What IsとAll There Is

 
昨日、リック・リンチツのインタビュー動画を見た。

 
印象的なのは、言葉のあいだの間 (ま) だ。ネットの回線が切れて動画が止まってしまったのかと思うほど、間が目立つ。

語られているのは、リックのトークやインタビューではいつもそうなのだが、All There Isのことだ。トニー・パーソンズもよくこの表現を使う。All There IsとかWhat Isという言葉は、何かを表しているようで何も表しておらず、何かと対立する表現ではないから、理解に困る (訳も困る) 。それに、理解に困るという現れもAll There Isだし、All There Isというからには、それ以外のことは何もない。

What Is (あるもの) というからには、What Isn’t (ないもの) があるんじゃないかと、マインドはその裏とか向こうを見ようとする。でも、その動きもWhat Isだけどねとリックは釘をさしている。トニーも最近はAll There Isと言うかわりに、All There Is and There Isn’tなどと言って、逃げ場をふさぐ。

そんなことを考えていたら、トニーのサイトに新しい文章 (What is What is? 在るものとはなんだろう?) が出ていることに気がついた。訳してみた。

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在るものが存在するすべてだ。だが、在るものとはなんだろう?

まあ、その質問には本当の意味での答えはない。それでも、在るものというのは今起こっていることという意味であるように思える。この文章を読むこと、椅子に座ること、成長する木、音、感覚、雲、通り過ぎていく思考といった、今起こっていることだ。簡単に言えば、こうした事象こそ今起こっていることであるように感じられる。そして、私の見方 (ここで起こっている認識) によれば、今起こっていることの本質こそがオープン・シークレット (公然の秘密) なのだ。

在るものとは、一体性が二元性として現れているものだとか、絶対が相対として存在しているものだとか言われることがある。それは、探し求められていた宝であると同時に、なによりも恐れられていたものであり、完璧な恋人であると同時に、ぞっとするような死神でもある。これは言うまでもなく究極のパラドックスだ。無であると同時にすべてであるというパラドックスなのだ。

在るものの本質を言葉で表現したり、把握したり、理解したりできる可能性はゼロだ。

探求者が在るものに気づこうとしたり、在るものを意識しようとしたとたん、その働きは、素晴らしく流動的で活発で把握され得ないものを、切り離して対象化してしまう。

在るものの本質は「私」には理解できない。そのため「私」が満たされることは決してない。「私」の経験には何かが欠けているように思えるのだ。

在るものには、無いものも含まれている。これは全体性という驚異だ。全体性は在るものとして現れると同時に無いものとしても現れているのだ。何かとして在るものすべてが、その時点で無でもある・・・・二つのことは存在していないのだ! だからすべては実在していると同時に実在していない。だが、「私」はつねにあらゆるものを実在しているものとして経験する。この迷妄のなかで、「私」はその二元的で不十分な経験を、「今に生きる」、「今ここにいる」、「すべてが意識であることを受け入れる」といった手順に変えようとする。

だが、繰り返しになるが、全体性という遊びの素晴らしいパラドックスは、「私」のストーリーもまた在るものなのだということだ。夢も希望も手順も宗教的な憧れも、そのすべてが全体性の現れであり、自分を探して走り回ったり、はじめからからすべてとして存在することによって自分から身を隠したりする、分離して独立した存在として現れているだけなのだ。すべてとして存在しているということは、在るものを避けたり拒んだりするということもまた在るものだということになる。

探し求められているものは、失われることも見つけられることもない自由の歌を歌いつづけている。失うことも見つけることもできないのは、それが存在するものすべてとしてずっとあるからだ。

2013年2月

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