ダグラス・ハーディングの斬首 ハーディング(3)

 
ブログ Raptitude のダグラス・ハーディング紹介記事を訳すシリーズの三番目の記事。いよいよ核心に入っていく。訳しながら、いささか興奮気味になってしまった。

The Decapitation of Douglas Harding (Raptitude)

== 以下、訳 ==

ダグラス・ハーディングの斬首

ダグラス・ハーディングはイングランドの現代の哲学者で、人間の本質について驚くような発見をして、それから誰でもそれを直接体験することができるシンプルで独創的な方法を生みだした。これはハーディングの方法を紹介するシリーズの3つ目の記事になる。(ひとつめふたつめ)

建築家という職業はあったけれど、ダグラス・ハーディングは哲学に激しく惹かれていた。自分は本当は誰なのかという素朴な問いへの答えを見つけたい、それが彼にとっての一番の関心事だった。

自分は本当に高さ6フィートの単なる肉袋で、不可解な生物的エネルギーに動かされているだけなんだろうか? それとも、宗教指導者やスピリチュアルのマスターたちが言うように、自分は純粋で実体のない意識で、森羅万象から切り離せないものなのだろうか?

他人の言葉を鵜呑みにする気はダグラスにはなかった。

相対性原理について考えを巡らせていたとき、ダグラスは気づいた。自分のアイデンティティは、自分を見ている人からの距離によって決まるということに。数メートル離れたところから見れば、自分は人間としか言い表しようがないものに見える。数センチかそこらしか離れていないところから見ると、「肌の一画」と描写したほうがまだありのままに近いようだ。もっと近づくと、自分は細胞になる。さらに近いところまで来ると、分子になり、原子になり、素粒子になる。

逆方向に行ったときも同じだということにも気がついた。ずっと遠くから見ると、近くから見たときの人間としての見かけが姿を消して、町になり、大陸になり、惑星になり、と続いていく。

憶測には頼らずに、客観的に観察した結果だけを慎重に見てみれば、3メートルの距離から見た自分が、3ナノメートルから見た自分や30億メートル離れた地点から見た自分とはまったく違うってことは明らかだった。

自分の現れ方にはたくさんの層があって、そのそれぞれは完全には切り離せないし、どれについてもそれがどう見えるかはどの距離から見るかによって決まるってことも否定できなかった。

さらに、生きるためにはすべての層が必要だってこともたしかだった。息をして生命を維持するためには自分がいる惑星が必要で、その惑星が生命を維持できるような場所に位置するためには太陽系が必要で、太陽系もそのまわりの宇宙がなければ存在できない、というふうに続くこともはっきりしていた。向きを反対に変えると、自分を構成している身体の各部や細胞が必要だってこと、それもまたそれを構成している分子や原子がないと存在できないってこともわかった。

この発見からダグラスは非二元論の考え方にいたった。宗教やスピリチュアルの世界でもっともらしく語られている考え方だ。自分はこういうものだとずっと思っていた6フィートの人間と、自分を囲んで自分を構成している宇宙とのあいだには、どんな分離も見つからなかった。個人としてのダグラスと、宇宙のそれ以外の部分との間に分離があるとしたら、それは恣意的で想像の上での分離でしかありえない。それは、きっちり肌までだけが自分という人間なんだという、ありきたりでほとんど問い直されることのない考えだ。

もちろんこの「肌という境界線」は、まさにその本質のせいで、どうしようもなく曖昧だ。自分の身体は周囲の環境から作られていて、呼吸や食事や新陳代謝やいつかやって来る死や腐敗といった活動を通して周囲の環境と渾然一体になって物質をやりとりしているってことを、僕らはもう知っている。身体とその周囲にあるもの (または身体に囲まれているもの) の間の分離はすべて架空の区別で、分類したり名前を付けたりするときには役立つけれど、結局は誤解につながる。

ダグラスにとっては、自分は本当は誰なのかということが、肌のような恣意的でいい加減なものに結びついているなんてことはありえなかった。

それでも、それまでのほとんどの時間を数メートル離れたところから他の人たちと接してきたせいで、ダグラスはダイニングテーブルを挟むくらいのよくある距離から見たときの自分の見かけともっとも強く (完全にではないにしても) 自然に同一化していた。

重大な問題はまだ残っていた。素粒子レベルの距離よりも、さらにもっと近いところから見たら自分はどう見えるんだろう? そこでは何も見えないんだろうか? いずれにしても、ダグラスは現状のままでは満足できなかった。つまり、数メートルの距離から見たときの自分の見かけが他の距離からの見かけをしのいでいて、その見かけだけを「自分自身」だと考えなきゃいけないという状態には落ち着けなかったのだ。

他とはまったく違う自画像

答えは、物理学者で哲学者だったエルンスト・マッハの風変わりな自画像という形でやってきた。

ほとんどの自画像は、鏡を使って描かれている。つまり、それは数メートルの距離から見た姿だ。ロジャー・フライのこんな自画像のように。

ロジャー・フライ自画像

これは自画像としては典型的なものだけれど、それは、鏡を見ることを通して、自分の写真を見ることを通して、ほかの人たちが自分の見かけについて話すのを聞くことを通して、僕らがもっとも親しんでいる種類の姿が描かれているからだ。ほかの人たちと接するとき、そこにはたいていは数メートルの距離があるし、鏡やカメラの場合もそうだ。だから、自分の見かけについて把握していることと言えば、そのほとんどがちょっと離れたところから見たときの姿にもとづいている。数メートルのところからの見かけが人間とは本当は何なのかを表しているはずだとか、他の距離からの見かけはすべて意味がないと、誰もが信じるようになるのも無理はない。遠すぎて見えない、近すぎて見えない、もしくは、数メートルからの見かけと比べると正確じゃないなどと言いながら。

マッハは、型にはまっていないやり方で自分を見た。これがマッハの自画像だ。

エルンスト・マッハの自画像

見てわかるように、マッハはロジャー・フライと同じようには自分のことを見なかった。マッハは第一人称で自分を描いたのだ。一見すると、これは冗談めかした単なるトリックのように見える。M・C・エッシャーのだまし絵に見られる種類の、錯覚を起こさせるけれども単なる愉快ないたずらのように。

でも、もっとはるかに深遠な何かをハーディングはここに見いだした。僕もだ。マッハは自分自身に見えるそのとおりに自画像を描いた。数メートル離れたところからの見かけを描くよくある自画像とは対照的だった。

この自画像はまったく奇怪だ。そして、この自画像が奇怪に思えることに衝撃を受けなきゃおかしい。なにしろ、僕ら全員が人生のどんな瞬間もこの視点から生きているのだから。これが僕らが生きるときの「ホーム」視点だ。実際のところ、ここから逃げることはできない。でも僕らはほとんどいつだって自分のことを第三人称でとらえている。

もっとすごいことがある。これはマッハが自分のことを描いた絵なのに、マッハの頭が描かれていないのだ。それはマッハが見ている視点からは ― マッハがつねに見ている視点からは ― 、どこを見ても頭はないからだ。

人間にとって最もなじみがあって何よりも中心的な光景、つまり自分が人生でずっと見続けているその光景には、まったく頭がなかったということに、ハーディングはそれまで一度も気づいたことはなかった。

何年かあと、ヒマラヤ (のあちこち) を歩いていたとき、マッハの奇妙な自画像に世界を揺るがすような新しい意味をもたらすような経験をハーディングはすることになる。

ハーディング自身の言葉で紹介しよう。

人生最良の日 ― 言うなれば自分の再誕生日 ― 、その日私は自分に頭がないことに気がついた。これは文学的修辞ではない。どうしても関心を持ってもらいたくて言葉遊びをしているわけではないのだ。私は大真面目だ。私には頭がない。(中略) 実際に起こったのは、ばかばかしいほど単純で冴えないことだった。私は考えるのをやめた。奇妙に静かで不可思議な感じの、研ぎ澄まされた無気力さか無感覚さのようなものがやって来た。理屈も空想も頭の中のおしゃべりも全部が消えてなくなった。このときばかりは、言葉がほんとうに何も出てこなかった。過去も未来も消え去った。自分は誰なのか、自分は何なのか、名前も、人間だということも、生物だということも、自分だと言えるもののことは何ひとつ思い出せなかった。まるで、自分がその瞬間に生まれたばかりで、何もわからず、どんな記憶もまったく持っていないような感じがした。そこにあったのは〈いま〉だけ、今の瞬間と、今の瞬間にありありとあるものだけだった。見ることだけで十分だった。そしてそこで見つけたのは、下の方に伸びるカーキ色のズボンの脚とその先についている茶色の靴、左右に伸びるカーキ色の袖とその先についているピンク色の手、それから上の方に続いているカーキ色のシャツの胸とその先に・・・まったく何もなかった! その先に頭がついていないのは間違いがなかった。

ダグラス・ハーディング著 On Having No Head (邦訳『心眼を得る』)より (訳註: 上記は僕が新たに訳したもの)。ハーディングの最初の経験の一部始終はここで読める (英語) 。

ついにハーディングはナノメートルよりも近いところから自分自身を見たのだった。距離ゼロからは自分はどう見えるのかを、彼は
はっきりと見たのだ。そしてそれは他の人たちが見ている自分の見かけとは全然違うものだった。むこうにいる人たちを離れたところから見ると彼らは頭を見せびらかしているけれど、こちらには、距離ゼロのところからは、どんな頭も見えなかった。

注意を内側に向け直すと ― ハーディングがそこから見ているからっぽの空間の方を向くと ― 、そこに頭があるという証拠はまったく何も見つからなかった。ハーディングが見たのは限りない明晰さ、広々とした地平線いっぱいの空間で、それは身体から頭のように突き出ていたりはしていなくて、逆にそれが身体を含んでいるのは明らかだった。

空(くう)は、全然手の届かない禅の世界の概念ではなく、いつだってまったく明白なことだったのだ。

このすべてが信じられないほど明白で当たり前のことなのに、それと同時にこれがどれだけ思いがけない大発見だったかということに、ハーディングは衝撃を受けた。ハーディングはその後の人生を通してこの眺めから生きた。その眺めの中には明らかに頭はなかった。

考えてみればわかる。経験のどの瞬間について考えても、自分の頭が風景の一部になることは絶対にない。もちろん「私は頭があるよ」と考えるだろう。でも想像と記憶の中を除けば、頭はみごとに無いのだ。鏡で自分を見たり、自分が写った写真を見たりするときだって、その鏡も写真も、このあたりに頭があるはずといつも想像している場所を占めている無限の空の空間の中に入っていて、鏡や写真のまわりの光景も、そしてそこにある身体も、その空間の中にある。

言いかえると、自分に見えている自分には頭がない。なぜ他人の目に見えるアイデンティティに専念して、自分自身に見えるアイデンティティを差し置いたり、犠牲にしたりしなければならないのだろうか?

どういうわけか、私は自分のことを、身体という家に住んでいて二つの小さな丸い窓を通して世界を眺めている存在なんだとぼんやりと捉えていたのだった。今ならそれがまったく違うということがわかる。遠くを眺めながら、自分に目が何個あるか、この瞬間にどうすればわかるだろうか? 2個、3個、数百、それとも0個? 実際には私の前面には窓がひとつだけあって、その窓は広く開いていて枠はなく限りなく、そこから見ている人は誰もいない。二つの目とそれをふちどっている顔をそなえているのはいつでも他の人で、決してこの人ではないのだ。
On Having No Headより

ハーディングに頭があるということを示せるとしたら、それは記憶と想像と他の人たちの言葉だけだった。それを否定することはできなかった。そしてそこには気がかりな意味があった。つまり一生を通して、自分で実際に見ていたことが、見ていたことに関する見解 (具体的に言うと、広大なからっぽの空間から世界を見ているのではなく、「肩の上にある20センチのミートボールについている二つのちっぽけな穴」から見ているというような見解) によって、ほとんど例外なく押しのけられていたということなのだ。

わかるだろうか。自分のことを、他の人たちが見るように離れたところから見るのは絶対に無理だ。でもほとんどの場合僕らは自分自身を第三人称で、思考を通して経験している。ほぼいつでも、自分のことをどんなものと考えているかを重んじて、自分が実際自分にどう見えているかを無視しているのだ。他の人たちは自分のことをこう見ているにちがいないという想像を優先している。

僕らが自我の問題を抱えているのも無理はない。前の記事で、自我とは単に自分は何かということについての考えだと書いた。その思考の寄せ集めが自分だと普通は思っている。自分が本当はどう見えるかを見ることによって、自分は誰なのかということを思考の外側で見ることができるようになる。これはほとんどの人にとっては希有な状態だけど、いつだってすぐにできる。これについて抽象的なことなんて何もない。

自分の首をはねよ! からだを全部溶かし、見ることになれ! 見ること、見ること、見ることになれ!
ルーミー

こういうこと全部を、まったく無意味であつかましくておめでたいお話だと感じる人もいるってことはわかっている。結局のところ、自分に頭があるってことは誰だって知ってるじゃないか。鏡で見たことはあるし、触ったこともあるし、ほとんど誰もが鼻だと決めてかかっているぼやけた部分が視野のはじっこにあるのも見える。それにだいいち、この発見が何の役に立つと言うんだ?

ハーディングに対してもそういうあらゆる異論が唱えられたのは間違いない。でも彼ほど探究心の強い人なら、異論を黙殺したはずはない。つぎの記事では、さまざまな異論に対してハーディングがびくともしなかったのはなぜかを紹介したい。

それまでのあいだ、僕の言葉をそのまま信じるかわりに、実際に自分を見るとどう見えるのかを調べてみるための実験をして、自分に頭がないのを体験してみてはどうだろう? ここに紹介するのは、思考のでは自分は本当は何なのかを各自で調べられるようにハーディングが生みだした7、8個の実験の最初のものだ。ハーディングの友人のリチャード・ラングが案内役を務めてくれる。

実験の動画を見るだけじゃなくて、ちゃんと実験をするのが肝心だ。これについて言えば、伝聞も観念的な理解も何の役にも立たないのだから。

1B 私たちの本質とは何か?

動画よりも文章と絵で説明を読みたいという人もいるかもしれない。そういう人たちはこっちへ (日本語ページ)。

***

それは混乱した人生の中で起こったひとつの明晰な瞬間だった。(ちいさな子どもの頃からとにもかくにも) あまりに忙しかったりあまりに利口だったりしたせいでずっと見ていなかった何かを無視するのを止めたのだった。それは、自分の正面でずっと自分を見つめていたもの ― 自分にはまったく顔がないということ ― に対する、解釈をはさまないむき出しの関心だった。つまりそれはどこまでも完璧に単純で明白で単刀直入で、議論も思考も言葉も超えたものだったのだ。

もしかしたらレッドピルは思っていたほど苦くはないのかもしれない。

== 訳は以上 ==

そもそもこの和訳シリーズは、ハーディングの紹介の仕方としては独自性があるなあと感じて始めたものだ。でも、やはり言葉に一番パワーがあるのはハーディング自身の言葉だということに今さらながら気づいた (けっこう遅い) 。

そうなると続ける意味があるのかなとちょっと思いつつも、この次はハーディングのメッセージに関するよくある質問についての記事を訳したい。(Headlessness FAQ) この記事はかなり面白い (はず) 。

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