先生は必要か ジョーン・トリフソン

 
ジョーン・トリフソンがFacebookに書いた文章を訳してみた。先生、あるいは教える人がテーマだ。

https://www.facebook.com/JoanTollifson/posts/560907840648220

== 以下、訳 ==

2013年10月31日

先生は生徒と違うのか、先生は必要なのかという点についていくつかのコメントと質問を最近もらった。だれもが対等なのだろうか、それとも、ほかの人より目覚めていたりわかっていたりする人がいるのだろうか?

まず第一の疑問は、誰のことを話しているのかということだ。見たり聞いたりしているとき、思考を離れたところでは、ある特定のあり方にあり続けたりするような人はどんなときも存在していない。ありのままで誰かに出会うとき、そこには分離も自己も他者もない。教えるということが起こっているが、先生はいないし、教えられていることは何もない。それがもっとも深い真実、絶対的な真実だ。つまり、先生も生徒もいないし、そして宇宙から切り離されて存在している人はどこにもいない。

だが相対レベルで言えば、機能としては私たちは自分と他の人とキッチンテーブルとを区別することができる。すべてのもの、すべての人が対等だが、それはどんな意味かと言えば、すべてが分かれておらず継ぎ目も境界もないかたちでひとつの全体として起こっていて、そのなかではどんなものでも他のあらゆるものを包含しているということだ。つまり、他の波よりも湿っている波もなければ、他の波よりも海の近くにある波もない。だがそうは言っても、相対的に見れば、大きな波と小さな波、穏やかな海と荒れた海の区別ができないというわけではない。こうした区別は相対的、機能的には真実であり、その区別さえ否定してしまうとしたらそれはばかげている。だが、波を永続する「もの」として固定化し恒久化し、海全体とは切り離してしまって、自分を小さな波や大きな波とみなし、私たちが変わりつづける海全体だということ、「自分」というのはどこにも見つからないことがわからなくなるとき、それは誤りとなる。

日常的な観点から実際的な視点で見てみれば、教えたりサットサンを開いたりするのにどんな人でも等しく適格だということがないのは明らかではないだろうか? 極端な例をあげれば、ラマナ・マハルシがアドルフ・ヒトラーよりも目覚めていてわかっていたのは間違いないことだ。それは間違いようがない! 一緒に時間を過ごすとしたらどっちがいいだろうか? 深く考えてみれば、もちろん、ラマナもヒトラーも、分離せずにひとつの全体として起こっていることのある側面だ。ラマナもヒトラーも固定していて永続し不変で他から独立した「なにか」ではないし、宇宙にある他のものからはっきりとした輪郭で区別することはできない。海にいろいろな波があるように、ラマナもヒトラーも同じように継ぎ目のない海だが、それでも相対的に言えば、ラマナとヒトラーは昼と夜ほど違う。相対と絶対、違いと単一性というこの両極性の片側を否定するのは誤っている。その両方が揃っていてはじめて真実であり、片側だけで真実ということはない。

教えたりサットサンを開くのに誰もが同じくらい適任だということはないのは明らかだと言ったが、それは、迷妄や誤りを超越したとされる崇高でスピリチュアルな権威的存在という印象を与える、悟りの境地に永久にありつづけるグル、部屋にいる他の人たちよりも「神や真理に近いところにいる」と主張する人、あらゆる答えを手にしていて宇宙の仕組みを知っていると称する人がいるという観念を私が受け入れているというわけではない。とは言っても、どんな人でも等しく目覚めていて、等しく明晰で、等しく洞察力があり、等しく迷妄がなく、実在を等しく認識しているとみなすようなまやかしの民主主義にも賛成はしない。そんなわけがないのは明らかだ。もちろんどんな人にも、ヒトラーにさえ、明晰な瞬間、真の洞察を得る瞬間、慈悲や心からの愛の瞬間はあるだろう。それと同じように、どんな先生にも迷妄の瞬間、思考のストーリーに囚われる瞬間、小さな自己と同一化する瞬間、混乱や不安や心配や怒りや戸惑いなどいろいろな瞬間がある。そうしたことを完全に超越している人はどこにもいない。つまり、まともに機能するための相対的な区別をすることはできるが、そうした区別がもっとも役立つのは、区別がいつでも仮のものであり、変わることがあり、絶対的に真実だとか本当だということがないのを忘れずにいるときだ。

スプリングウォーター・センターで初めてスタッフとして働き始めたときのことを思い出す。スタッフだれもが自分よりもトニ (先生) に多くを期待していることに気づいた。トニを自分たちよりも高い場所にかかげていたのだ。ジョーコー・ベックはかつて、生徒が先生を崇めながら自分をどうにか悟らせてくれるのを期待する現象を、巣にいる鳥の赤ちゃんが母親を待ちながら餌を口に入れてくれるのを期待することにたとえた。実際には、道なき道は ― もっとも深い意味では何の努力も必要とされないものではあるが ―、 ときにじつに厳しい取り組みになりえるというのが事実だ。道なき道を歩むことには、非常に暗く、心細く、惨めな場所を通りぬけることも関わってくるし、結局のところ、自分で道を歩いて自分で取り組むしかないのだ。自分のかわりにそれをすることができる人は誰もいない。

では、先生は必要なのだろうか? まあ、必ず必要というわけではない。先生なしで目覚めた人たちもいくらかいる。ラマナ・マハルシ、エックハルト・トールがその例だ。だがほとんどの人にとっては、そして私自身もそうなのだが、誰かに案内してもらい、つきそってもらうのは役にたつ。案内とはどういうことだろうか? 正しい答えを授けたり、人生で何をすべきかを命じたり、自分は誤りも迷妄も超越したと思っていたりする人たちのことではない。それから、自分は「悟った人」だけれども、あなたはまだだねなどと (はっきりと、あるいは暗に) 言う人のことでもない。私が言っているのは、物語の筋書き全体を粉々にし、率直に人の話に耳を傾け、存在に、気づきに、わからないという場所に、むき出しの驚きに留まる人のことだ。そして、明晰な気づきや存在という場所を超えた場所に自分がいつでもいるわけではないということ、私と同じように迷妄にとらわれたり、古い条件付けにつかまったりすることがときにはあるのを認めるほど正直な人のことだ。

真の先生とは、私たちに〈真実〉の方向を指し示すことができる人だ。実際に〈真実〉を見つけるのは私たち自身の仕事なのだが (そして〈真実〉とはどんな相対的真実にもしがみつかないことだ) 。真の先生とは、私たちの偽りのアイデンティティや思い込みを探究することができる人だ。実際にそれを見抜くのは私たち自身でしなくてはならないのだが。真の先生とは、私たちに地図、問い、洞察を与えてくれたり、あるいはただ在って話を聞くことで私たちの内に火をつけたりすることができる人だ。そういう人たちは友人で (と言っても必ずしも個人的な友人というわけではなく、スピリチュアルな友人だ) 、私たちとともに歩み、ともに見て聞き、問いを投げかけ、徹底的に調べ、私たちがつかんだり根拠にしようとするものをなんらかの方法で全部取りあげてしまう。そして光をあてる。私たちが自分で見て、聞いて、理解するのを助けてくれる。私たちは彼らのなかに自分が求める何かを見つける。それは力強くて本物の何かだ。そして彼らは、私たちが見るもの、反応しているもの、探しているものは彼らや他の人たちといった「どこか外の場所」にあるわけではなく、まさに〈ここ・今〉、この所有者も内側も外側もない境界のない存在のなかにあることを認識するのを助けてくれる。優れた先生とは、究極的には先生は必要ないということを示してくれる人のことだ! 私の友人が以前言ったように、「優れた先生というのは補助輪と同じだ。補助輪がまだ必要だと思っていても、それは、後ろを振り返ってみたら補助輪が上がってしまっていて10分も補助輪なしで走っていたと気づくまでのこと」なのだ。

だが、これは知るべきことは全部わかったという場所にたどりつくという意味ではない。その正反対だ。自分がまったく何も知らないということがわかるのだ。私たちはただここにいる。そして生そのものが先生になる。一瞬一瞬が先生になる。ときには人間のかたちをとった先生のところに行ったり、本を読んだり、トークを聞いたりするかもしれない。もっとも優れた先生たちのなかには、他の先生たちのところに行く人たちも多い。学びには終わりがない (そして学びを捨てることにも) 。私が教わった先生のひとりであるジョーコ―・ベックは、先生はつねに生徒だということ、ゴールはないということを強調した。もしいま先生のところに行くとしても、それは彼らが自分を救ってくれるとか、彼らが答えを知っているとか、彼らは根本的に自分とは違うという見当違いの思い込みのためではない。

私はたくさんの先生から学んだ。もっとも学んだのはトニ・パッカーだったが、ソージュン・メル・ワイツマン、ジョーコー・ベック、ジャン・クライン、ガンガジ、スティーブ・ヘイゲン、アナム・トゥブテンからも学んだ。そして長年にわたってたくさんの先生たちのサットサンやリトリートやミーティングに参加し (フランシス・ルシール、アジャシャンティ、アイザック・シャピロ、トニー・パーソンズ、ウェイン・リカーマン、カール・レンツ、バイロン・ケイティ、ニルマラ、ティク・ナット・ハン、セイラー・ボブ、ムージ、ネイトン、そしてサンフランシスコ禅センターの何人かの先生たち。今は名前が出てこないが他にもいたかもしれない) 、実際に会ったことのない人たちから本や録音を通して大きな影響を受けたこともある (ニサルガダッタ、J・クリシュナムルティ、ラマナ・マハルシ、エックハルト・トール、アラン・ワッツ) 。それから、ウェイン、サンドラ、リチャード、スチューといったスプリングウォーターの先生たちやスプリングウォーターで出会った多くの友人たちからもすごく大きな影響を受けている。そうした先生たち一人ひとりに心から感謝している。彼らとの出会いがなければ、思考を超えた何かがあるということにも、自分の人生の舵取りをしているように見える「自分」が幻想だということにも気づかなかったかもしれない。自分がどのように怒ったりムキになったりするか、自分がどのように他の人たちをそそのかしたり操作したりコントロールしたりしようとするか、身体・マインド全体がどう収縮したりつかもうとしたり抵抗したりするか、どのように現実に歯向かって、その過程で自分やまわりに苦しみをもたらしているか、気づくこともなかったかもしれない。自分の人生というストーリーがストーリーだということもわからなかったかもしれない。何人かの先生たちがたった今、まさにここに私の注意を向けさせることがなければ、未来に起こるはずの悟りをいまでも探し求めていたかもしれない。だからそう、私の経験から言えば、先生がいる意味は確実にある。

それから、先生は一人ひとりみな違った。私の学んだ先生のほとんどは普通の人、地に足がついた人という印象だったが、大げさな虚飾だらけの人たちも何人かいた。自分を友人と呼ぶ人もいれば、自分でグルだと言う人もいた。ハートを開くということだけ言う人もいれば、明晰な洞察だけを追求する人もいた。ひょうきんで突飛で並外れた人もいれば、とても真面目で落ち着いている人もいた。足を組んで黙って長い時間瞑想することを勧める人もいれば、する必要があることはまったく何もないと言う人もいた。同じメッセージなのに、ある先生からは入ってきて、別の先生からは入ってこないということもあったが、それはただ単に言う人が違ったからだろう。それはまるでパズルのたくさんのピースか、あるいは最後にはひとつの同じ場所を超えた場所、〈ここ・今〉につながるたくさんの扉のようなものだ。

そして、自分でもちょっとした先生役を17年間続けてきた今、と言っても先生という言葉で自分を言い表すことはないのだが (それは先生という言葉は分離を引き起こして、自分をただちに高く上げて他の人たちを下げてしまう気がするからだ) 、それは罠に陥りやすい仕事だということも言える (2013年10月7日の記事に書いたように ― 未訳) 。先生というものは、理性的な機能から、単なるアイデンティティに簡単になってしまう。そのアイデンティティは絶えず何かに支えられ守られていなかればならず、何者かになろうとしながら、誰にも相手にされない人になるのではないかという恐れをなだめ続けないといけない。架空の「自分」が舞台に出てきて、すべてを台なしにしてしまう。それに関していまでも思い出すのは、誰かから聞いた話だ。サットサンをする比較的新しい先生が「私にはサットサンはできない」という恐れを口にしたのに対し、彼女の先生は (いまではその名前は忘れてしまったが) こう言ったという。「それでいい。あなたがサットサンをするのではない。あなたが邪魔さえしなければ起こること、それがサットサンだ」 サットサンとは、実在 – 気づき、〈真実〉、〈ここ・今〉の同義語にすぎない。サットサンを開いているように見える分離した自己としての人間は幻想なのだ。そして、この自己のない空 (くう) から先生が話しているとき、そのことは感覚的にわかる。エックハルト・トールやトニ・パッカーのような人たちについてそういう感覚を感じることがある。彼らは完全に今にいて、その目覚めた存在という場所から話している。思考や信念や使いふるしの観念から話しているわけではない。邪魔をするような自己はそこにない。じつはそのことこそが彼らが伝えているもっとも大切なことだ。その聞いている存在、その空、あるいは気づきこそが。話している内容は、いつでも補助的なものにすぎない。

と言っても、それはエックハルト・トールやトニ・パッカーやラマナ・マハルシ、もしくは誰であってもいいが私たちが尊敬する人たちが完全に迷妄から自由である (であった) という意味ではない。でも、彼らは自分の迷妄に気づいていた (気づいている) とは言えるかもしれないし、迷妄のなかで迷子になったり、迷妄にずっと混乱させられ続けたりすることはなかったと言えるのかもしれない。彼らは気づいている存在に深く根を下ろし基礎をすえていて、ほとんどの場合は思考に巻き込まれておらず、自分の思考をなんでも信じるということはない (なかった) 。間違った場所を駆けずり回りながら悟りを探すこともない。それが〈ここ・今〉にあり、他のどこにもないことが彼らにはわかっている。

私は自分がほとんどの場合迷妄の状態にあることがわかっている。(とても深く悟っていると私が最近考えているある先生がいるのだが、彼にそう言ったら「ああ、僕もだよ!」と陽気な答えが返ってきて、それで素晴らしくほっとした) 人間としての自分について言えば、いまでもいろいろな神経症がある。指噛みはするし、心配したり不安になったりすることはあるし、落ち込むこともある。今でもときには、自分や他の人たちや世界に関する思考のストーリーに巻き込まれることもある。理屈っぽくなったり、批判的になったり、短気になったり、むきになったり、怖がったり、傷ついたりすることも続いている。そしてその結果、人に話をしたりミーティングをする資格がまったくないような気分にもなる。だがそこで思い出す。人に話をするというのは完璧であるということではないのだと。そしてなぜかはわからないが、生は私を動かしてこの仕事をさせ、私は現れて、そこにいて、最善を尽くす。自分にできるかぎりのことをする。私の心からの願いは、自分にとってもっとも大切なこと ― 存在-気づき、〈今〉、在ることの生き生きとした感覚、わからないというむき出しの驚き ― のためにここにいるということ、道なき道における友人であること、それから、できればときには役立つガイドにもなることだ。真のガイドは、内にある導き、私のものでもあなたのものでもなく、あらゆるものがその中で現れては消えていく気づき、背景のない背景をいつでも差し示す。

先生のなかに私にかつてこう言った人がいた。それはトニとジョーコーがどれだけ素晴らしいかということを、私が飽きることなく話し続けていたときだったのだが (自分自身の至らなさがその裏で表現されていた) 、「トニもジョーコーもいい先生だということは間違いないが、あなたも彼らと同じくらい大きいということだけは忘れないでほしい」と。彼が私を持ち上げるためにそう言ったわけではないのは確実だ。彼はことの核心をまさに指し示していたのだ。それはずっと考え続けるべき公案だった (今でもそうだ) 。誰かをグルとして崇めている人たちがいたら、そういう人たちに向かって私はまったく同じことを言うだろう。私たちはひとつの大きな存在なのだ。

それからトニが以前言ったように、「与えられるものもなければ、手にできるものもない」。

== 訳は以上 ==

同じようなテーマでルパート・スパイラが答えているQ&Aを以前訳した。

教師は必要か? ルパート・スパイラ

ふたつの文章はだいぶ雰囲気が違う気がするが、3年前にルパートの上のQ&Aを訳したときは、完璧な先生というものが必要だと思っていたし、求めていた。

今はそういう気はしていない。生そのものが先生だ、ということの自由さに惹かれている。そのなかに、人間としての先生に出会うというストーリーが現れるのであれば、それは素晴らしいことだと本当に感じるが、それを条件にしてしまって他のことを台なしにするとしたらもったいない。

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先生は必要か ジョーン・トリフソン」への7件のフィードバック

  1. ある方のリンクから、またまたこちらに出会いました。
    出会えてよかったです。ありがとうございました。

  2. 若い頃ユクテスワやヨガナンダの著作を愛読していたので、今でも完璧なグルであるアヴァターに会ってみたいと言う欲が落とせません。
    妄想だろうとは思うのですが、ヒマラヤには何かがあるのではないかとか、完全な悟りに達した超人たちのサークルがあるのではないかと言ったお話が頭に刷り込まれています。

  3. 昼下がりの雲上人さん、コメントありがとうございました。

    TKさん、こんにちは。
    それ、すごくよくわかります。僕もヒマラヤ聖者とかサイババの奇跡の話を読んで、うっとりしていたことがあります。
    白馬に乗った王子様が迎えに来るという話に近いものがあるのかなとも思いますが、悟りや目覚めとは全然関係ないとしても、ロマンはありますよね。

  4. うまくいえないのですが、感動しました!
    先生というものについての話し、というよりジョーン・トリフソンの正直にありのままいまを生きる迫力を直に感じました。

  5. パラマハンサヨガナンダやユクテスワさんらへんではヨーガを学ぶらしいのですが、いろいろな技法があってちょっと複雑に見えます。
    ですが、たぶんやり始めた瞬間に悟ってるんでしょう。
    悟った後も、それを維持するためにいろんなポーズやら呼吸やら瞑想が考案されているだけで意味はないと思います。
    著作の中には奇跡がたくさん書かれていますが、たぶん自分たちでもできます。
    言葉で命令しているだけだと思いますよ。
    自分でやってみると、ダイヤモンドの指輪でろとかやってもでませんが。
    彼らの環境が許してしまうんでしょうね。

  6. こんにちは、ヒロさん
    この記事とてもよかったです。私は覚醒体験をしましたが、人間の部分としてはまったくもってダメダメで、人に話すのも資格がないように思えていました。本当にそんな体験をしたのか?と言われるぐらい、まだまだ色々な問題を抱えています。でもこの記事を読んで、それでもいいんだって・・・。これからも人生の旅は“ある”という存在と人間としてのわたしとで続けていきたいなと思います。
    今後の自分の身のふりかたについてとても参考になりました。
    ありがとうございます!!

  7. 中村さん、こんにちは。ワタワタ具合がどうなっているのか、少しだけ気にしていました(笑)

    ジョーンは最近すごくたくさんの文章を書いています。その1割も訳せていないのですが、いくつかピックアップしてみたいとは思っています。(年内にあと一つか二つは)

    コメントありがとうございました。

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