何に妥協しないか

 
トニー・パーソンズが序文を書いている本がけっこうある。そうした序文でキーワードになっているのが、uncompromising (妥協していない) という表現だ。

A地点からB地点に至る道を提示したり、そうした動きを前提にしたりしているものはすべて二元的であるとしてトニーは却下するのだが、彼がuncompromisingな非二元的表現だと「認定」した本にだけ序文を書いている。

ここで面白いのは、著者の中には後になってからそのuncompromisingな立場を離れる人がいるということだ。その一人がガイ・スミスという人で、10年以上前にThis is Unimaginable and Unavoidableという本を出していて、そこにトニーが序文を書いているのだが、その後しばらく経ってから、「転向」している。

そのことについて、ガイはConscious.TVのインタビューで静かに語っている。

Guy Smith – ‘The Challenge of Integrating Who You Are’ (Youtube)

現在の彼は、身体をより重視し、ボディ・サイコセラピーというセラピーをしたり、環境問題に取り組んだりもしているようだ。ガイは、「自分はいない」から「自分は身体だ」に認識が変化したと語ってもいる。リアリティの本質を垣間見た人が、その「妥協のない」表現から離れ、いわば地に足のついた表現に移行しているのは面白い。

同様な動きを見せている人にジェフ・フォスターがいる。究極のリアリティに拘泥し、現実の問題には目をつぶってしまうスピリチュアル・バイパシング (スピリチュアルな迂回) について、ジェフは最近よく語っている。以前は文字通り相当ラディカルな非二元の表現をしていたが、今はかなり違う。

以下は、ガイ・スミスのウェブサイトに置いてある書きかけの文章の和訳。

SPIRIT

== 以下、訳 ==

この記事はスピリチュアルな分野に関わっている人のために書かれた。何年か前に本を出版したことによって、僕は正式にこの世界に関わることになったが、それ以来このコミュニティと関係している人たちに対して特に感情的な関わりあいと責任を感じている。ここで書くことが、そうした人たちのほんの一部にでも伝わることを願っている。

スピリチュアルな取り組みに関わっている人たちにとって、その取り組みがどんなものであれ、用心しなくてはならないもっとも重要なことのひとつが、言葉がどれだけ人の知覚を規定しているかということだ。つまり、「スピリチュアルな先生」が何かを言ったり書いたりして、それを私たちが聞いたり読んだりするとき、その言葉は、私たちが自分自身や他者やまわりの世界を知覚し、理解し、つきあうやり方に間違いなく影響する。これはスピリチュアルな表現に限らずどんな言葉にも当然当てはまることではあるが、スピリチュアルな伝達においては、特有の二つの要素がそこに加わる。

ひとつは、「スピリチュアルな先生たち」は、意識と存在の特別なレベルに到達しているという印象を与えることがよくあるという要素だ (このことを先生自身がはっきりと否定することもあるが、それでも態度や雰囲気によって特別さがそれとなくほのめかされる) 。そのため、私たちは彼らが「特別」で「自分よりも上位」にあることを認めるよう、そして彼らの言葉を「神の言葉」にほかならないものとして認識するよう、強い圧力を受ける。このことによって、当然ながら、先生の話す言葉のひとつひとつが私たちの知覚を左右する度合いは大いに高まる。

ふたつめは、スピリチュアルというテーマが、過剰に一般化されやすいという要素だ。つまり、語られるのは「リアリティの本質」「存在の本質」「自己の本質」といったことであり、たとえば中央アフリカのある部族に属している7歳のある子どもの特有のふるまいといったことではない。そのため、スピリチュアルな先生たちが言うことは、私たちの思考のなかで極めて限られた特定の領域だけではなく、私たちの知覚の全体的な形態にまったくの根底から影響を与えるのだ。

言い換えると、スピリチュアルな先生たちの言葉は、特別に強力なやり方で私たちの知覚に作用するだけでなく、先生たちが自らを「高次の」あるいは場合によっては「神聖な」存在であることをなんらかのかたちで通常は示すため、彼らの言葉は根本的かつ全体的に影響する。私たちのあらゆる知覚のまさに基盤に影響を及ぼすのだ。

このことは、もちろんスピリチュアルの主要な魅力でもある。つまり、私たちが生を経験し知覚するやり方が、強力に根本から完全にひっくり返ることに対する期待だ。だが、このスピリチュアルな期待という望みや興奮のただなかで、一瞬でも正気になったとしたら、この魅力こそが、私たちがもっと用心深くあるべき大きな理由であることがわかる。

僕自身が関わってきたスピリチュアルの分野は、「アドヴァイタ (ネオ・アドヴァイタも含む) 」そして「非二元性」として知られている領域だ。ここではこの特定の領域に焦点を合わせる。それは僕自身がもっともよく知っている領域だからだ。だが、この領域における概念の多くは、現代のスピリチュアル界のいろいろな概念と多くの共通点を持っていて、類似したり重なったりしている。そのことを承知した上で、話を進めたい。 (続く)

== 訳は以上 ==

これは非二元の認識あるいは非二元の表現そのものに対する批判ではないが、ガイが問題にしているのは、非二元のミーティング等で特に見られるメカニズムだ。

これを読むと、僕は自分の新左翼時代を思い出す。マルクスやレーニンの「神託」があり、そのメッセージは認識や知覚に根底から影響を及ぼす。世界が文字通り変わってしまう。だが、そこでは多くのことが抜け落ち、多くのことが瑣末なこと、あるいはブルジョア的なこととして簡単に却下される。身体のどこか、ハートのどこかでは、それがしっくりこないことはなんとなく感じる。が、すでに「神託」を中心とした世界に身を投じているため、その矛盾は外部に投影されがちで、無数の「敵」が次々に現れる。

まったく単純なことだが、メッセージを伝えている人たち自身が楽しそうかどうかということが、ひとつの判断基準になるんだろうと思う。

そしてたぶん、アジャシャンティの言う「正直さ」を大切にすれば、自分の本質やリアリティの本質をどう認識するとしても、もしそこに迂回のメカニズムが働いているとしたら、そのことに気づくはずだ。非二元であれなんであれ、正直さ、誠実さがキーになるのだろうと感じる。

だから、「正確」な表現にこだわるという妥協のなさではなく、正直に見る、正直に感じるということについて妥協しないことを心がけたい。(心がけたり心がけなかったりする「自分」は架空の存在だ、と横からすかさずつっこみが入ってしまうのだが、そのつっこみの動機も正直に見つめたい)

それが何のためなのかはわからない。だが、そうしたいという感覚を信頼したい気がする。

広告