悟りは経験できない グレッグ・グッド

 
グレッグ・グッドの文章をいくつか紹介してきているが、そのシリーズの続き。

彼の文章はたまに意味がつかめないことがあるが、これも一読しただけではわかりづらい。さらに何度読んでみても、すっきりしない。そうか!という感じがない。壁がとても厚いように思う。でも、この壁は実はとても薄いのでは、というか実は存在していないよなあという感じも、かすかに感じる。

「えっ、壁って自分自身だったの?」という感じの驚きが待っているような。

Experiences of Enlightenment?

== 以下、翻訳 ==

悟りの経験?

Q. どんな経験が悟りの経験なのでしょうか?

A. どんな経験も悟りの経験です。経験はすべて同じで、経験はそのすべてが光です。

真の悟りの経験というものがあるという強い思い込みは、目標やヒントや裏づけを探し求めている場合なら、最初は役立つことがある。特定の経験が、とても励みになったり、刺激になったりすることもある。体外離脱、つまりベッドに横たわっている自分の身体を見下ろしながら宙に浮かんで部屋を動きまわったり、あるいは国中を飛び回ったりするような体験をすれば、自分は身体ではないということを確信することになるだろう。マインドの活動をはっきりと目撃するという経験をすれば、自分はマインドではないということがわかるだろう。静寂の体験は、経験を超えた静寂を指し示すものになりえる。だが究極的には、悟りというのがなんらかの経験であると考えることによって、悟りは絶対に手の届かないものになってしまうのだ。ここには二つの問題が関わっている。判断基準の問題と、手の届く範囲の問題だ。

悟り「の」経験というような、他から分離していて識別することができる経験がもしあるとしたら、そうしたものが存在するにはいくつかの前提が必要となる。ひとつは (i) 経験。そしてそれは、 (ii) 悟りというものと何らかのかたちで関係していることになる。つまり、(i) 経験は、(ii) 悟り「の」経験としてあることによって、(ii) 悟りを参照している。だが、「の」という性質は作り事であり、実際には存在していない。この「の」という性質をあてにして、それが確かなことだと言い張ったりするためには、二つの難しい問題が関係してくる。

判断基準の問題

特定の経験を悟りの経験だと判断するにはどうしたらいいだろうか? もし悟りの経験というものがあるとしたら、経験の世界は二つに分かれることになる。つまり、経験のうちのいくつかは悟りの経験であり、それ以外の経験は悟りの経験ではない、というように。そして、ある種の判断基準が次に必要になる。悟りの経験であると判断するためには、どんな基準があるだろう? 一体感 (ワンネス) 、制限から自由になった感覚、至福、あるいは拡がりの感覚だろうか? そのような判断基準は、たいていは主観的な経験の状態に基づいている。そこにはそれを経験する「自分」というものがくっついている。様々な判断基準のうち、どれが優れているのかということは、どうしたら決まるだろうか? 悟りの定義は、まったくバラバラだ。それから、判断基準ということについて言えば、どんな基準もなんらかの状態を参照することしかできない。だが状態というものは、それがどれだけ高貴で神々しいものであったとしても、現れては消えていく。だが、これは、現れては消えていくようなものではない。そして、現在から隔たったところにあるということがありえない。

手の届く範囲の問題

これは面倒な問題だ。悟りが永久に手の届かないものになってしまうという問題だ。悟りの経験というものがあるとしたら、それは夕食の写真のようなもので、夕食そのものではない。経験があって、それが悟りを参照しているという関係があるとしたら、悟りはつねに経験の外側にあることになる。つまり、悟りは手の届かないところに置かれることになる。ここからそっちに行くことは絶対に不可能だ。

さらに悪いことに、悟りが心理的な状態であったり、自分から離れている自分とは別の対象であったり、あるいは経験の外側に存在していたりするならば、悟りについて話すこと自体がまったく意味をなさないことになる。一般的に、経験の外側にあるものに関しては、それがなんであれ、その知識も証拠も経験もない。経験の外側に何かが存在しているという考えは、経験によってはそれが正しいかどうかを確かめることができない。というか、それを確かめようとすることは、つねに自己矛盾になる。なぜか? 経験の外側になんらかの対象が存在しているということを示すはずの論理的な証明あるいは言語的な証明は、逆にそれが間違いであることを示してしまうからだ。その対象を、すくなくともある意味では経験の内側にもってきてしまうことによってだ。ユニコーンのように。経験は対象の存在を裏づけてはくれない。経験は今において自己確認するだけだ。経験はつねに今ここで起こる。

この意味で、すべての経験は同じだ。経験は光であり、それが私たちの本質だ。見かけの上で対象はこの光のなかで現れたり消えたりするように見える。だが、対象を見つけようとしても、見つけることはできない。悟りの経験というものはない。それは、経験から切り離されたものは何もないからだ。それどころか、経験そのものが光なのだ。

== 翻訳は以上 ==

「ユニコーンのように」のくだりの意味が分からなかった。Wikipediaでユニコーンを調べてみたが、よくわからない。

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悟りは経験できない グレッグ・グッド」への3件のフィードバック

  1. ユニコーン、なんでしょう。

    角も馬もバラバラになら経験的に知っている。しかしそれは角の生えた馬を経験的に知っていることにはならない。既知と未知が取り違えられ混乱しながら同居してる感じでしょうか。

    もしくは、自分にとっていまだかつて経験的に実在しなかったのだけど、それがある意味未経験なものとして経験できてしまってるようなパラドックス?

    よくわからないまま適当に書いてみました。

    アドバイタはややこしいから、悩ましいですね。笑

    ちょっとした脳の苦行のような。

    これらをすっきり本能的に理解できるときは著者の状態なんでしょうね。

  2. ユニコーンは実際には存在しない動物だけれど、自分の中に概念としては存在している(内的に経験している)。
    しかし「(内的な)経験が必ずしも対象の存在を裏づけてはくれない」ということではないでしょうか。
    「悟りという概念がある以上、それに対応する悟りが存在するはずだ」という考え方は間違っていることへの引き合いに出したのでは。

  3. 古野さん、wさん、どうもありがとうございます。

    てっきり、ユニコーンにまつわる伝説のストーリーとか、ユニコーンの角の機能(?)とか、そういうところに意味があるのかと思い込んでいたのですが、ユニコーン自体が空想上の実在しないとされている動物だ(経験できないはずが、経験できないという説明をした時点で、経験してしまっている)というのが、ここで出てきた意味なのですね。

    助かりました。

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