、(2) 直接の視点から自分を経験できるのは自分だけなんだから、自分とは何かということについては、外から見ている人たちが何を言っていても自分自身がじかに見ていることを大切にすべきだ。

頭がないということは始まりにすぎない。自分に頭があるのかないのかという議論にはまってる場合じゃない。自分がどこから見ているか、それを一度でも見たら、議論の余地はない。これは信念対信念の闘いじゃない。曖昧なことなんかない。

でも顔と頭があるって感じはするし、鼻も見えちゃってるけど

ここで、知覚と推論の間の線を気づかずに飛び越えてしまっている。視覚以外の五感 ― 特に触覚 ― が、目には見えないとしても自分には頭が確かにあるってことを教えてくれているような気がする。

経験豊富な瞑想実践者なら、感じることに名前を付けずにただ観察することの大切さを知っている。身体はちょっとした痛み、鼓動、ごろごろする音、血液の流れ、しびれを絶えず撒き散らすけれど、ちょっと意識を向けるだけで、それがどんな感じかを頭の中のイメージに結びつけることなくただ観察することができる。それがどんなものなのか頭の中に描くことも、身体のどこが痛むのかを特定したり痛みの理由を見つけだそうともしないで。そうすると、そういうものが自分の意識にのぼってくる単なる感覚だということ、どうやらそのときどきで少しずつ変わっていくものだということがわかって、そのうちそれは消えていく。

自分の顔に触れているときの手の感じ自体はものじゃない。感触だ。そこで経験しているのは感触だけだ。それを解釈して名前をつけると「もの」になる。知覚しているありのままの材料、つまり感覚だけを相手にしよう。実際に観察しているのは感覚で、ものというのは、その感覚は何なのかということに関する推論だ。わかるかな?

そこから自分が見ている何もない空間に手を近づけると、あるところまで近づいたところで手はぼやけはじめ、さらに近づけていくとどこかの地点で触れている感覚を感じるはずだ。目を開けていると、自分の顔は見えていないのに、顔 (とそこにくっついている手) をどうしても思い描いてしまう。目を閉じて感覚そのものだけを観察していると、その感覚に関わっている身体の部位の境界ははっきりとはわからない。ひとつの部位がここまでで、別の部位がここから始まるという地点は特定できない。感じられるのは、広大な気づきのどこかに浮かんでいる感覚だけだ。それに、これは手が顔に触れている感覚だ、なんてことも言えない。そう言えるのは思考だけだ。

実際にやってみれば、明らかに多くの感覚が起こっているってことに気づくはずだけど、それだけじゃ頭があるということにはならない (手についてもそうだ) 。直接感じたことを無視して、「ここで何が起こってるかはわかってる。手が自分の頭に触れてるだけだ」という今ある思い込みを採用するのなら話は別だけど。

自分の観察結果に従おう。観察したものが何なのかについて記憶や想像が言っていることに耳を貸さないように。自分が見ているものについての思考に従うかわりに、見ているもの自体に従って生きること、それこそが明晰さだ。初めてやるような気持ちでやってみよう。自分は何も知りませんという感じで。

よくある異論についてはそのすべてが、簡単にできるハーディングの実験を紹介したページでとりあげられている。
http://www.headless.org/experiments.htm (日本語ページ)

自分には頭がありますよと言い張って譲らない人の意見を変えるための方法はおそらくひとつしかない。それは、その人にここに来てもらって自分で頭を見てもらうという方法だ。ただしその人は正直に伝えなければらないし、自分に見えること以外は一切何も言ってはいけない。
ダグラス・ハーディング

私に頭がないってことをなんで納得させようしてるの?

そんなことはしてない。納得させるなんてことができるとも思ってない。

誰かを納得させるというのは、何かに関するその人の思考を変えるってことだ。僕はそんなことに関心はない。ここでは特に。考えるだけでは、自分は本当は誰かというのはわからない。

頭がないということは、思考を使ってそれを理解しようとしているうちは、わけのわからない怪しげなことであり続けるだろう。なぜなら概念じゃないからだ。頭がないことというのは、自分自身を見るための身体的手法だ。思考にできるのは、観察した結果を自分の思い込みと一致するようなかたちに捻じ曲げることによって邪魔をすること、それだけだ。

ハーディングの実験を少なくともひとつはやってみなければ、頭がないことはどうやってもわからない。僕は「ここを指さす」の実験のことを偶然知ったんだけど、強力なものを見つけたと直感した。そのページにある他のいくつかの実験もやってみた。それ以来、人生はすっかり変わってしまった。

それから僕は実験を紹介する動画を8つ見たんだけど、それは自分が見たものの意味を理解するのに役だったし、矛盾してるんじゃないかと思った点もそのおかげで解消した。

繰り返しになるけど、僕がここに書いてることを読むだけで意味がつかめる人はいない。実験を実際にやってみた人にしかわからないはずだ。

頭がないことは何の得になるの?

頭がない状態で生きることでもたらされる恩恵のほとんどは、言葉にするのがそんなに簡単じゃない種類のものだ。これは完全に人それぞれのものだから、ある人にどう影響するかを別の人が言うのは難しい。と言っても、一般的に期待できそうな利点のいくつかは紹介しておきたい。

  • 自分でじかに非二元性を経験できるようになるから、非二元性を信じたり否定したりする必要はなくなる。さらに慈悲、空性、縁起、進化といったことについての膨大な洞察もやって来る。
  • これは自我との同一化から脱する単純で簡単な方法だ。というのは空(くう)とそれを満たしている内容の世界が簡単に区別できるから。何かが内容なのであれば、それは自分じゃない。
  • 人生に現れる問題を解決できるまったく異なる視座が得られる。おなじみの問題に直面するのは楽しみと言ってもいいようなことになる。習慣的な反応が前よりもはるかに起こりづらい視点から問題に対処できるからだ。以前はやっかいだったことが、滑稽に思えたりするかもしれない。
  • 「空性」「精神世界」、一なるもの、非二元性といったことについての不可解な経典の一節や引用の意味が急によくわかりだす。古めかしい格言があまり古めかしくは感じられなくなる。まったくぼんやりとしていた宗教的、哲学的な思想の意味を解き明かす入り口に立てる。孔子、老子、イエス、ブッダ、禅の老師たちの言葉の意味がたぶん明確になってくる。宗教的じゃない人の場合は特に。
  • もしかしたら、なによりも即効性が見られるのは、僕が試したどんな手法よりも今の瞬間にいられるようになるという点かもしれない。五感に注意が向けられているのが普通になって、思考に注意が向けられることが減る。瞬間瞬間をこだわりなしで見るのが上手になり、それがどう自分の役に立つのか立たないのかという思考で上の空になっていることが減る。つまりストレスも恐れも減る。感謝の気持ちが自然にやってきて、絶対的に重要だと思えることはほとんどなくなる。それはやむことなく続く見事な「わざと死ぬ」状態だ。

***

正直言って、前の記事に文字どおりほとんど反応がなかったことに僕は首をかしげている。いつもコメントをしてくれる人たち、非二元性に一番関心を持っているだろうと思っていた人たちから、みごとに何の反応もない。僕はこれはこれまで書いてきた中で何よりも重要で一番役に立つテーマだと思っている。けれど、フィードバックの少なさから考えると、僕の書き方がまずかったとしか思えない。たぶん無駄にややこしくして不信感を募らせてしまっているのかもしれない。

いずれにしても、いくら説明しても説明だけでは足りない。スピリチュアルな教えを扱う他のいろいろなやり方と同じで、考えたり説明したりすることでは最後までは行き着けない。連れていってもらえるのはある地点までで、そこから先は自分で経験するしかない。僕がここで話題にしていることを見る (理解するんじゃなくて、見る) 人が少なくとも何人かは出てくればいいなと思っていた。実際そういう人がいるかもしれない。でもはっきりそう言ってくれた人はひとりもいない。

間違っていたのは、実験を紹介するよりも前に、この経験について書こうとしたということだ。一番いいのは自分に頭がないことをまず見て、それからその意味をつかむという順番だ。その逆じゃない。僕はスピリチュアルの世界の最大の落とし穴にはまったわけだ。「すべての理解を超える平安」を言葉と思考で伝えようとする落とし穴に。

頭のないことが自我についてどんな意味を持つか、それからそれが神や宗教的な考えにどう関係しているかということについて書こうと思っていた。でもフィードバックがなければ読者にどう受け取られているか全然わからないし、ただ単に読む人を混乱させているだけなのかもしれない。このシリーズをどう思っているか教えてほしい。面白いだろうか? わけがわからない? 手に負えない? つまらない? 的外れ?

これまでの方向で続けてほしいというリクエストが多くなければ、このシリーズはいったん中止して、別のことにテーマを変えようと思う。頭がないということに興味を惹かれる人は、実験をして、www.headless.org を調べてみてほしい。関心を持った人なら相当簡単にああそうか、ってなるはず。ちょっとのやる気があれば。

実験の詳細はここにある。(日本語ページ)

== 訳は以上 ==

「続けろというリクエストが少なかったらシリーズは中止するぞ」という脅しのようなメッセージが効いたのか、この原文記事にはコメントがたくさん寄せられて、シリーズは無事に続くことになったという。

この次は、Who You Really Are という記事を訳す予定。

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頭がないこと Q&A ハーディング (4)」への6件のフィードバック

  1. 気づきとしての本質へ

    距離をかせぎたい探究という夢の

    逃げ場を優しく奪い

    まったくの直接性の中で

    注意 信頼 をあらゆる「探検する」

    ゲームではないほんとうの生も遊びが始まる

    どう顕われようがそうでなくとも

    まったくOKとあるがままにされる

    目ざめた無の中で

  2. 売り切れでした。わかっちゃった人たち。
    わりと買う人はいるみたいです。残念・・・。

  3. 頭が軽くなりました。笑
    マッハの自画像と指さしの実験、最高です。
    非ニ元の教えである、身体はあなたではないという意味がやっと分かりました。興奮してコメントを書いています。笑

    今ニサルガダッタマハラジの『I AM THAT』を終盤まで読んでいるのですが、ずっと質問者目線だったのが、マハラジ目線に変わりました。笑
    質問者の質問が野暮に思えるほどです(・・;)

    このような分かり易い記事をありがとうございました。

  4. ななしさん、コメントありがとうございます。

    野暮とか言われたくないものですが(笑) お役に立ててよかったです。

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