トニ・パッカーの言葉 ジョーン・トリフソン

 
久々にジョーン・トリフソンの文章を紹介したい。ここ何ヶ月かは、書籍の翻訳をさせてもらっている関係で、ジョーンが最近書いている文章を訳すことができずにいた。だが、比較的短く、またこれまでのものとは多少毛色が異なる文章がサイトに掲載されたから、許可をもらって訳してみた。

Open Listening: Awareness without a Method

== 以下、訳 ==

意図をもたずに聴く ― 方法を超えた気づき

私の最初の著書 Bare-Bones Meditation: Waking Up from the Story of My Life (『瞑想の骨幹 ― 人生というストーリーから目覚める』) では、私の先生であり友人でもあるトニ・パッカーとのかかわり合いと、彼女が設立した瞑想リトリートセンターのスプリングウォーターセンターでスタッフとして働いた日々がその大部分を占めている。トニは禅の指導者だったが、禅の形式、伝統、教義、階層制度を離れ、方法にも型にもとらわれない非常にシンプルで直接的なやりかたをはじめた人だ。

トニはすばらしいやり方ですべてを問いとして表現した。トニが認識していたのは、人はただ意図するだけでは習慣的で強迫的で破壊的で痛みを伴う行動様式から抜け出すことはできないということだ。ものごとを取り仕切っている主体は存在しないこと、特定のきっかけ (心理的あるいは生理的、もしくはその両方) が生じたときに従来とは異なる新しいやり方で反応しようという欲求や意図があっても、それは習慣や古い条件づけの影響力に圧倒されがちであることが、トニには明確に見えていた。自分がしたいことは何でも自分で選択できると言い張ったり、ほかの多くの教師のように「注意を払え!」とか「自由を選べ!」などと言うかわりに、トニはすべてを問いとして、穏やかな誘いとして、ひとつの可能性として表したのだ。「この憂鬱さ (または不安、喫煙、過食、ほかの「問題」) の感覚が生じているとき、そこに批判的でないオープンで完全な注意を向けられる可能性はありますか?」というように。これは、人に対して「こうすべき」とか「こうしなさい」と命じるのとはまったく異なる。

トニは、すべてを個人的にとらえて「自分」はどれだけうまくやっているか (あるいはどれだけダメか) と評価しようとする思考の二次的な階層についても、はっきりと意識していた。永久に「いつも」注意深く目覚めていたいという欲求に関してトニが話したのは、夏の夜になると魔法のように点滅しながらスプリングウォーターの野原をいっぱいにしていたホタルのことだった。ずっと光っている状態にありたいとホタルが望んでいると想像するのがいかに馬鹿げているか、トニは語った。トニは光と闇がからみあっていることを知っていたが、その気づきもほかのどんな気づきも、それを信念や教義にしないようにつねに注意を払っていた。トニは抽象的な哲学や形而上的なことについての議論を避け、そのかわりに〈ここ・今〉の生きた状態と直接性、この瞬間のありのままの現実、気づいている存在、現実がどうなっているかをじかに体験することに目を向け直させた。注意を向けること、依存症を終わらせること、子どもを怒鳴らないこと、健康的な食事をすること、そうしたことは何をすべきかを「決定」したらあとは意志の力でやり遂げれば解決するという問題ではないことをトニは認識していた。ある瞬間には喫煙を止めようという心からの願いが生じるかもしれないし、別の瞬間にはタバコを吸いたいという圧倒的な欲求が生じるかもしれないが、そのどちらが生じるかをコントロールしている人はいないし、他の人よりも行動力があってそれをやり遂げられるような人はどんなときも存在していないということをトニは認識していた。トニが見ていたのは、「自分で選択できる」も「自分は選択できない」もいずれも思考だということだ。どちらの思考も真実ではありえない。どちらも頭の中の地図、概念的な表現だ。生きている現実が真実であり、それは直接見つけなければならない。昨日でも明日でもなく、〈ここ・今〉において。それは永遠に新しく、つねに新鮮で未知なのだ。それを概念や公式や方法という箱に詰めることはできない。

ここで紹介するBare-Bones Meditation: Waking Up from the Story of My Lifeからの最初の抜粋は、子どものころから悩まされていた私の強迫的な指噛みについて初めてトニに話したときのことを書いたものだ。この「問題」に向き合うトニのやり方は、ほかのどんな依存症や強迫的行動や習慣や、あるいは鬱状態や不安といった「問題の多い」状態にも適用できる。ここに抜粋する。


***

翌朝トニに会った際、このみじめな依存行動について話した。指噛みなど取るに足らないことだと思われるかもしれないが、私が噛むのは爪ではなく肉で、出血することも多い。それに指噛みにあまりに夢中になるせいで、止めようという気にならない。つまり私はまったく麻痺した状態になって、手を噛みながら止めることもできず、ほかのことも何もできず、たいてい何時間もその興奮した痙攣状態におちいるのだ。そんなとき私の感覚は麻痺し、それと同時にひどく苦しくなる。そして当然のことながら私は自己嫌悪に陥り、恥ずかしさで満たされる。これを治すために考えられることはすべて試してみたが、どれも効果はなかった。


トニは私の話を聞き、その依存行動から逃れようとしないことをすすめた。ただそれと共にあってみてはどうかと言うのだ。それはなんだろうか? どんな感じだろうか? 止めたいという欲求や止められないという思いや自分に対する批判など、どんな思考が生じるだろうか? 顎、指、肩、胃に起こる感覚を味わい、部屋の音に耳を傾ける。ただ、すべてのことに耳を傾ける。裁くことなく。


トニは言う。「このすべてが自然にあらわれるのをそのままにしておけますか? 変化を押しつけることはできません。意図の力を持てば、抵抗が生じます。自分で確かめてみてください」

飲酒をやめ、ドラッグをやめ、喫煙をやめたとき、「自分」は一体それをどうやったのだろう? 数えきれないほど何度もやめるのに失敗し、あるときやめることができた。どうやって起こったのだろうか? なにが変わったのだろう? ここには依存的な行動パターンを止めるのを決める力を持っている誰か、「自分」が存在しているのだろうか? そして、もし存在しているのなら、それが必ずしもうまくいかないのはなぜだろう? うまくいく人たちがいる一方で、うまくいかない人たちがいるのはなぜだろうか? いろいろな中毒的な行動パターンを手放すことができた私のような人間が、指を噛み続けているのはなぜだろうか? なぜやめられないのだろう? 何によって、人はやめることができるのだろうか?

トニいわく、習慣にはふたつの要素がある。習慣そのもの (指噛み、喫煙、飲酒など) と、止めたいと思っている観察者だ。その観察者は習慣のひとつでもある。そしてそこには葛藤がある。ふたつの欲求の間の闘いだ。一方には習慣にふけりたいという欲求があり、それは今あるものからの逃避だ。もう一方には止めたいという欲求があるが、それもまた今あるものから遠ざかろうとする動きだ。

トニは言う。本当の解決は完全な気づきにしかないと。完全に気づいているとき、そこには意図もなく、批判もなく、葛藤もなく、問題からの分離もなく、改善したり治したりすべき自己もなく、方向もない。完全な気づきとは、オープンに見ること、くつろいで見ることなのだ。


トニーが私に尋ねる。決定する力をもった存在であるように感じられる「自分」を注意深く見て、本当に詳しく調べ、この選択主体、この行為者を徹底的に突き止めてみることはできますか?

トニと共にやってみると、見つかるのは思考だけだ。お互いに矛盾する思考。たとえば「噛みたい」「止めたい」。それは「観察者としての自分」と「中毒者としての自分」との間の闘いであるように思える。だがどちらの「自分」も思考と想像によって構成されたイメージだ。実際には、どんどん移りかわる矛盾した一連の思考が起こっているだけだ。その思考を「する」人は誰もない。ただ現れているのだ。

「噛まずにはいられない」「止められない」「止めなくてはいけない」「私は中毒だ」「私は中毒者だ」「私はどうしようもない人間だ」「どうすれば止められるだろう」「このことさえ片付ければ、満足できる」「これを止めたときに感じることを感じるのは耐えられない」「もうお手上げだ。絶望的だ」「こんなことがずっと続いている」「もう手に負えない」「私は絶対にここから自由になれないだろう」「自分をしっかりコントロールできなくてはいけない」「こんなことうんざりだ」「健全な状態になりたい」


「こうしたものは全部思考なんです。それがわかりますか?」トニーは言う。

「でも中には本当のこともあります」私は答える。

「そうでしょうか?」 トニは熱をおびた強烈さでそう尋ね、目を閉じながら両手を宙に浮かせ、聴いている。

「だって、私は確かに中毒です。それに実際に手に負えません」 私は食い下がる。


トニは答える。「思考は客観的に事実を報告しているだけのように思えます。「私は中毒で、それを自分で制御することはできない」と。でもそれはほんとうに事実でしょうか? あるいは観念でしょうか? そうした思考には大きな力があって、どんな思考も身体のなかに神経化学的な反応を生じさせます」


トニは言う。 そのときどきでより大きな力を持っているほうが勝ちます。そして「自分で止めることができたのだから私は優れている」という思考か、「意志が足りなかったから私は失敗者なのだ」という思考が生じるのです。思考は何かを「した」主体である「自分」、その結果「成功した」自分、「失敗した」自分をつくりだします。そのあと、自分についての思考がすぐにもっとたくさん現れます。「私は悟りへ向かう途上にある」とか「私はひどい破滅に向かっているダメ人間だ」というような思考です。こうした一連の思考のいずれもが、身体のなかに大きな反応を生みだします。気持ちのよい感覚やみじめな感覚、高揚の感覚や憂鬱の感覚です。

「影響力をもったこうした思考や、思考がもたらす身体の感覚のすべてが、「自分」という観念、「自分」というイメージを中心に展開しているのがわかりますか? そういうことすべてが思考だとわかりますか?」

ミーティングルームの外を見ると雨が降っていて、窓をつたい流れ落ちている。

私が気づいたのは、このワークにおいては今あるものを裁いたり、邪魔したり、コントロールしたり、整理したり、変えようとしたりはまったくしないということだ。注意があるだけなのだ。追い求めたり名づけたりしようとすれば、そのとたんに消えてしまう注意。注意は現れては消える。すべきことはなにもない。でもなにもしないことに熱心であれという黄檗禅師の言葉を、トニはリトリートの最終日にいろいろな人の言葉とともにかならず紹介する。


雨は雪に変わり、また雨に戻る。空気は冷たく、濡れ落ち葉や湿気や腐葉土や最後に残った野生のリンゴの匂いが漂う。甘く、ツンとくるような香り。木は裸で、夜明けには池の表面に薄い氷ができる。

(Bare-Bones Meditation: Waking Up from the Story of My Life (1996年刊)の71~74ページより)



***

次に紹介する一節は、トニ・パッカーから私が学んだなかでなによりも微妙で重要な教えのひとつを伝えている。直接見ること (ここ・今) と過去に見たことについての思考のあいだにある違いとしてトニが示していることは、非常に本質的でありながら誰もが簡単に見落している。こんな一節だ。


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私はトニに言った。私は絶望しているんです。というのは、未来について考えたり指を噛んだりする習慣をちゃんと見ているのですが、どの習慣もしつこく現れつづけているからです。何年も何年も何年も続けて。


トニはこう言う。「その点こそ、まさにほんとうに識別すべきところです。あなたは習慣をちゃんと見ていると言いますが、それは本当に見ているのでしょうか。それとも考えているだけなのでしょうか? 習慣的な行動がどれだけ続いているかを考え、永久に続くのではないかと考え、解決できないと考え、どうやったら治せるかを知りたいと考えているのではないでしょうか。それは見ているとは言えません。考えているんです」

このワーク (もしくは生そのもの) は実にシンプルだ! でも私たちはそれに抵抗し、抵抗しつづける。存在していない解決策を探し続けてしまうのだ。

(Bare-Bones Meditation: Waking Up from the Story of My Life の230~231ページより)



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トニが言っていたのは、もちろん、問題を解決しようとしてはいけないということではない。トニが指し示していたのは、人が問題に向き合うときの典型的で見当違いなやり方だ。私たちは問題について考え、考え、考える。分析し、ラベルを貼り、その問題がどれだけ続いたかを考え、状況がいかに絶望的かを考え、うまくいくかもしれない解決法が現れるかもしれない未来を想像する。そして、たった今ここですることができる、唯一の効果的なことはしないのだ。その唯一のこととは、考えるのをやめ、この瞬間のありのままの裸の現実とともに〈ここ・今〉に完全に在るということだ。この解決策が未来にあることは決してない。目覚めが起こりえるのは今だけだ。癒し、変容は気づきのなかにあり、聴いている実在のなかにあり、何も求めない開放性のなかにある。気づきは無条件の愛、知性そのものだ。気づきはまったく驚くようなやり方ですべてを変える。思考が想像できるどんなものをも超えて。

***

「現れるすべての問いは、もしその根源まで遡れば、思考から生じていることがわかります。思考は架空の問題をつくりだし、そうしてからそれを解決しようとします。それはすべて引き伸ばしの形態です。真実はまさに今あります。目の前に。そのままで。」


トニは言った。「原因を探るべきことなどまったくありません。あるのは、原因などないひとつの瞬間だけなんです」

(Bare-Bones Meditation: Waking Up from the Story of My Life の222~223ページより)


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「私たちはグル、理想的な状態、悟り、ましな人生、もっと完璧な自分を探し求めます。分析し、考え、ついに完全に「わかる」こと、答えを知ることを求め、正しいことをしようとして懸命になります。でも最後には、眠りのなかで、死によって、あるいは目覚めのなかで、すべては静寂に溶け去ります」

(Bare-Bones Meditation: Waking Up from the Story of My Life の238ページより)


== 訳は以上 ==

ジョーンのウェブサイトでは、この文章を含めて彼女のさまざまな表現が紹介されている。
http://www.joantollifson.com

そしてBare-Bones Meditationは、Random House/Bell Tower/Three Riversから1996年に刊行された。
http://www.joantollifson.com/books-bare-bones-meditation.html

また、トニが設立してジョーンが長く滞在していたSpringwater Centerのサイトはこちら。なおトニ・パッカーは現在80代半ばで、介護を受けながらも人には会い続けているそうだ。
http://www.springwatercenter.org/

ジョーンからは、最近反響の大きかったというふたつの記事について教えてもらった (このページの5月29日と6月8日の投稿) 。時間を見つけて、次はその文章を訳して紹介したい。

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