無条件の信頼 レオ・ハートン

 
信頼にかんするレオ・ハートンのインタビューについて、翻訳の許可をもらった。2005年のものだが紹介したい。

前半はどこにピントがあっているのかよく分からない話だ。だが、後半は迫力が出てきて、最後はだーっと押し切られる感じが面白い。その迫力が表現されている訳になっていることを願う。

Amigo 9 – Leo Hartong ‘Trust’

== 以下、訳 ==

信頼というのは、いろいろな方向から考えることができる独特なテーマだ。たとえば、盲目的な信頼ということについて語ることもできるが、信頼の悪用というものもある。長年にわたって信頼してきたものが急に駄目になることもある。信用 (credit) という言葉は、ギリシャ語で信頼を表すcredereという言葉から直接生まれたものだ。銀行員であれば、人にクレジット枠 (信用枠) を付与するときは、その前におそらくいくぶんかの調査をするだろう。あるいは、日常生活を支障なく進めるために必要な、ある種の基本的条件として、信頼のことを理解することもできる。相互の信頼は、他の人たちとうまくやっていくための優れた土台だ。だが、自分自身を信頼するということについて話したとたん、アドヴァイタはすぐに「自分自身とは何か?」という疑問を持ち出す。Awakening to the Dream (『夢に目覚める』) の著者レオ・ハートンに話を聞く理由としては十分だろう。

信念の問題ではない

Q. 知っていると思いますが、Amigo (訳注: このインタビューが掲載されているウェブマガジンAmigo) のこの号の主要テーマは「信頼」です。このテーマにどう手をつけたらいいだろうと、今日一日考えていました。偶然ですが、今日の新聞に載っていたクロスワードパズルをしていたら、横の28番は「信頼」というヒントで、その部分の答えは「信念」でした。

この点から「信頼」について考えるというのはどうでしょうか。このパズルでは、信頼と信念とが同義語としてとらえられているのは明らかです。となると、何かを信頼するということは、何かを信じることと同じだということになります。私もある程度まではこの考え方に賛成できます。

アドヴァイタの文脈において、信頼や信念をどのようにあなたは理解していますか?

信頼・信念は、一体性 (ワンネス) を経験するための最低限の要件なのでしょうか?

A. アドヴァイタは、どちらかと言えば疑い深い人たち、思考と理解の中に答えを探そうとするジニャーニ・ヨーガ (ニャーニ・ヨーガ) の熟練者のためのものであると考えられています。そして、信頼や信念といったものは、バクティ・ヨーガや宗教にふさわしいものであると考えられています。でも、知の「道」と愛の道のどちらにおいても、究極の「帰結」は信頼と明け渡しです。信頼と明け渡しが起こると、洞察が生じるために必要な条件などというものはまったく無かったことが明確になります。この洞察は、無条件の何かに関するものです。ダマスカスへ向かう聖パウロの物語は、不信心者が突然光を見るという話です。一なるものが認識されると、それは信頼どうこうではなく、まったく紛れもない事実になります。〈存在しているそれ〉には到達することもできなければ、到達する必要もありません。あなたが〈一体性〉と呼んだものは、人が経験できるようなことではありません。〈一体性〉の経験は起こりますが、それを経験する誰かは存在していません。もしそれを経験している人がいるとしたら、それを〈一体性〉と呼ぶことはできません。

Q. それでも、自己認識を目指す道を歩み始めるためには、少なくともある程度の信念や信頼が、探求者には求められるように思えます。自己を認識した人たちの多くは、認識がいつ起こったかという日付を特定することができます。このことは、一定の信頼や一定の信念から探求が始まったということを意味しているのではないでしょうか?

A. 探求が現れるとしたら、そこに探求が起こっているということです。それについてどうにかできる人はどこにもいません。探求が終わったとき、信頼や信念が探求のきっかけや原因になったのは明らかだと言うかもしれません。あるいは、探求が始まった原因は、その瞬間まで信じていたこと、信頼していたことに対する疑いだったと言う人たちもいるかもしれません。これは探求の衝動がどのように認識されるか、そしてそれが概念としてどのように理解されるかということにすぎません。実際には、本当の意味ではどんな理由もどんな選択もありません。

師を信頼すること

Q. ニサルガダッタはこう言っています。

グルに出会ったとき、グルは私にこう言った。「お前は自分がこうだと思っている自分ではない。自分が何であるかを見い出せ。『私は在る』という感覚を見守り、真の〈自己〉を見つけるのだ」 私はグルの言葉に従った。グルを信頼していたからだ。グルが言ったとおりにしたのだ。時間があればいつでも沈黙の中で自分を見つめてすごした。それがどれだけの変化を生んだことか! それにその早さといったら! グルはこう言った。「私は在る」という感覚をしっかりつかんで手放さず、そこから一瞬たりともぶれてはいけないと。私はグルの指示に全力で従った。そして比較的短期間で、グルが伝える真理を自分でも認識できたのだ。グルの教え、グルの顔、グルの言葉をつねに忘れないようにする、私がしたことはそれだけだ。それだけで、マインドに終わりがもたらされた。マインドの静寂の中で、自分が「私は在る」であること、そしてその無限性が認識された。私はグルの指示にただ従ったのだ。グルの指示は、純粋な存在である「私は在る」に心の焦点を合わせ、そこに居続けろということだった。一気に何時間も座り、「私は在る」だけを心に抱きつづけた。やすらぎと歓び、そしてすべてを抱擁する深い愛がすぐに自分の自然な状態になった。その中ですべては消えた。自分も、グルも、自分の人生も、自分を取り囲む世界も。すべてが消えたあと残ったのは、やすらぎ、そして果てしない静寂だった。
(I AM THAT, Talks with Sri Nisargadatta Maharajより)

この話は私たちの中に観念として現れているにすぎないということは当然言えます。でも、ニサルガダッタの言葉からきわめて明確に読み取れることは、覚醒に向けた彼の道が、グルに対する無限の信頼から始まったということです。現象世界において真理を探求するということは、不安定な取り組みであるように思えます。ニサルガダッタの言葉を通して、自己認識への素晴らしい「レシピ」が私たちに手渡されたのだと言うことはできないでしょうか?

A. たしかに、この話は信頼についてのわかりやすい実例です。ただ、ニサルガダッタの物語は、「処方箋」というよりも「描写」です。ニサルガダッタにとって探求がどのように始まってどう展開したのかということを示しているだけです。ラマナの場合は死の経験であり、トニー・パーソンズの場合は公園の散歩であり、私の場合はシンプルな「ああそうか」でした。何が最終的な一押しになるのかということは、人には本当にわかりません。どんなことについても、確かな公式というものは存在していません。たとえば、カジノで勝つ、ヒット曲を作曲する、恋に落ちるといった例があります。そうしたことがうまくいった後で、それがどのように起こったのかを説明することはできます。でもたいていは、それを思いのままに繰り返すということは不可能です。

Q. 数え切れないほど何度もこれまでに出された質問だと思いますが、師に対する「信頼」について、あなたはどう考えていますか? 誰も存在していないから自分は先生ではありえないと答えるトニー・パーソンズのような人たちもいます。ニサルガダッタのように、自分の師を盲目的に信頼していた人もいます。最低でも一回は師に会って、何が何なのかを自分で見る必要があると主張するジャン・クーホルンのような人もいます。

あなたが本を書いているのは、説明すべきことがあきらかにあるからですね。結局は自分ですべて経験しなくてはなりませんが、信頼できる師の存在なしに、自己を認識するということはそもそも可能なのでしょうか。どう思いますか?

A. 本の中で、私は自分が何かを説明するために本を書いたとは言っていません。そのかわりにオランダの古いことわざを引用しました。「口は心を満たしていることについて話さずにはいられない」という意味のことわざです。そうした本をとおして、そしてバラの香りや他のすべてのものをとおして、〈一なるもの〉が自身を自身と共に味わっています。究極のところは、存在している師はひとりしかいません。その師はつねにここに存在しています。この師をもたない人はどこにもいません。この師が直感として現れるか、出来事として現れるか、人として現れるかは問題ではないんです。

信頼には一見役割がある

これは信頼についてのインタビューですが、ここから教義を生み出さないようにしましょう。先に、無条件のものに条件をつけることは実際には不可能だということについて話しました。信頼のような素晴らしいものについても、それは同じです。もちろん、自己認識において信頼が役割を果たしているように見えることはあります。ですが、病気、逆境、絶望、疑念といったことについても、それは言えます。同じように、明け渡しと受容が大きな要因だと考えることもできるでしょう。信頼をとおして明晰さがもたらされるように見えることもありますが、明晰さが勝手に生じたり、極度の消耗をとおして現れたりするように見えることもあります。

洞察が生じるとき、すべてが理解へ「導く」こと、そして理解へ「導く」ものは何もないことが完全に明確になります。でも、「洞察」という言葉が指している〈それ〉は、時間の流れの中で到達できるようなひとつの地点ではありません。〈それ〉は時間を超えていつでもそこにあるもので、原因と結果の二元的な環を超越しています。悟りへ向けた普遍的な手引きをつくることがもし可能なのであれば、とっくの昔につくられていることでしょう。自分にとっては信頼がとても重要だと感じる人がいれば、それはその人にとっては適切なのかもしれません。ですが、それを一般化し、どんな人の場合も信頼が扉を開くのだと主張することはできません。これは逆説です。ここで話しているのは普遍的なことなのですが、それと同時に、それはかならず一人ひとり違うものなのです。

Q. あなたが明け渡しと受容について触れたのを嬉しく思います。信頼、明け渡し、受容、放棄は、だいたい同じ範囲にあることです。すでに自分がそうであるものになることはできないとしても、それでもなお、エゴが本当は存在していないということを理解するためには、こうした観念に内包されている何かが必要であるように思えます。

A. 本質的に、必要なことは何もありません。すべてが、文字通りあらゆるものが、認識 (そして了解) をもたらすための最後のひと押しになりえます。認識されるのは、いますでにあるがままにあるということです。しばらくしたらでも、後ででも、ある条件が満たされてからでもありません。

エゴが存在していないとは言いませんが、人がエゴでしかないというわけではありません。エゴは対象であり、制限をもたない在る意識のなかに現れています。この「在るということ」は「誰か」のアイデンティティではなく、アイデンティティとして現れているそれです。この「在るということ」は、個人性を超えた〈真の自己〉としての本当のあなたであるそれなのです。

エゴは存在していないというふうに理解することもできますし、さもなければその本質を見抜くこともできます。あるいは、身体精神複合体の自然な機能の副作用としてエゴをとらえることもできます。本質が見抜かれた後も、エゴはただそのままあり続けることがあります。本当のことが見抜かれた後も、目の錯覚がそのまま続くのと同じです。

自分が実際には何であるのかということを理解するためには何かが必要だというしつこい観念は、それ自体が障害物です。繰り返しになりますが、それは結局、本来無条件であるものに条件をつけるということなのです。この観念が脱落することが、洞察と等しいと言うことができます。ですが、このようなことを言うことには問題がつきまといます。それは、こうした言い方が方法として理解されがちだということです。「わかったわ。私はこの観念を捨てるわ。この観念を手放さなきゃ。さあ、取り組むわよ!」というように。

これは何かをすることとも、何かになることとも関係ありません。存在することに関することです。自分が実際そうだったもの、ずっと今までそうだったものについてのことです。これを認識することは、手放すことの結果としてもたされるというわけではありません。手放すことと「認識」は別々の言葉ですが、同じ洞察を指し示しています。手放すことと「認識」は同時に起こります。それ〈自体〉で勝手に起こるだろうと信頼することはできますが、このことについて何かをできる「私」はどこにもいません。この信頼は勝手に花開きます。真の信頼は、「私」が決心できることでも、「私」が行えることでもありません。

信頼、ただ信頼

Q. では、何の批判も挟まずにただ知覚するということとして、信頼をとらえることもできますか? 安心感、希望、歓び、場合によっては悲しみといった感情と同じように。 エゴについての視点から見ると、いま起こっていることにエゴの注意を向けさせるものが信頼なのでしょうか? その場合は、信頼は落とし穴にもなりえます。というのは、信頼すればどこかに導かれるというように受け止められかねないからです。そうなると、信頼は疑うべきだと言ってもおかしくないかもしれません。

A. そうですね、ぜんぶありえる話だとは思います。マインドが思い浮かべる無数の可能性のなかの一つです。マインドの中でマインドを使って探し求めても、見つかるのはマインドだけです。そのため、マインドを使うと、あらゆることがきわめて複雑であるように感じられます。実際にはまったく明白で単純なことなのにです。この単純さは空間とまったく同じです。つまり見えると同時に見えません。空間と同じように、この単純さは「無」としてすぐに忘れられてしまいます。実際にはこの単純さのなかにすべてが現れているのにです。空間と同じように、この単純さは表現することができないと同時に、まったく単純です。公然の秘密、あからさまな謎なのです。

信頼について、いろいろなことを言ったり、考えたりすることができます。エゴにとっては信頼は避難場所のように見えるかもしれませんし、明晰さを見いだすための必要条件であるように見えるかもしれません。でも結局のところ、信頼はただ信頼です。信頼があるか、ないか、それだけです。疑問が解けたとき、エゴの意図と自己認識の間には何のつながりも発見することができないことが明確になります。そうでないとしたら、もしかしたら、エゴの絶え間ない虚しい努力によって、努力は必要ないという認識に最終的に導かれるかもしれません。その瞬間、明け渡しが起こりますが、そこには明け渡している誰かはいません。

素晴らしい恩寵?

Q. 著書Awakening to the Dreamのなかで、あなたは「疑問が氷解する」ということについて書いています。「この認識は自動的に起こるものだが、恩寵として扱われることも多い。でもそれは人が期待して待つようなものではない」

この恩寵について説明してもらえないでしょうか? 恩寵は贈り物か、あるいはご褒美であるかのように感じられます。以前、自己認識が、新しい靴を買ったときにもらえる風船になぞらえられているのを読んだことがあります。

A. 恩寵はどちらかと言えば、ご褒美というよりは贈り物のように思えます。でも、実際にはどちらでもありません。恩寵が誰かに対する贈り物であったり、何かに対するご褒美であったりしたら、それは原因と結果という二元性に戻ってしまうことになります。知性がこれを二元的なやり方でとらえるのは驚くべきことではありません。知性は、すべてを相対する組み合わせに分割することでしか作用できません。善と悪、原因と結果、行為と報酬といったかたちで。結局のところ、恩寵というのも、直接的にしか認識することができないものを指し示すもののひとつにすぎません。もしかしたらこうした説明はやや抽象的に聞こえるかもしれませんね。でも、実際にはこれはとても単純なことで、「甘い」という言葉に味がないということと同じくらい単純です。この文脈で言うと、恩寵という言葉は〈存在しているそれ〉、「私は在る」としてマインドを通してそれ自体を表現している〈それ〉を指し示しています。そしてこの中心にある、あなたがずっと実際にはそうだったものとしての、知られているのではなく〈知っている自己〉の本質を指し示すと同時に、その認識・承認を指し示しています。

「あなた」には関係ない

Q. 「私」の理解が正しいとしたら、あなたが言っているのは、存在しているのは〈自己〉もしくは〈存在〉だけであり、すべてはそこから生じているということです。実際には存在していない、いわゆる探求者は、信頼や恩寵やさまざまな言葉を通してその中で正しい道を見つけようとします。そうするとこれはまるでゲームのように感じられます。でも、現象世界の中で「私たち」に与えられている「仕事」はどうなるのでしょうか?

A. 存在しているのは〈一なる自己〉だけで、それがすべてとして現れています。探求者も、探求されているものも、そのひとつです。唯一の実体のなかに無数の現れが生じます。唯一の実体は、粘土とまったく同じように、その本質を変えることなく悪魔から天使までどんな形をとることもできます。

これをゲームとして理解することも確かに可能です。ヒンドゥー教徒はこれをリーラと呼びました。このゲームのなかでは〈自己〉が唯一の俳優で、すべての役を演じています。これはすばらしい比喩ですが、どんな比喩でもそうであるように、それはただ指し示しているにすぎません。どんな概念もこれを包含することはできません。ですが、ときに概念が的にあたり、それ自体を不必要にしてしまうことがあります。アラン・ワッツがかつて「必要なことが伝わったら、受話器を置け」と言っていたようにです。この喩えはあきらかに携帯電話が登場する前のものですが、それでもきわめて明瞭です。

あなたの言った「仕事」とこの現象とを切り離すことはできません。形と実体を切り離すことができないのと同じです。「仕事」がそこにあるのであれば、それは〈それ〉がそのように顕現しているということです。それは実際には私たちの仕事ではありません。すべてはなされますが、仕事に携わっている誰かは存在していません。すべての行為は、行為として現れている〈それ〉です。

無条件の信頼

Q. 〈自己〉がすべてとして現れているというのは、素晴らしいイメージです。個人として、全体から切り離された形で、探求者あるいは非探求者として現れているように見える数えきれない人々で構成されている世界として〈自己〉が現れているということになります。この世界のなかにものごとが現れます。野望、力の感覚や無力さの感覚、なし遂げるべきものごとについての観念、見かけ上の達成、すべてが違ったかもしれない、あるいはすべてが違わなければならないという思考、信頼の感覚、悟りや静寂への欲求といったことがです。それだけなのですか?

A. ええ、それだけです。でも、すべてを説明できたということを言っているのではありませんが。〈自己〉認識は〈自己〉驚愕だと言うこともできます。この驚きは、意識が「在るということ」、そしてそのなかに現れるすべてに関するものです。花はただ花ですが、それは花として現れている〈一なるもの〉でもあります。人は花を「花」という言葉を使って識別するために、すぐにそれが何かを自分はもう知っていると決めつけます。それをどう表現したとしても、それで十分ということはありえません。本質的な意味では言い表すことができないということが認識されると、そもそもなにかが存在しているということに驚嘆する余地が生じます。絶対的な何も無さから、何かが在るということがどうも生じているようなのです。無より少ないものならまだしも、無を超えるものなどそこにあるはずがない!と原因と結果の論理がわめいているのを尻目に。

この〈実在〉の神秘は、経験できるような対象にそれを還元することができないというところにあります。それは経験することであると同時に、経験されるものであり、そしてそのどちらをも超えて、それ自体で主体と客体を兼ね備えています。このもっとも本質的な〈自己〉は並外れて平凡で、つねに ― そしてそれにもかかわらず時間を超えて ― 存在しています。それは在るものであり、わたしたちがそれであるものです。

もちろん、私たちは肉体でできた単なるはかない存在だという観念を超えたこの〈実在〉を、〈無条件の信頼〉と呼んでもいいでしょう。その場合、この言葉は人がなしえるようなことを示すものではなく、名づけることのできない〈存在しているそれ〉を指し示す可能性があるものです。

Q. この〈無条件の信頼〉という言葉でこのインタビューをしめくくるのがいいように思います。たどり着くべきものでも、理解すべきものでもなく、〈存在しているそれ〉をただ指し示すもの。それ以外に何を言うことができるでしょう。どうもありがとう!

== 本文は以上 ==

(2015年2月追記: 海外からの迷惑コメントが非常に多いため、コメント欄を一時的に閉鎖)

広告