何が残る? ジョーン・トリフソン

 
ブログを読んだ人からメールが届くことがたまにある。それぞれの記事にもコメントをたまにもらうが、メールのほうは目覚めを経験した人(目覚めを経験できる人など実はいなかったと気づいた意識?)からである確率がなぜか高い。

そして面白いのが、目覚めの後の「プロセス」、特にいわゆる「in and out」つまり目覚めから出たり入ったりの状態 (「自分」に戻ったり気づきに戻ったり) が続き、探求が終わっていなかった人が、このブログで目にした誰かの文章に接して探求を終えるというパターンがあるらしいことだ。

和訳して紹介しているだけだから、自分では何をしているわけでもない。だが、そうしたことを聞くのはじつに面白い。某亜大陸で昔出会った若者を思い出す。彼は「これが何なのかよく知らないんだけど、みんな買ってくれるんだ」と言いながら、何種類もの (居合わせたドイツ人曰く、相当質が高い) ドラッグを売っていた。

前にも書いたかもしれないが (最近記憶がほんとうにあやしい) 、探求を終えたそうした人たち (探求=人だというトニーが繰り返す公式からすれば矛盾した表現だが) に人気があるのがジョーン・トリフソンの文章だ。圧倒的な支持と言ってもいいかもしれない。逆に言えば、ほかの人たちの文章に対してはそれほど賛辞を聞かない。何が違うのだろうか。

それはともかく、前の記事の続きで、ジョーンの比較的新しい文章を訳して紹介したい。日付け以外には特にタイトルはない。

6/8/13

== 以下、訳 ==

言葉はどんなものでも誤解されやすい。そして非二元について (あるいは仏教やアドヴァイタについても) 言えば、そこで指し示されているものはあまりにとらえづらく、そのため言葉では伝わりづらい。たいていの場合、認識のほんとうのひらめきを最初に経験するまでには何年もかかるようだ。ある意味では、この認識がなぜそれほど難しいかといえば、あまりにも自然で、あまりにも簡単で、あまりにも明白だからだ。マインドにはとうてい信じられないのだ! それから、「どこかあっちの方」にあっていつの日にかやってくるはずの夢のような解放を求めてさまようのは楽しいことで、そうしていれば「自分」があるという錯覚はそのまま生き続けられる。悟りへの偉大な旅の途上にある自分の物語を描いた壮大な映画に出演している自分、そして身を乗りだしてその映画を観ている自分がいつまでも存続するのだ! 果たして悟りは開けるのか!? ハラハラ、ドキドキ、キャーッ! 空想バージョンの悟りは退屈だったり不快だったりすることが絶対になく、現実バージョンの悟りよりずっと魅力的なのだ。

行くべき場所などなく、〈ここ・今〉のそのままがそれなのだと私が話すと、たまにこう考える人がいる。存在しているのは今起こっていることについての「ストーリー」だけ、今起こっていることについての「考え」だけ、あるいは〈ここ・今〉とはなにかという概念だけだと私が言っていると。マインドは言う「車が通る音、コーヒーの味、鳥のさえずり、ゼロになっている口座残高、それが存在するすべてなの?」と。ものすごく期待はずれで、まったく無意味でつまらないと感じるのだ。でもそう感じるのはそれがストーリーにすぎないからだ。車が通る音 (単なるシュー、シュー、シュー) を実際に非二元的に (分割せずに) 聴くこと。言葉がそれを「聴く人」と「聴こえている音」に分けてしまう前、「ただの車の音」というレッテルが貼られる前、車の音なんて無意味でつまらなくて不快でスピリチュアルではなく憂鬱で悟りと関係なくて世俗的だと主張するストーリーがマインドに現れる前、口座残高やお金の不足やそれが自分にとって何を意味するかについて思考が生じる前、非二元のいろいろな先生たちが言う「現象の現れ」は幻想だとか「今にある」という教えがいかに二元的で愚かかという言葉を思考がほじくり出して比較しはじめたりする前、そうしたことすべてが起こる前の、ただのシュー、シュー、シュー (シューに気づいたり感じたりすることから切り離せない) 、それこそが指し示されていることなのだ。そしてそれはどんな意味でもまったく退屈ではなく、つまらなくもなく、無意味でもなく、二元的でもなく、憂鬱でもない!

最近私にこう言った人がいた。非二元にはふたつのバージョンがあるようだと。(この「問題」がちょっとした皮肉だということにすぐに気づくのではないだろうか?) その人いわく、ひとつのバージョンはダリル・ベイリーや私が言っていること、つまり「これがそれだ」というもので、もうひとつのバージョンはムージが言っていること、つまり移り変わる出来事を見守っている何か、〈変わることなく見ている何か〉、〈気づきそのもの〉があり、その現れるものから影響されることのない〈究極の主体〉を私たちは認識したり、それになったり、その主体に同一化したりしなければならないという教えだという。(私の文章をいくつか読んだことがある人は、こうした質問のいろいろなバリエーションに対して何度も私が話をしてきたのを知っているだろう)

この人に言ったのは、私はムージやダリルの代わりに話すことはできないが、〈ここ・今〉から切り離された巨大な「なにか」が「どこか」にあってすべてを見ているといった考えを人に植えつけるつもりはムージにはないはずだということだ。私には、ムージは分離という泡、身体の内側に閉じ込められているという不自然な感覚をただはじけさせているように見える。ムージはもっと大きな背景、直接的で完全すぎるためにつかもうとしてもつかめないなにかを指し示すことで、そうした感覚をはじけさせているのだ。つまり、気づいていることに気づいているのは何かを見つけようとして、その見ることに注意を向けると、架空の泡がはじける。そして自分がたった今、ここにいることに気づく。そこにはストーリーもなければ、ほかのものから切り離されているという感覚もまったくない。そのすべてを包含する〈全体性〉を人が思考でつかんだり知覚したりすることはない。なぜなら〈それ〉が存在するすべてだからだ。私たちはこの〈究極のリアリティ〉そのものなのだが、その気づきが起こったとき、そうなのだと考える思考もなければ、主体と客体のあいだの分離感もない。そうした思考や感覚は単なる概念的な観念だからだ。私の解釈ではダリルもそれと同じことを言っているが、ただ表現は違う。ダリルが強調するのは継ぎ目のなさと絶え間ない変化で、その変化は徹底的でありどんな分離も起こりえないし、はかないと言えるものすら存在していないと言う。ムージは架空の泡をはじけさせるアドヴァイタ的な方法をとり、ダリルはより仏教寄りのアプローチをとる。だが大切なのは、〈ここ・今〉の生きている現実に目覚めること、分離という架空の泡をはじけさせることであり、この認識を言い表したり指し示したりするための地図ではない。私がいつも言うように、地図が役に立つのであれば使えばいい。地図で頭が混乱するなら捨ててしまえばいいのだ。

これは正しい概念や正しい地図を手に入れるのとは関係ない。どんな地図もただの地図なのだ! これはなにかを「手に入れる」のとは関係ない。どこかに行くこととも、何かになることとも、なにかを達成することとも関係ない。そうした試みがまったくないこと。それが指し示されていることだ。それにそもそも、はじけられる泡すら存在していない! これは考えを大事に抱えるとか、理解するとか、よって立つ場所 (正しい地図、正しい理解、正しい信念体系、正しい経験) を探すということではないのだ。解放とは理由のなさ、手放すこと、溶け去ること、自由落下、明け渡し、くつろぎ、自分を開くこと、つかまないこと、固執しないこと、知らないことだ。それはどこにも行かないこと、言い方をかえれば、自分がはじめからずっといた場所、ここに今あることだ。

ストーリーからも解釈からも観念 (肯定的であっても否定的であっても) からも離れてここにあること。そうすると、そこにはきわめて単純なものしか残らない。

もし今マインドがそれは何だろうとわかろうとしたり、なぜそれは今ここにないんだろうと理屈を考えたり、それを手にするための方法を探したり、ここに書いてあることを別のところで聞いた教えと比較したりしていたら、その頭の中の動きをただ見るのだ。そういったことを考えているときどんな感じがするかに注意を向けてみよう。そして、たった今、そうした思考を手放せるだろうか?

もし手放せたら、なにがそこに残るだろう?

この問いは答えを求めてはいない。これは、すべての答えが崩壊するのを促す問いなのだ。

== 訳は以上 ==

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