物体の消滅 グレッグ・グッド

 
グレッグ・グッドがだいぶ前に書いた文を紹介したい。グレッグは、大学で西洋の哲学を学んだそうだ。前にも書いたかもしれないが、東洋系のスピリチュアル修行に直行する人が多いなかで (60〜70年代に若かった人たちには特に多い) 、伝統的な西洋の哲学から入ったというパターンは珍しい。

グレッグの大学院時代の思い出話なのだが、面白い。彼には、こういうアッっという瞬間が何度か起こっていて、読むと興奮が伝わってくる。(理解の内容は伝わってこないけれど)

Physical Objects Disappear!

== 以下、翻訳 ==

物理的な物体が消えた!

ジョージ・バークリーの『ハイラスとフィロナスとの三つの対話』は素晴らしい本だ。いろいろな対話が短く巧みにまとめられていて、説話のかたちをとりながら、感覚器官が知覚しうるような物理的な物体が外部に存在していることはありえない、ということを論じている。

20年以上前のことになるが、この本が、私の経験全体にきわめて驚くべき影響を与えた。

バークリーとはどんな人だろうか? 森の中の木についての、昔からある哲学的な問いのことを知っているだろうか? 誰も聴く人がいなかったら、森の中の木が倒れるときに音は発するだろうかという問いだ。バークリーは、18世紀にこの問いに対して「ノー」と答えた人だ。バークリーは、外部に存在している物理的な実体というものは存在していないということを、飽くことなく主張した。彼によれば、人間の思考は、外に存在する物質としての岩や自動車を参照していない。岩や自動車が思考を引き起こすこともない。

大学院で哲学の博士課程にいたころ、指導教授のコリン・マレー・ターベインは、バークリーの研究者としては世界的な第一人者だった。彼の授業で良い成績をとるには、バークリーの説に反対するようなことは絶対に主張してはいけないとされていた。だから、生徒は本当に慎重にバークリーについて研究しなければならなかった。というのは、彼の思想はまったく直感に反しているように感じられるものだったからだ。ばかげていると言ったほうがいいかもしれない。でも何ヶ月か取り組みつづけると、バークリーの主張の意味がわかりはじめた。

ある日、バークリーの本を読み続けた後、彼の主張がはっきりと理解できた。まるで、心の中の霧が晴れたようだった。外部に物体が存在しているという感覚も確信も消えてしまったのだ! 物質的な実体という観念も、それに付随する内側と外側の区別も消え去った。それに、自分の経験を説明する上でも、そうした観念や区別は必要なくなった。私は興奮で身震いしていた。でもそれは、これでターベイン教授の授業でAがもらえると思ったからではなかった。

私はターベイン教授の部屋に向かった。何かが違うことに、彼はすぐに気づいた。そしてもの問いたげな感じで私を見たのだが、私は頷くことしかできなかった。教授は微笑んで、こう言った。「そうか! じゃあ、それについて書いてみたらどうだ!」

20年以上前のその時以来、内側と外側という区別は、私にとっては無益なものでありつづけている。「物質的な実体」という観念は、「サンタクロース」という観念とまったく同じようなものになった。そして驚くべきことに、こうした観念が消滅したことによって、物質的な世界と普通呼ばれているものの中で活動することは、以前よりもたやすくなった。20年以上にわたって、なにごとも物質的な存在としては認識されないということが続いたため、恐れという要因は消えてしまった。ニューヨークの街の混雑した通りをローラーブレードで走ったり、ブレーキのない自転車で走ったりすることもできるようになった。

普通なら「物質的」と呼ばれるような知覚は、内側も外側もないある種の言語として起こる。そこでは、それぞれの概念が、他の概念を、首尾一貫しながら発展するようなやり方で参照している。でも、そうした概念が参照するものが、外に存在しているということではない。

私にとっては、バークリーの思想を理解したことは、すばらしい撹拌だった。頭のなかのフードプロセッサーのような。これによって、非二元の教えに接する準備ができたのだ。

== 翻訳は以上 ==

ルパート・スパイラのリトリートで、部屋の向こうにあると思っていた花瓶か何かが、実は自分の外にあるわけではなかったという驚きを、一瞬感じたことがある。それ以来、内側と外側の区別というトピック、空間は実は無いという話は自分にとっては大きな関心の対象だ。

時間と空間の幻想性が認識できればいいなあという思いは強い。その興味を自分と一体のものとして考えなくてもいいのだが、気がつくと、一体化している。本当に面白い。

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