わざと死んでみる Raptitude

 
昨日書いた記事「紹介したい人がいる ハーディング (1)」 で触れられていたRaptitudeの記事を和訳してみた。

ハーディング紹介のひとつの導入としては、けっこう面白い。いわゆる自己啓発の分野でこういう文章が数万の読者に読まれているというのも、興味深い。

Die on Purpose (Raptitude)

== 以下、和訳 ==

わざと死んでみる

自分が存在してるってことを忘れること、しかもしょっちゅう忘れることはすごく役に立つというのが僕の考えだ。

そんなの無理だよと思うだろうけど、無理じゃない。

自分が存在してないという視点を手に入れるために僕がときどきやっているエクササイズを紹介したい。こんな感じだ。

どこのどんな場所にいるとしても、自分がそこにいなかったらその場がどうなるかという状況をはっきりと思い描く。その場面を映画を観るみたいにただ眺めるんだけど、もしそこに誰かが残っていたら、俳優を見るように彼らを眺める。もしかしたらまわりに誰もいなくて、その瞬間をそれ自身と共有している世界の無人の片隅がただあるだけかもしれない。どんな場面であっても、どこか遠くにある映画館にいてそれを見ているような感じだ。すべてそのまま起こっているけど、自分はそこにいない。

それがどう見えてどう聞こえるか、細かいところに関心を集中させる。登場人物の声の調子、しぐさ、彼らがいる部屋、背景から聞こえるノイズ。考えを何も差し挟まずに、何が起こってもそのままにしておく。というのも、そこに自分がいないわけだから、起こることを止めたりコントロールしたりするための、もしくはもっと違っていたらいいのにとか思うための手段が ― そして理由も ― ないんだから。

すると、驚くしかないようなことが起こる。懸念も興味も全部ただ消えてしまう。その瞬間がそれ自体の意のままに展開するのを見守る。その瞬間がどうなるかを気にするような部分が自分には全然なくて、何が起こってもそれはただ起こることになって、何が起こっても問題はない。そうすると、すがすがしい気分になるし、自由を感じる。何かがとにかく起こっているということそれ自体がとんでもない奇跡のように見えてくる。そしてそれはいつも、いつだって美しい。

このエクササイズを、意図的に死ぬこととして考えるといい。

自分がたった今死んだと想像してみる。責務も人間関係も計画も心配も全部消えてしまう。まるでそんなものは一度も存在したことがなかったみたいに。そして自分が何も寄与していなくても世界は完璧に問題なく続いていく。自分が生まれる前もそうだったんだけど、それとまったく同じだ。恨みがあるわけじゃないけど、それが明白な事実だ。

希望も心配もずっとどうだってよかったのだ。どっちみち。自分の希望や心配がおおごとに思えたのは、自分が生きていたとき、自分や自分の利害に関係しているときだけものごとを気にするという狡猾で (と言っても誰でもそうなんだけど) 人間的な習慣があったからだ。

真面目な話、一度やってみてほしい。自分は死んでしまったけど、起こることは見ていられると想像する。家のまわりや近所を歩いたりもできる。突然、起こることっていうショーだけが大切なことになって、それが自分にどう影響するのかなんてことにはまったく興味を失うけど、それは自分がそこにいないから。

まったく存在していないというこの視点を手に入れることができたら ― それにそんなに難しくない ― 、自意識も心配も不安も恐れも経験しなくなるはずだ。ものごとはただ起こる。面白いことが。詩的で、しかも不条理で、それと同時に心をつかまれることが起こる。

「存在していない」っていう感覚は、完全な明晰さの感覚だ。それはまるで、ずっと運んでたってことに自分でも気づいてなかった重しを下ろしたという感じだ。

そういうあり方の感じを一度でも味わったら、実際に何が起こっているかじゃなくて、それが自分にどう役立つか、それとも役立たないのかってことに日々の思考がどれほど費やされているかが、よくわかるはずだ。そういう思考があらゆる自意識、恐れ、切望、実存の苦痛を生みだしている。

苦しむ人がいないんだから、苦しみもない。不思議なんだけど、美しさは残る。

自分のまわりで起こることを、個人的な利害によって評価したりしないでただ見守ることができたら、起こることはいつだって美しくて、それから何の努力もいらないってことがわかる。それに自分がいないなら、それは簡単だ。

だから死のう、しょっちゅう。

== 和訳は以上 ==

これはやってみると、そんなに簡単ではなかった。部屋にあるあらゆる物や人に、自分の記憶やストーリーがべったりとはりついていて、自分がいないという感覚がなかなか感じられない。

むしろ自分にはハーディングの指差し実験の方が、シンプルに「いない」感覚になりやすい気がする。

このあと、Raptitudeのハーディング紹介記事の和訳をゆっくり続けていきたい。

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わざと死んでみる Raptitude」への4件のフィードバック

  1. ヒロさん、明けましておめでとうございます。
    pariです。今年もよろしくお願いします。
    この「わざと死んでみる」という記事、とても素晴らしいですね。
    ヒロさんは「やってみると、そんなに簡単ではなかった」とおっしゃっているし、おそらくその通りかもしれませんが、でも読むだけでも素晴らしいです。(^^)/
    これはいい、と思ってしまいいました!
    これからのRaptitudeの翻訳、楽しみにしています。
    Love   pari

  2. pariさん、コメントどうもありがとうございます。

    自己啓発系ブログなのに、「自分がいない」というのは斬新ですよね。この記事への反響がとても大きかったことも、デヴィッド・ケインさんがハーディングについて多くの記事を書くきっかけになったのでは、と推測しています。

    頑張って続きを訳したいと思います。

    今年もメルマガを楽しみにしています。どうぞよろしくお願いします。

  3. はじめましてー。しばらく前からブログ拝見してます。なれそめはたしか、ラメッシでワード検索して記事がヒットしたのがきっかけだったか…。このブログの翻訳紹介のおかげで、自分があまり存じ上げなかった海外のアドヴァイタ系の方々とその著書を、読んで知れて良かったです。
    ヒロさん翻訳出版の新しい本が楽しみです。普通ぅ〜の人の体験談、はよ買って読みたいです。
    では

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