死の恐怖 ジョーン・トリフソン

 
久しぶりにジョーン・トリフソンの文章の和訳。最近彼女がFacebookに書いたものだ。題名はないが、死の恐れについてのもの。

== 以下、和訳 ==

死んだ後に何が起こるかということについて、私の見解を聞かれた。死後についての考えは人によってまったくバラバラだが、実際に死後を知っている人は一人もいない。死からほんとうに生還した人がいないからだ (臨死はしょせん死ではない)。

人間のあいだにはある恐れが拡がっているようだ。それは「私」が永続しなくなるということの恐れで、そこには、「私」が死後もあり続けて「私」が終わりを迎えたのを知ることになるという奇妙な観念が伴っている。その観念はまるで、生き埋めにされ、テレビのスイッチをまた入れなおすこともかなわず、自分の人生という刺激的な物語の次のシリーズを見られなくなるというようなものだ。その一方では、臨死体験をした人たちの多くが絶対的な確信と共に語っている。死後には真の天国が待ち受けていて、そこには綺麗な木や花があり光と愛で満たされていて先に死んだ親戚たち皆が ― 輝きを取り戻した若い頃の姿で ― 私たちの到着を待ち構えている、と。そうした臨死体験が真実であることは私も疑っていない。それが経験として起こったということ自体は。だが、そういう場所が「どこか」にあって私たちを待ち構えていると信じるのは、たったいま何かが「どこか」にあると信じるのと同じことだ。

私の認識では、死や自分が存在しないことに対する心理的な恐れは (襲ってくる虎から逃げるのを促す本能的な恐れとは対照的に) 、誤認に基づいたものだ ― 私はよくそうした恐れを大昔の人たちが地球の端から落ちるのを想像したときに感じた恐れにたとえる。地球は平らだと考えているのであれば、その恐れは正当なものだ。死ぬ「何か」が存在していると私たちは思い込んでいる。実体があって個別性をもって存続しているが永久的ではない「何か」 (ランプ、テーブル、犬、猫、人々) が存在していると信じている。そして、死後も「私」は存在し続けるのだろうかといぶかっている ― そこで「私」という言葉で意味されているのは、最低でも意識をもった存在であり、ふつうは「自分」という何らかの感覚や、これが私だと考えているこの人間だ。実体があって個別性をもって存続していていつか死ぬこういう「何か」があると信じていて、さらに「自分」あるいは「自分の魂」も個別の何かだと考えているのであれば、死を恐れるのは至極もっともなことだ。

伝統的な宗教やニューエイジ的なスピリチュアリティの大半は、そうした恐れを和らげるのを目的として天国、地獄、輪廻転生、天使などについて語るが、それを私は気休めの神話と呼んでいる。そうしたものは文字どおりのものとして解釈されることが多いが、こうした神話は実際には、終わりを迎えるようなものは何もなく、現実は根本的には永遠なのだ (これは今が時間を超越したものであることを示す言葉であり、無限の期間を表す概念的なイメージではない) という誰もがもっている直感を理解し表現する方法なのかもしれない。そして当然だが、夢と錯覚の世界においてはどんなことでもありえる。空を飛び回る天使も、ずいぶん昔に死んでしまった親戚が若かりし頃の姿で揃って待っている、すべてが愛と光でできている真珠のように輝くふわふわの世界も。だから、夢を見るのを楽しめるのであれば、夢を見続ければいい。私は夢にも神話にも反対していないし、どんな経験も経験としては等しくほんものだ。でも私に言わせれば、こうした観念は、それが文字通りに受け取られるとしたら、〈ここ・今〉にあるものについての考え違いに基づいている。

死に対する恐れが自分にはないことに私は気がついている (虎が襲いかかってきたら飛びのかせる役目を果たす、身体に組み込まれた生存のための恐れを逸脱したもの) 。と言っても、死後の世界も輪廻も私は一切信じていない。なかには信じている人たちもいるだろうが。それから死んだ後も自分としてここに居続けるという期待もしていないし、そんなことになったらどうしようという心配もしていない。死後は「無」しかなくなると考えているわけではなく、どちらかといえば私にとって誕生や死というものは、実際には始まりも終わりもなく境界もなく継ぎ目もない〈今〉であるものの中にある観念的な境界線なのだ。個別の魂とか、継続するような意識の個別単位というものがあるとはまったく思っていない。そのようなものは今ここには見つからないからだ。いまの形のまま生き残りたいという衝動を私は感じていない。この形は、瞬間瞬間に死んで新たに生まれ変わっていて、それは他の何からも切り離すことができない。あらゆるものがあらゆるものを包含していて、止まることのない流れにほかならず、その流れのなかで一時的にしても「何か」が形づくられることはない。その意味では、死んでしまった私の大好きな人たちは全員今でもここにいるのだが、それは部屋の中を飛び回っている身体を持たない霊としてここにいるとか、新たな身体に生まれ変わった魂としてここにいるとか、若い姿に生まれ変わってはるか天国で (あるいは恐ろしい地獄で) 私を待っているということではない。

なかには、意識がなくなり自分がここにいなくなるという忌まわしい「無」を恐れている人たちもいるが、私はそれも恐れていない。それは、毎晩熟睡しているときにはここにいるという感覚も意識があるという感覚もすべて消えてしまうけれども、それを気にする人もそこにはいないということが私にはわかっているからだ。私にとって熟睡は深い休息と回復の源であって、ぞっとする悪夢ではない。死がそれと同じであっていけない理由などあるだろうか?

死についてまったく恐れていないと言っても、死にそうになったら恐れが生じるということはありえる。そのこともまったく恐れていないが、またそのことについても恐れが生じるかもしれない。禅の片桐老師がかつてこんな意味のことを言った。悟りとは良い死に方 (恐れをもたず、落ち着き、穏やかに死ぬ等) をすることではない。悟りとは良い死に方をする必要がないことだ。悟りとは何が生じようが、それが喜びであれ絶望であれ穏やかさであれ恐怖であれ、ここにいようとすることなのだ。

死についての見解については、私のウェブサイトの文章 Death and the Deathless (和訳はこちら) でも紹介している。それから、死と老いについてもっと詳しく書いた本を準備中で、うまくいけば2014年中に出版される。

== 訳は以上 ==

父も母も今年死んでしまい、死についてよく考える。「死なんて無い」とか言いながらこれまで観念的にいばっていただけなんだな、と思い知らされる日々だ。

ついでに法要とか墓についてもぐちぐちと悩んでいて、「墓なんて、どれだけどうでもいいことで悩んでるんだよ」と他の人たちを小馬鹿にしていたのがウソのようだ。皆さん、ごめんなさい。

以前は自慢だった記憶力も怪しくなりはじめ、頭髪も体力の衰えもすべて他人事ではなくなり、じつに弱気だ。でも「弱るってちょっと楽しいね」という言葉も自分のどこかから聞こえてくる気がする (と、まだ強がっている自分もいる) 。

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