雨の日はハーディングでも読もう

 
と、植草甚一のようなタイトルで始めてみたが、植草甚一の本を最近何冊か読んでいる。それでアメリカの現代文学に興味を持ち、ブローティガンの本などを初めて読んでみた。『芝生の復讐』が最高に面白く、頭をぶっとばされるような刺激とせつなさがたまらない。

で、「頭をぶっとばされる」とは言うが、じつは最初から頭などないのだと主張するのがダグラス・ハーディングだ。あるところで会ったあるイギリス人が、こう言っていた。

The headless people are nice to be around.

頭のない人たちはつきあいやすいとか、いい人たちだという意味だと思うが、彼の言う「頭のない人たち」とは、ハーディングの headless way (頭のない方法。あるいは剣の流派のように「無頭流」とでも呼ぶと楽しいかも) を実践する人たちのことだ。

いい人たちというのはたしかに感じる。ハーディングのメッセージを伝え続けているリチャード・ラングがYoutubeで公開しているたくさんのインタビューを見ても、そんな気はする。niceという感じだ。

で、ハーディングと言えばもっとも有名なのが On Having No Head という著書で、これは『心眼を得る』というタイトルで翻訳もされているが、残念ながら絶版になっている。高木悠鼓さんの新しい翻訳で、どこかの出版社がいつか出してくれないかなと勝手に期待している。絶版放置状態はあまりにもったいない。

ハーディングの邦訳されていない本のなかには、Look for Yourself とか、Head Off Stress のような魅力的な本もある。こういう本もいつかは日本語版を見てみたい。

それからハーディングのメッセージを伝え続けているリチャード・ラングの Seeing Who You Really Are という本も、ハーディングの実験を中心にして、たくさんの人たちの手記やインタビューも掲載されていて雑多な感じはあるが、魅力的だ。ハーディングの独特な表現にはあまりなじめないという人にも、この本は読みやすいはず。

あとは、高木さんのサイトにもエッセイの翻訳が掲載されているが (これこれ) 、J・C.・Amberchele (出版社に聞いたらアンバーシェルと読むそうだ) という人の本 The Light That I Am も、刑務所にずっといるというヘビーな状態と、頭がない軽やかさと無限性が両立している (というか対立するものなど無いのではということがあきらかにされている) という点でとても面白い。

そして最後に、ニューヨーク在住のカナダ人男性のブログ Raptitude のハーディング紹介記事がある。すごく読みやすく興味深い記事を書く人で、それだけにひと味違いながらも非常にわかりやすいハーディングの紹介文になっている。その記事を和訳したいと思って、いま彼の許可待ちだ。

そんなわけで、ここのところ、「ネオ・アドヴァイタ」と分類されるようなメッセージよりも、ハーディングのメッセージのほうに強く惹かれている。探求のある種の不自然さのようなものとの関係が変わってきたのかもしれない。そんな気がする。また戻るかもしれないけど。

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雨の日はハーディングでも読もう」への3件のフィードバック

  1. 悟りの一瞥体験したものです。
    ハーディングの実験に先月大阪で参加しました。
    私的には『私がない』体験が悟りの一瞥と言える大きな物で
    『私はすべて』のワンネス体験とは違っています。
    (同義だと思うし、体験は様々ですので、他の方のことは
    わかりません。そういう意味でも来月のヒロさんの出版を
    楽しみにしています。)
    ハーディングの感覚は『私はすべて』の方に近いと思います。
    体験してからでなくとも意図してその感覚でいるという実践から
    でもOKだと感じます。
    私も定着するまでやろうと思っています。

    PS 悟り体験後、ヒロさんのサイトで随分勉強させてもらえて
    とても楽になりました。ありがとうございました。

  2. salahさん、こんにちは。とても興味深いコメントをありがとうございます。

    今度の本に出ている人たちの話でも、ダグラス・ハーディングの実験のことが語られています。が、彼らはどちらかと言うとハーディングの実験を手放しで賞賛という感じではありません。salahさんのおっしゃるニュアンスに近いものがあるのかもしれません。

    ただ僕の印象では、ハーディングは私があるかないかということはあまり問題にしていないような気がしています。つまり、「ない」というのは「ある」の反対としてしかありえないわけですが、それがなぜか両立してしまう〈源泉〉(両立しないという現象も当然その中で起こり得る〈源泉〉) について辛抱強く指し示しているように思います。と書きながら、自分でもわからなくなったのでやめます。

    それはともかく、今日コメントをいただいて思ったのは、今度の本はsalahさんのように一瞥を経ている人にこそ、興味深いものなのかもしれないなということです。アジャシャンティの『あなたの世界の終わり』が、そういう場合の優れたガイドになるのは間違いないと思いますが、そこまで洗練されていないそのまんまの表現というのも役立つような気はします。

    本を読まれたらぜひ感想を聞かせてください。

  3. 私が在るとないは、体験の状態で違うんだと思います。
    私の場合、『私が在る』は意識は肉体にあり、かりそめの私
    (自我)を私として表現していて、『私がない』は意識は空間
    にあり空間そのもので見えている世界すべてが真我で、大きな私
    (真我)からしたら、かりそめの私がないと表現していると思います。
    実践するのははじめは自我意識ですので『私が在る』からなんだ
    と思います。
    アジャのその本は悟りの一瞥後のバイブルのようになっています。読むたびに入ってくる箇所が違っています。

    沢山の翻訳してくださったヒロさんやアジャに本当に感謝です。

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