すべきことはあるのか? グレッグ・グッド

 
グレッグ・グッドが以前書いた文章を紹介したい。「すべきことはなにもない」という教えが、アメリカやヨーロッパの一部を席巻していたころ (10年ほど前?) に書かれたものだと思う。

つまり、「すべきことはなにもない。何かができる人など存在していない。個人は幻想だ」という教えにかぶれている人たちが溢れているという文脈で書かれたものだ。

悟りや覚醒というものは個人として到達すべき特定の境地だ、という理解をしている人にとっては、この文章は無用の長物かもしれない。

面白いのは、よくありがちなネオ・アドヴァイタ批判という色彩がこの文章には無いことだ。だから読んでいて気持ちがいいし、いい意味であまりひっかかるところがない。

Is Spiritual Practice Necessary?

== 以下、翻訳 ==

修行は必要か?

(初出はHarshaSatsangh Magazine)

何をすべきかについては話さない。すべきことなどないからだ。
パパジ

修行は必要なのだろうか? そうした疑問が伝統的な教えの場で生じることはまずない。それは「必要だ」と答えが教えの構造自体に組み込まれているからだ。でも、非二元の教えという文脈で考えると、これはよくある疑問ベスト10に入る。そして、ほとんどの場合、この疑問に対する答えはこんな感じだ。

「必要ない。修行は事態を悪化させるだけだ! 修行をすれば、自分が分離したかたちで存在していて、その自分が何かを得ることができるという分離の感覚が強まるだけだ。起こるべきことは修行ではなく、自分というこの感覚が消えることだ。」

瞑想、黙想、クンダリニー・ヨーガ、自己探究、献身愛、無償奉仕は逆効果だということになるのだろうか? こんな疑問が生じる。

「こういうことは全部やめるべきなのだろうか? でも、修行するなと言った先生自身が、こういうことをすることもあるし、すすめることもある。それにもちろん、他の教えは、修行と前進を基礎にしているものばかりだ。まったく意味がわからない。混乱してしまう。何をしたらいいんだろう!!」

修行が必要であることが証明されたり、あるいは役に立つこともあることがわかったとしたら、修行自体は逆効果ではないということになる。だから、最初の疑問を言い直すことにしよう。

非二元においては、修行は必要なのだろうか?

答えは、自分の目標によって違う。自分が実際には本心では何を求めているのかということによって、答えは変わってくる。上の疑問は不完全だ。修行は必要か?と言っても、何にとって必要かというのが問題なのだ。買い物に行ったり、皿を洗ったりするためには、スピリチュアルの修行はまったく要らない。

では、あなたが本当に本当に求めているのは何なのだろうか?

あなたの目標は、気づきとして存在すること、自分の本質であること、思考が考えることができないものとしてあること、現象に先立ち現象を超越したものとして存在することだろうか? ただあるということが目標だろうか? それなら修行は要らない! 本当にあなたの本質であるもの、本当に存在しているものは、それがなんであっても、そこからあなたは逃げることもできないし、それを獲得することもできない。現象を超えた本質としてあるものには形がない。それはあらゆる現象に先立つもので、不変のものとして存在し続ける。現象をそこから切り離すことはできない。現象はそれの非常に近くにあり、それの「内側」にあると言える。すでにそうなっているのだ。それはあるということであり、あるということは、ただある。それは獲得することもできなければ、失うこともできない。存在しているということが自分の本質なのであれば、あなたは不可避的にそれなのだ。たった今も! だから、それを気づきとか空性とか存在という言葉で呼ぶのは、言葉が過ぎている。

あなたはそれなのだ。ティーカップも通学バスも同じだ。気づき、あるいは現象に先立つそれが、あなたや、他のすべての「もの」を構成している。あなたの中に、気づきではない部分は存在していない。あなたには、気づきから除かれている部分も、気づきから隠されている部分もない。気づきであるためにあなたがしなければいけないことは何もない。さらに、気づきであるためにあなたができることは何もない。そして、あなたが気づきではないものとして存在する方法もない。気づきとしてあるということは経験ではない。行為でもない。現象でもない。そして、気づきをつかむことも、保持することもできない。指し示すことも、それについて話すこともできない。この文章においても、そうだ。どこを見たとしても、気づきはすでにそこにある。気づきはあなたの背後にあって、それを見ることはできない。だから、気づきとしてあるということが目標だとしたら、修行はまったく要らないのだ!

さあどうだろう。あなたは存在している。非二元の教えも、それについては一致している。ここで質問。いま説明したことは、目標を達成するのに役立っただろうか? すべてがうまくおさまっただろうか? もうすべて完了というように思えるだろうか?

「はい。これがそれですから!」 ==> ここをクリック

「いえ。何かが欠けているような気が・・・」 ==> ここをクリック


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何かが欠けているのであれば、修行は役に立つ。

あなたがこちらの方をクリックしたのは、「ええ、確かに自分が気づきだってことはわかります。でも・・・」と感じているからだろう。もしそうだとしたら、あなたの本当の目標は気づきではなくて、なにか他のものだ。そして、本当の目標がどんなものだとしても、スピリチュアルの修行は助けになる。それが、「ええ、でも・・・」という感覚がなくなるということだけだったとしても! あなたの目標は、現象に先立つ非顕現のそれではない。だから、あなたの目標は現象的なもの、実体のあるもの、経験できるものということになる。おそらく、成功か失敗かを決める現象的な尺度もあることだろう。この目標を達成するということは、経験の世界の中に存在している。それが短気を起こさないようにするといったはっきりとしたものであれ、深い睡眠の間にピンの先ほどの小さな光を遠くに発生させるというようなものすごく微妙なものであれ、同じだ。どんなことであっても、現象的な最終目標のある、現象的な動機であることにはかわりがない。

現象としてのスピリチュアルな目標にはいろいろある。そうした目標は、さまざまな理由から生じる。そして、たいていはそれあるいは悟りに関する概念と関係している。自己肯定感の向上のようなことを実際には望んでいるのに、それを表現するのにスピリチュアルな語彙が使われることもある。そうすると、それははるかに高尚なことのように感じられる。自分の目標を理解するということは、必ずしも簡単なことではなく、明晰さと誠実さが必要となる。それについては後で書くことにしよう。現象的な目標が、悟りのための必要条件として認識されることもある。たとえば、思考が静かな状態を求めている理由が、「もし思考を静かにすることができれば、本来の悟りの状態が栄光のなかで輝きだす」ということだったりする。その逆になっていることもある。目標が、悟ったことの証明として設定される。「悟った人は誰でもシッディ (超能力) を身につけている」という理由からシッディを求めるというように。

思考の静かな状態やシッディと悟りがどうつながっているのかということは、ここではどうでもいい。重要なのは、人がこうした精神物理学的な現象を求めているということだ。そうした現象が目標なのだ。こうした目標は達成することができる。そして目標を感じることもできるし、なくなることもない。こうしたものは現象的な不足状態であるため、現象的に満たされることができる。たとえば、瞑想で思考を静められるし、ラージャ・ヨーガはシッディを生じさせることがある。では、もし目標が究極の〈真理〉を理解することや、〈自己〉や〈意識〉や〈悟り〉という概念の意味をつかむことだったら、どうだろうか? そういうことであれば、非二元の教えという広大な海に向かえばいい。インターネットでクリックするだけで、それは可能だ。最寄りのバーンズ・アンド・ノーブルがちょっと遠すぎるのであれば。

修行が必要である理由

スピリチュアルな目標のためにはスピリチュアルな修行が必要だ。それは、三回転半ジャンプをするためにアイススケートの練習が必要なのと同じことだ。重量挙げは身体を形作る。瞑想はマインドを静かにする。無私の奉仕は自己中心的な欲求を弱める。心から神の讃歌を歌えばハートが開く。それはすべて現象が現象に影響しているということだ。ラマナ・マハルシが巧みに尋ねたように「なにかを実現しようとするのでなかったら、修行に何の意味があるのか?」

しなやかな身体、鋭い知性、健全な自尊心といった目標については、すでに効果が立証されている手法がある。ハタ・ヨーガ、ジニャーナ・ヨーガ (ニャーナ・ヨーガ) 、そして愛情深い仲間たちとの付き合いといったことだ。それ以外の目標は、検討してみれば解消してしまう。行為者の感覚をなくすということが目標だとしたら、その目標を解消する分析的な瞑想がある。そもそも行為者は最初から存在していなかったということを示すのだ。ひとつの目標が達成されると、別の目標がその代わりに現れることもある。別の手法を使ってみれば、効果があるかもしれない。そうした移り変わる目標を追いかけるという繰り返しに完全に疲れたら、次の目標は、目標が何もない状態という目標かもしれない。この目標を扱うことができる探究方法も実はある。

なぜ誠実さが必要か?

目標の達成に向かって進む場合、誠実で勇敢でなければならない。たとえば、自分が本当に求めているものは、感情面で気分のよい人生、罪悪感からも不安感からも解放された人生であるかもしれない。それが実現したらかなり満足するだろう。コメディドラマの登場人物が欲しいものを手に入れたときに「よし!これで死ねる!」と言うように。だが、自分の求めているものをごまかしたり隠したりすることもある。たとえば、スピリチュアルなグループの中には、感情的な状態を重視するのはつまらないことであり、それは理解の欠如を示しているというふうに感じさせられるところもある。それに感化され、スピリチュアル的に「正しい」こと、つまり私たちが求めているのはただ〈あること〉、すなわち〈今〉なのだということを自分 (および他の人) に言い聞かせることになる。でも、それは自分が本当に求めていることではない、ということはどこかで感じている。もちろん、〈あること〉が罪悪感や不安感を取り除いてくれるのなら話は別だが。この例で言うと、もし自分が求めているものが本当に〈あること〉という〈現在性〉なのであれば、それで問題ない。チーン! ティータイムだ!! でも、〈現在性〉は作り話にすぎない。もしかしたら、〈現在性〉を自分の信条として採用することさえあるかもしれない。そして、〈現在性〉が目的なのだと本当に信じてしまうようになる可能性もある。だが、もっと他の動機がそれよりも長い間存在していて、いまやはるかに強いものになっている。そうした隠された動機は水面下で沸騰していて、機会があれば飛び出してくるのだ。マインドもハートも助けを求めて叫んでいるのに、すべきことなど何もないと言い張るのは、逃避のひとつのかたちだ。「すべきことなどない」というのは洗練されているように聞こえるが、私たちを進路から逸らせてしまう。それは最新のいちばんかっこいい流行だが、実際には効果のないスピリチュアルな修行のひとつにすぎないのだ。10年間サットサンに通いつづける羽目になるかもしれない。セラピーに十ヶ月通えば問題は解決したかもしれないのに。率直に断固たる態度で観察していれば、進路から逸れることはない。

セラピーについて

非二元の教えのなかには、セラピーに行かないように勧めるものもある。そうした教えによれば、セラピーは架空のエゴ的な人格を強めるだけで、そもそもそれこそが問題の根本だということになる。この架空の人格の本質を見抜けば、元々望んでいたすばらしい感覚が生じるのだと言う。

このアドバイスが役に立たない理由はいくつかある。まず第一に、上であげたサットサンの例のように、探求者が実際に感じている目標は、架空のエゴ的人格が実在していないことを認識するということではない。目標は、良い気分を感じること、罪悪感から解放され、自尊心を高めることなのだ。エゴ的人格がまだ残っていようといまいと、それはどうでもいい。エゴ的人格が問題だというのは、非二元論者の解釈にすぎない。もしかしたら、その解釈が探求者の感情面での目標に役立つこともあるかもしれない。だが、ほとんどの場合、そういう解釈は非現実的で抽象的だ。第二の理由は、非二元の教えを研究している人たちによって、効果的な新しいセラピーが次々と考案されているということだ。こうしたセラピーでは、クライアントの抱えている問題を軽減することが追求される一方、セラピストは水面下に隠れているエゴの固着状態を認識し、それを解消する。三つ目は、感情面で大きな問題を抱えている人たちの場合、サットサンに行かずにセラピーに行くことのほうが、セラピーに行かずにサットサンに行くことよりも、効果がはやく生じるいうことだ。もちろん、サットサンとセラピーの両方に通っていけない理由はない。第四に、痛みや悩みを抱えている人がいるならば、役に立つ可能性があるどんな方法も、邪魔するべきではない。哲学上の意見の相違があっても、関係はない。

自分が求めているものは何かということを明確に理解することによって、自分の目標を直接的に正面から追求する率直さと勢いがもたらされる。自分は気づきなのだということをいくら言い聞かせても、目標は達成できなかった。向いている方向を変えても、問題は消えなかったのだ。だから、目標に向かっていけばいいではないか。それが適切だ! 効果的なのだ! 適材適所だ! 暗闇を無理に正当化するのではなく、ろうそくに火を灯すということなのだ。ときには、非二元論や意識についての話を聞くことが的はずれに感じられ、その一方で、美しい聖歌を聴くとマインドが静かになり、ハートが開き、自らの完全性に触れられるということも起こる。アメリカ人の決まり文句をナイキの広告が取り上げたが、それがここではふさわしい。JUST DO IT!

スピリチュアルな目標の種類

スピリチュアルな目標にはいろいろなものがある。これこそそれだと感じられるものを味わい、そのことについてのとても確かな洞察を手にしたことがあるかもしれない。でも、その洞察は自分の手から滑り落ちてしまう。この洞察をもっと自分の近くに置いておきたいということが目標になるかもしれない。このように。「自分が気づきだということは理解している。でも私は・・

気づきがわかりたい
気づきを見たい
気づきを感じたい
気づきを生きたい
気づきをつかみたい
気づきを証明したい
気づきを抱擁したい
気づきを忘れないようにしたい
気づきと一体になりたい
気づきに忠実でありつづけたい
気づきのなかにくつろぎたい、もしくはとどまりたい
気づきに集中したい
気づきに気づきつづけていたい
気づきを探究してその源を見出したい

もしくは、望ましい思考や感覚として、目標は表現されることもある。たとえば「私はそれを手にしたことになる。それは私が・・・

至福を経験したとき
幸福を感じるとき
決して怒らなくなったとき
感覚を感じなくなったとき
不幸に感じなくなったとき
自尊心を得たとき
兄を好きになれたとき
すべての人を同じように好きになれたとき
「自分-思考」がなくなったとき
思考がなくなったとき
奇跡的な力を発揮したとき
不快な感情を感じなくなったとき
心理的な苦痛から自由になったとき

あるいは、目標は否定的な言葉を使って表現されることもある。そうした表現には多少理論的な響きがあるが、それはそうした目標が通常はスピリチュアルな教えを引き継いだものだからだ。こんな感じだ。「私は・・

探求を止めなくてはならない
エゴを死なせなくてはならない
マインドを静かにしなければならない
欲求を放棄しなければならない
無知を克服しなければならない
すべてを忘れなければならない
五種類のコーシャ (鞘) をすべて浄化しなければならない
いろいろな傾向を絶たなければならない
行為者であるという感覚をなくさなければならない
分離感をなくさなければならない
スピリチュアルな修行を打ち捨てなければならない
あらゆる疑問が脱落しなければならない
自分が何かであるという思い込みを捨てなければならない
自分とすべての存在を苦しみから解放しなければならない

修行はいかに役立つか

このような目標に関して、修行は助けになるのだろうか? 修行は、現象的な目標を達成したり、消滅させたりすることにかんして、長い間結果を出してきている。修行に効果があるのは、おなじみの詠唱、瞑想、黙想、無私の奉仕だけでなく、はるかにたくさんのものがあるからだ。修行は、人生そのものと同じくらい多様なのだ。目標に向かって行うことは何でも修行だ。

修行は必要でもある。修行とは傾向を取り除くということだ。
ラマナ・マハルシ

たとえば、「私は誰か?」という質問と共に生きるということも、どうしてそもそも存在しているものがあるのかということを探究することも、自分の住む地域で行われるサットサンには全部参加するということも、自分の先生とできるだけ長い時間を過ごすということも、心を打つ本を読むことも、芸術作品をつくることも、自分の思考を観察することも、思考の合い間を認識しようとすることも、思考を止めようとすることも、不快な経験から逃げないようにすることも、批判を受け入れることも、食生活を変えることも、床掃除をすることも、セラピーを受けることも、定刻に出社することも、母親に電話することも、いずれも修行だ。

それから、自分の本質を理解したいというような、非常に抽象的な目標でさえ、現象的なものだ。自分の本質を理解するということは、心地いいのかつらいのかはわからないにしても、感じることのできることであると考えられている。それはつかめるような何かであり、そこにとどまることのできるような何かだと信じられているのだ。このような解釈を前提にすると、現象的な手法が役立つ。非二元の教えが助けになる。(実際のところ、目標が抽象的で知的なものであるときこそ、非二元の教えは本領を発揮する) 非二元の教えは、指し示しの言葉や逆説や論証や洞察の一瞥や、そして実習までもがいっぱいになっている巨大な倉庫なのだ。

でもそうした道具が目標を達成するわけではない。効果を生むとき、道具は目標を消す。マインドで自分の本質を理解するのは不可能だ。なぜなら、税法やハイゼンベルクの不確定性原理のようなものと違って、私たちの本質はつかむことができるような対象ではないからだ。マインドを生じさせているそのものをマインドがつかむことはできない。では、非二元の教えはここでどのように役立つというのだろうか? それは、望んでいるようなかたちでの理解は不可能で、不必要で、無意味だという洞察を伝えることによってだ。この洞察が生じると、つかもうとしたり自分のものにしたりしようとする欲求は、穏やかに終わりをむかえる。その結果生じるのはやすらぎ、そして・・・笑いだ!

だから、やってみるといい! 遠慮することなんてない!

わたしは瞑想にも修行にも反対しません。瞑想というものを人生と切り離すことに対して、反対しているのです。
ガンガジ

おわり


.

それでいい!

紅茶でも飲もう!

チーン!!

おわり

== 翻訳は以上 ==

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