なかよしこよし

 
しばらく前に、リサ・ケアンズとティム・フリークの対談 (というより討論と言ったほうが近い) を見た。

Tim Freke & Lisa Cairns & Boris Jansch – Buddha at the Gas Pump

ここでは、二つの立場が鋭く対立している。

リサは、一定の方面からは「ネオ・アドヴァイタ」として批判されかねないような、妥協のない非二元の表現をしている。「すべてはただ起こっている」「過去はない」「経験している個人はいない」「すべては非個人的」といった表現だ。

これに対してティムは、リサの言うことはものごとの片面しか表現しておらず、多様性、個別性を否定するのはひとつの立場にすぎないと指摘する。

たとえばリサが、「 (自分を指しながら) ここではそういう見方をしていない。すべては非個人的な現れにすぎない」と言うと、ティムは「『ここ』という表現をしていること自体、そこで個別性が認識されているのを示している」と言う。

そして、「it’s just happening ただ起こっているだけ」という言い方に対して、「その『ただ』が気に入らない。『起こっている』ならいい。だが『ただ』というのは、恋愛はただの化学反応にすぎないという言い方と同じで悪しき還元主義だ。リサは『ただの想像にすぎない』と言うけれど、『うわ! この想像! すげえ!』という言い方もできる」とティムは強調する。

この動画にはYoutubeでいくつもコメントがつけられていて、両方の立場の意見がそこでも対立している。

こう文字に書くと、そして、「自己は存在しないというのは中途半端な認識。その先にすべてが自己だという認識がある」というコメントを読んだりすると、なんとなくティムに分があるようにも思える。だが、実際にリサの様子を見ていると、すべては見かけにすぎないとして却下している感じは受けない。彼女が愛について「愛は誰のものでもない。私の愛、あなたの愛というのは観念であり、実際には愛があるだけで、愛しかない」と語るときにはなにかが溢れているのが感じられる。

その意味では、言葉や観念の面から見るとここでは鋭い対立が起こっているように思えるのだが、ほんとうは楽しい交流、遊びを見せてくれているのかなという気もしてくる。

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