夏の日々

 
しばらく取り組んでいた本の翻訳が7月の真ん中に一段落した。

そのあと山陰地方へ出かけた。この二日間については、いつか書くこともあるかもしれない。

その後は家族で北海道へ出かけたり、子どもと海に釣りにいったりと、すっかり遊びモードだ。夏の暑さのせいか、せっかくKindleを買ったのに読書のスピードも落ちて、夜に心地よく眠ることが大きな関心の対象になっていたりする。

そんななか、この8月は前から取り組もうとして全然進んでいなかったことを進める気でいる。それは、ある本の翻訳と出版だ。

昨年の春、トニー・パーソンズのウェールズでのレジデンシャルに行ったころ、「すべきこともできることもない」というメッセージに打ちのめされて、すっかり意気消沈していた。(髭に白いものが急速に増えだして、頭の方も急速に寂しくなりはじめたのもこの頃だから、相関関係が多少あるのかもしれない)

何か取り組むことがないと生きていくのが大変だなあという感覚がじわじわと身体に侵食してくるなか、生きる支えとして思いついたのが翻訳と出版という計画だった。定年直後のおじさんの感覚に近いかもしれない。

ともあれ、出版社と版権の契約を交わし、いざ!と翻訳を始めたのだが、動機がそもそも不純なせいか、のろのろと数ヶ月格闘したあと、半分もいかずに頓挫してしまった。自費出版の手続きなども考えるだけで面倒で、そのまま放置していた。

その後、冬になって日本の出版社から本の翻訳の話をもらって、それを半年ほど続けたため、自費出版契約は一時保留になっていた。が、一段落ついた今、急にやる気になったのだ。

前から「この人に頼みたい!」と考えていたデザイナーの方に、装丁とページデザインについておそるおそる依頼して快諾してもらったりして、気分は盛り上がっている。

さらに日本語版特別企画なるものも考えていて、それも考えるだけで楽しい。

と、ブログに書いてしまうことで自分を追い込むということをしているのだが、うまくいくだろうか。

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夏の日々」への3件のフィードバック

  1. 何時も拝見してます。
    札幌にいらしたのですね。札幌は地元です。
    自費出版楽しみにしています。
    予約できますか?

  2. 探求者もどきさん、こんにちは。

    札幌は何度目かだったのですが、東京を離れてからは初めてだったので、都会さにのけぞりました。大きな書店がいくつもあって、おいしいコーヒーを売る店もいくつもあって、うらやましい限りです (冬を知らない「夏だけ観光客」のたわごとかもしれませんね) 。

    本は今年中をめどで進めるつもりですが、また予定が決まってきたら、ここでお知らせします。Amazonなどで手に入るようにする予定ではいます。

  3. 「なにか取り組むことがないと生きていくのが大変」だと感じるのは、森羅万象のすべてが「迷いの世界」であるからです。

    ヒロさんは「あるがままの人」であるにもかかわらず、「あるがままの迷いの世界」に生きているのですから、そのような気持ちになるのは当然なのです。

    前回のコメントでも書きましたが、「善だ悪だ。これが良い、これが悪い。これが悟りだ、これは悟りではない」と心が揺れ動くことによって、「迷い」から「苦しみ」が生じるのです。

    「あるがまま」から「迷い」が生じるのは何故かというと、言葉で例えるならば、それは「迷い」である二つのものが「あるがまま」という一つの原理によって構成されているからです。(本当は区別も言い切ることもしたくないのですが…)

    これは、一つのものが二つの原理によって構成されている二元性とは逆である、と言っているのではありません。

    一つのものであることもなければ一つのものでないこともない、二つのものであることもなければ二つのものでないこともない。

    揺れ動くこともなければ揺れ動かないこともない「あるがまま」であるからこそ、さまざまな現象が生じているということです。

    「あるがまま」には、森羅万象に現れる一切の現象のすべてが含まれています。

    「迷い」という「対を成す」ものがなければ、生滅を繰り返しながら森羅万象が活動を維持しつづけることはできません。

    物質を構成している原子でさえも、原子核というプラスの電気と、その周りを飛び回るマイナスの電子によって構成されていると言われています。

    いわゆる、宇宙も地球も自然も人間も、すべてのものが「あるがまま」から生じた「迷い」なのです。

    そのような世界に生きているからこそ、私たちの思考や感情も楽しんだり苦しんだりするのです。

    ですから、「生きる支えがないと大変だな」と苦しんだときには、「あるがまま」から世の中を見渡してみてください。

    そうすると、自分や他人が「迷いの世界」に生きていることが明瞭に見えてきます。

    そこが見えてくると、クリシュナムルティが「人間は過去100万年なにも変わっておらず、今だに略奪や戦争、争いが後を絶たない」と言っている意味が、「なるほど、そういうことなのか」と理解することができます。

    「あるがままの迷い」の中に生きているからこそ、人間は何度も同じことを繰り返しているのです。

    「迷いの世界」に生きている人間は「迷いの言葉」で語ることしかできないのと同じく、「経験」も「迷いの経験」しかできません。

    「私は正しい、相手は正しくない」と、それが個人から国家へと繋がり、戦争へと発展していく。

    「私は金持ちになって裕福な生活を送りたい、貧困な生活は送りたくない」と、それが個人から企業へと繋がり、あらゆる手段を使って独占していく。

    「これが悟りだ、これは悟りではない」と、それが個人から人類へと繋がり、いつまでたっても「迷い」続けていく。

    それらはみな、「あるがままの迷い」から生じた「苦しみ」なのです。

    「迷いの世界」の中で生きているからこその、パラドックスなのです。

    そのように文明は繰り返されていくのです。

    それを終わらせるためには、どうしたらよいのでしょうか。

    世界が平和になるように「正しいこと」を貫き通すことでしょうか。

    それとも、「正しいこともなければ正しくないこともない、終わらせることもなければ終わらせないこともない」という「あるがまま」から、自分や世界を見つめ直すことでしょうか。

    これは全人類の課題であると思います。

    私は「あるがままの迷い」が悪いものだと言っているのではありません。

    人間は「あるがままの迷い」の中に生きているからこそ、「あるがまま」を見出すことができ、それによって森羅万象のすべてを包み込むことができると感じているのです。

    繰り返しますが、「あるがまま」には、森羅万象に現れる一切の現象のすべてが含まれています。

    「あるがまま」から森羅万象という「迷い」の現象が現れるからこそ、人間としての生命が生じるのです。

    いわゆる、人間は「あるがまま」から生じた「迷いの人間」でありながらも「あるがままの人間」であり、「あるがままの人間」であるからこそ「迷い」が生じるのです。

    では、何故に「あるがまま」から「迷い」が生じているのに「あるがまま」を見出さなければならないのか。

    それは、人間の「本質」である「あるがまま」を見出さなければ、これから先も「迷い」の中で彷徨い続けていくことになるからです。

    「あるがままの人間」であるからこそ「迷い」という現象が生じていることを悟らなければ、「迷い」から生じる「苦しみ」を「包み込む」ことはできません。

    「苦しみ」を「包み込む」ことができなければ、何度も同じことを繰り返すという「迷い」のパラドックスに陥るのです。

    ですから、「迷い」のパラドックスに陥らないためには、「あるがまま」を見出さなければなりません。

    「あるがまま」を見出すと、本当の「愛」が現れます。

    「迷い」から生じる「これが愛である、これは愛ではない」ではなくて、「迷い」に囚われな
    いところの「本質」の奥深くに、全てを「包み込む」ことができる本当の「愛」があるのです。

    「迷い」から生じる「苦しみ」を「包み込む」ということは、森羅万象のすべてを「包み込む」ということです。

    森羅万象を「包み込む」ということは、「あるがまま」でさえも「包み込む」ことになるのです。

    「愛」であるからこそ、全てを「包み込む」ことができる。

    「迷いのパラドックス」を「愛で包み込む」ことによって、そこには「迷い」に囚われることのない、まったく新しい人類と文明が誕生するのです。

    人間は「迷い」によって心が揺れ動いているだけです。

    「迷い」によって人間としての生命が生じているのだけれども、その「迷い」によって心が揺れ動いているだけなのです。

    あるときは右へ偏り、あるときは左へ偏り、右へ左へと揺れ動きながら生きているのです。

    「生きる支えがある、生きる支えがない」と、その中で揺れ動くことによって「苦しみ」が生まれるのです。

    しかし人間の「本質」は、揺れ動くこともなければ揺れ動かないこともない、偏ることもなければ偏らないこともない「あるがまま」です。

    もちろん、人間の「本質」でさえも、本質があることもなければ本質がないこともない。

    本質があっても「あるがまま」、本質がなくても「あるがまま」なのですから、人間の「本質」は有ることもなければ無いこともないのです。

    人間の「自我」も同じです。

    「自我」を消しさえすれば苦しみはなくなると考えている人がいます。

    しかし、「自我」を消し去ることはできません。

    揺れ動くこともなければ揺れ動かないこともない人間の「本質」から「自我」が生じているのですから、自我が消えることはないのです。

    自我は消えることもなく、消えないこともないのです。

    自我は生じることもなく、生じないこともないのです。

    ですから、人間のいかなる経験、記憶、思考、感情、言動、生活、社会でさえも、そこには根源や神や人間の意思が働いていることもなければ、働いていないこともないのです。

    「あるがまま」から生じる「迷い」が一体となって人生があるのです。

    これは「何が起こっても起こらなくても、それでいいではないか」などと投げ槍なことを言っているのではありません。

    何が起こっても起こらなくても、良いこともなければ良くないこともなく、悪いこともなければ悪くないこともない。

    「そんなこと言われても訳がわからない」という人に対しては、前提に「訳がわかる」があるから「訳がわからない」のだよと、そういうことなのです。

    「訳がわかる、訳がわからない」の中で心が揺れ動いているからこそ、人間は「あるがまま」を忘れているのです。

    ならば「悪行といわれる強盗や殺人などの罪に対しても、悪いことでもなく、悪くないことでもないと言えるのか」という疑問も出てきます。

    もちろん悪いことをすれば罪になります。

    誰が何と言おうと悪いことをしたら罪であり、罪を犯したら法律に基づいた処罰を受けなければいけません。

    しかし、そこには根源や神や人間の意思が働いていることもなければ、働いていないこともないのです。

    強盗も殺人も、それに対する処罰も「そのように」に起きているのです。

    これは人間に自由意思がないと言っているのではありません。

    自由意思があることもなければ、自由意思がないこともないのです。

    このようなことを言うと、変人扱いされるかもしれません。

    「強盗や殺人の行為に対して、人間の意思が有ることもなく無いこともない、そのように起きているだなんて、この人はキチガイだ」と非難を浴びるかもしれません。

    人間社会で起こりうることの全てが、人々の意思によって決定されていることが人間の常識となっているので、そう思われるのは当然のことです。

    しかし、善人であろうと悪人であろうと、人間は「あるがまま」そのものなのです。

    人間が善人になろうとか悪人になろうとか、そのように考えて何者かになったのでもなければ、そのように考えないで何者かになったのでもないのです。

    「あるがまま」の人間が、「あるがままの迷い」によってそのようになったのです。

    「迷いの世界」にいながら「あるがままの人」なのです。

    最後に、「すべきこともできることもない」というメッセージに打ちのめされそうになった時は、「私はそんなものに惑わされることもなければ、惑わされないこともない」と包み込んであげればよいのです。

    メッセージなどに揺れ動かされることもなければ揺れ動かさないこともなく、自分の道を「あるがまま」に歩んでいくことが、人の道だと思います。

    ヒロさんが翻訳された本によってたくさんの人たちが救われているのですから、「あるがまま」に人生を突き進んでいってください。

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