気づきとその内容 ジョーン・トリフソン

 
ここ数ヶ月ほど、ジョーン・トリフソンはFacebookでたくさんの文章を発表している。そのなかのひとつ、最近のものを彼女自身からすすめられた。ウェブサイトに転載されているものを、和訳して紹介したい。特にタイトルはつけられていない。

2013年5月29日

== 以下、本文 ==

私が気づきの空間を見落とし、そのかわりにそのなかで現れては消えていく経験のことにだけ注意を向けているのではないかという質問を最近受け取った。質問者は私の本を読み、存在しているのは車が通る音、コーヒーの味、なんであれ今起こっていることだけだと私が言っているように感じたという。通りすぎていくこうした経験すべてに気づいている〈それ〉を私は見逃していたのだろうか?

私はこう思う。通りの音やコーヒーの味のなかで生きているなにかこそが、それに気づくということなのだ。それこそがその現在性、あるいはその本質だ。主体と客体のあいだ (気づきと気づきが示すもののあいだ) には分離も境界もない。分離しているように見える「ものごと」は概念的な観念としてしか存在していない。現実には継ぎ目がなく、非二元的だ。

多くの教えが (ときには私自身もそうだが) 、気づきを認識することを強調する。聴いている実在、空間性、思考の上流にある〈見ること〉(あるいは概念を超えた認識) 、現れるものすべての背景のない背景である無条件の自由に気づくことを重要視するのだ。この認識は、ここからここへの道のない道においてきわめて重要な発見となる。そしてまた、多くの教えが (ときには私もそうだが) 、この気づいている実在は実は自分だという認識を大切にする。自分とは独立した肉体精神の内側に閉じ込められた分離した自己ではなく、制限がなく、計りしれない、誰のものでもなく、時間を超えて、場所も超えている、すべてを包含する気づいている実在だという認識を重要視するのだ。さらに、多くの教えが (私自身もときに) 、「気づいている」とか「今ここにいる」ということを強調する。完全に今にいて、注意し、思考のストーリーに夢中になった状態から目を覚まし、〈ここ・今〉のありのままの現実に目覚めているということを重視するのだ。また別の教えは (私自身もそうだが) 、より深い意味では〈ここ・今〉にいないということは実は不可能であり、〈ここ・今〉が存在しているすべてだと指摘する。

なかには (これは見当違いだと私は考えているが) 、現象世界をそのすべてが無価値な幻想にすぎないと無視したり却下したりするよう勧める教えもある。こうした教えは、私たちは身体ではなく、人間でもないと力説する。だが私の見るところでは、目覚めるというのは相対的な現実を無視したり価値のないものとみなしたりすることでも、「絶対にはまりこむ」ことでも、架空の分裂の一方だけに固執することでもない。ある意味では、私たちはまさに人間であり、身体なのだ。それほど明白なことがあるだろうか? 大切なのは、人間であり身体であるというのが私たちのすべてではないということだ。それに、「身体」も「人間」も実は抽象的な概念であり、それが指し示しているものは実際には継ぎ目のない動き、変化であり、ほかのものと切り離すことができない。現実においては、あるものとして別のものから切り離されたかたちで独立して「存在」しているものは何もない。問題 (人間の苦しみ) は、自分とは身体でありほかの何でもなく、また自分とは身体に閉じ込められて他から分離している独立した断片なのだと考えていることに関係している。私たちの苦しみは、ストーリーや概念で構成されている地図の世界や思い込みを現実と取り違えているところにある。だが、ありのままの感覚や直接的な知覚 (現象のそのままの現実) にはまったく問題がない。すべては私たちであるもの、いま存在しているものに含まれている。単一性とは、多様性や個別性の反対ではない。単一性は非二元的ですべてを包含していて、ひとつでもふたつでもないのだ。

でもどんな教えも言葉で表現されたものは、地図、現実の抽象化、道路標識にすぎない。こうした教えを概念的に取り入れ、思考するマインドをつかってそのレベルで意味をつかもうとし、そして地図の中で暮らそうとしたり、メニューやレシピを永久に読みつづけることで空腹を満たそうとしたりすれば、混乱するだろうし、ある標識と別の標識とのあいだに存在するように見える矛盾に悩まされるだろう。だが、地図が土地そのものであることはなく、メニューやレシピが食事そのものであることもない。それにどんな地図にも落とし穴がある可能性がある。誤解の余地があるのだ。ある誤解から私たちを解放するのに役立つ地図があるかもしれない。そしてその地図が作りだす別の誤解から自由になるために、別の地図が必要になるのだ! そんなわけで私が気づいたのはこんなことだ。つまり、瞬間瞬間に私たちは自分に必要な指し示し (地図、レシピ) を見つけるが、その地図のどれかが〈唯一の真実の地図〉であることはない。なぜなら、そんな地図は存在していないからだ。

気づきとだけ同一化し、気づきの内容とは同一化しないことを強調する教えによくある落とし穴は、現実には存在していない二元性が空想のなかですぐに作りだされてしまうということだ。「気づき」と「気づきのなかに現れては消えていく経験」のあいだの分離は完全に概念的なものだ。それは地図に示されている国と国のあいだの国境線と等しい。自分の直接的な現在の経験にしっかり注意を向けてみれば、気づきが終わってPCの画面が始まる地点を見つけることはできないし、「自分の内側」と「自分の外側」が切り替わる地点を見いだすことはできない。だから、この最終的な偽の二元性を解消するために、いくつかの教え (私もそうだが) はすべてに継ぎ目がないこと、分離が存在しないこと、なにもそこから切り離されることのない単一性を強調する。

そしてなによりも私が重要視しているのは、つかまないこと、もしくは無背景性だ。固執しないこと。マインドはつねに「正しい」公式、正しいモデル、正しい地図、よって立つ場所、つかんでしがみつけるもの、信じられるものを欲しがる。マインドはものごとを理解したがり、生の仕組みがどうなっているのかを完璧に説明できるモデルを欲しがり、すべての意味を知りたがる。だが、本当の自由はそれらすべてを手放すところにある。生きている性質、本質は地図の中には存在せず、土地そのもののなか、〈ここ・今〉の現実のなか、生きていて見ていて聴いていて息をしていて気づいている存在と私がよく呼ぶもの、始まりも終わりもなく内側も外側もないそれのなかにあるのだ。だが繰り返すが、こうした言葉はただ指し示しているだけだ。

どんな混乱もつねに概念上のものだ。混乱は地図のなかにしかなく、現実そのもののなかにはない。いま起こっているこの現実には混乱はありえない。こうした言葉が発せられる前、いま起こっていることについて考え、それを頭のなかで観念的な部分に分割してその架空の部分部分にラベルを貼り、それらがお互いにどう関連しているのかをさらに考えるよりも前、そんなような考えが出るよりも前、〈これ・ここ・今〉の裸のシンプルさと直接性にはまったくどんな混乱もないのだ。それはただあるだけだ。

こうしたことについて考えて、さらにどんどん混乱するかわりに、風や車や鳥に耳を傾けてみてはどうだろうか。かたちや色や動きを見る。感覚を感じる。息を感じる。この絶えず変化しつづけるつねに存在している〈ここ・今〉として、ありのままにただ気づきながら、在る。

== 本文は以上 ==

正しい地図を探そうとする動きは止まらない。「正しい」ように見えた地図で痛い目にあう経験を繰り返さないと、その動きは止まらないのだろう。もしかしたらそれでも止まらないのかもしれない。でも、その止まらなさをありのままに見るということがときに起こることがあって、それが不思議で面白い。

この続きとも言うべき文章がある (6月8日付) 。時間を見つけて、訳して紹介することにしたい。

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