アンバランス

以前よく、いわゆる悟った人たちの熱心さについて考えた。毎週ミーティングをしたり、たいして売れないことはわかっている本を何冊も書いたりする。ミーティングでは、朝から晩まで飽きもせずに同じような質問に答え続ける。それに加えて、毎日のようにフェイスブックやブログの記事を更新する人もいる。「自然なリアリティ」について話しているというのに、その熱心さはどう見ても不自然じゃないの?と不思議に思ったのだ。

そして今週、クリシュナムルティの本のAmazonレビューを眺めていて、クリシュナムルティの著書や講演録というものがどれだけ大量にあるかに気づき、あらためて驚いた。長年にわたって続けていた表現がかたちになったものだが、かたちになっていないものを含めたら、想像を絶するような量の表現がされていることになる。

ラマナもニサルガダッタも病気をおして最期まで話し続けていた。

で、気がついたのは、それはたぶん何かのバランスなのかなということだ。ひどいアンバランスがあると、それを正そうとする力が働く。女性の権利がいちじるしく侵害されていれば、男女同権運動がはじまるし、あまりにひどい思い違いは現実によってその反対の可能性が示される。

だから、悟りや目覚めについての熱心な表現も、あまりにひどいアンバランスに対するバランス作用なのではないかと思う。アンバランスとは、たぶん、主体と客体がはっきり分かれていて、全体から分離した個人という存在が意志をもってものごとを動かしているとか、悟りという目指すべきものがあってそれは実にスゴイぞ!とかいったリアリティに反している(らしい)思い込みのことだ。

もしそうだとしたら、世界全体がその思い込みに覆われているとき、それに反する表現が強烈で粘り強いものになるのは当然なのだろうと思う。そこには個人性がない。

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しばらく前の記事で紹介したShinoさんのブログで、彼女の友人のブログが紹介されていた。そこでこんな記事に出会った。

魂の目的って?

読んでいるとちょっとトリッピーな感じがあったのだが、それはいいとして、「多くの人が、そのことに自然と気づいていませんか?」という言葉にはっとした。

そして、探求は本当に要らないのかもしれないという可能性が見えた気がした。

もちろん探求のエネルギーの慣性は残っていて、探求は要らないのかもと言ったところで、終わるわけではない。だが、アンバランスそのものである探求は、じつはそれほど耐久性があるものではないような気もする。

そう考えると、むしろ探求者というものが成立していること自体が珍しい奇跡のような気がしてくる。

そして、OSHOやクリシュナムルティやグルジェフの本、それに『ヒマラヤ聖者の生活探究』シリーズが並ぶ書泉グランデの精神世界コーナーに通っていた自分、飛行機に乗って非二元のミーティングに行き探求者というアイデンティティをがっちり握っている自分という光景は、ものすごい冗談のように思えてくる。「はい、ここ、笑うところですよ!」という合図がずっと出ていたことにやっと気づいて苦笑いするような。

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アンバランスが正される過程では、バランスがとれた状態を超えてしまい、一瞬逆に振れすぎる振り戻しのような現象も起こる。それが、過剰な量の表現になって現れているのだろうと思う。

だが、その振り戻しの時代もなんとなく終わりつつあるのかもしれない。20世紀型の「大聖者」「大覚者」という物語がもう成立しないのは当然として、そもそも語るべきことがそこにあったんだっけ?ハテナ?という段階に急速に近づいているような予感もある。

それがバランスのとれた状態なのか、またひとつのアンバランスなのか、それはわからない。ここに表現された思考も、なにかのバランス作用のひとつで、これもまた冗談のひとつだという感覚だけはあるのだが。

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アンバランス」への2件のフィードバック

  1. 寝ぼけてた状態から目が覚めると
    何重にもつけてた色眼鏡を外した時みたいに
    色々クリアに見えて気付きみたいのが押し寄せてきたんですけど至福とかそういうのも相まってなんか表現したくなるんですよね…
    で、ブログ書き始めたり人集めて語ったりし始めるする人たちが出てくるんでしょうけど、僕の場合はこのブログで紹介される人や聖者とか言われてる人が既に言ってることを繰り返すのもバカらしくそんな気が起きないし、宝くじ当たらないかなって事の方が興味あったのでw溢れる気付きも気付いては捨て気付いては捨てって感じでどうでもよかったです。
    暴論だとは思いますけど釈迦もクリシュナムルティも聞かれる立場じゃなかったら特に言いたいことはなかった気もします。
    欲望と一緒で、対象を設定しないと語る言葉も発生しない気がするんですよね。
    僕は探求していて目が覚めた訳じゃないですけど、探求って探検みたいに前のめりになって進むって感じですが自分(身体)から一歩下がって世界を眺めれば「ああ、そりゃあ完璧だな」って思える気がします、それも難しいのだとは思いますが。
    まあ、探すのをやめた時見つかることもよくある事で、ですねw

  2. 豆腐さん、コメント(というかコメントというにはもったいない洞察)をどうもありがとうございます。

    「溢れる気付きも気付いては捨て気付いては捨てって感じでどうでもよかったです」というのはじつに強烈です。そんなのありか!?と。気づきを自分のものにしたがっている自分が思いっきりここにいることに気づかされました。

    まったく探求していなかったのに自然に目覚めたというパターンの人 (David Carse) の本を読んでいるのですが、探求歴ウン十年で目覚めたパターンと違って、かなり変です(視点をまったく共有できないので)。目覚めてからラメッシに会いにボンベイに通ったけれど探求者たちから半分嫌がられたというようなことが書かれていて、面白いです。彼は本を一冊出しただけで、先生業はしておらず、アメリカで大工をしているそうです。

    そういう人にこそ話を聞きたいという感じもします。豆腐さんの表現も最高です。ありがとうございます。

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