あることのシンプルさ (5) ジョーン・トリフソン

 
ジョーン・トリフソンのウェブサイトにある文章 The Simplicity of What Is
 を翻訳しているシリーズ。これが最後で、パート5。(パート1パート2パート3パート4)

The Simplicity of What Is


== 以下、翻訳 ==

無限性、一体性あるいは非二元性というのは、大量の分離した断片がようやく一緒になったというような状態のことではない。それに、ひとつの根本的な実体によってすべてが作られているという意味でもない。無限性、一体性あるいは非二元性とは、あらゆるものには等しく実体がないこと、一緒に合わさることができるような、ばらばらの「もの」は無いということ、そして、つかまえることができるような実体はどこにも存在していないということだ。といっても、それは、なにも存在していないという意味ではない。空 (くう) というのは、空虚でもなければ、かたちのない無でもない。禅の老師が修行僧に、空 (くう) をつかめと命ずるエピソードがある。修行僧は、なにもない空間を手でつかむ仕草をするのだが、「それもいいだろう。だが、空 (くう) をつかむもっといいやり方がある」 老師はこう言いながら、修行僧の鼻をつかんで、ギュッとねじったという。すべては空 (くう) なのだ! 鼻をねじられる感覚が空 (くう) だ。鼻は空 (くう) だ。空 (くう) とは鼻に他ならない。空 (くう) とは、あらゆるもの (鼻も含めて) には個体性も永続性も分離した実体もないという意味だ。かたちと空 (くう) とを二つに引き裂くことができるのは、思考の中だけでだ。真理とは、神秘的なものではない。探す必要はないのだ。真理とは、ただこれのことだ。コンピューターの画面、ここに並んでいる言葉の形、車の轟音、ぐうぐうと鳴るお腹、吠える犬、鼻、ただこれ。どんなものでもないもの!

究極的な意味では、宇宙は漂う夢であり、流れのなかに現れる幻想だ。額を一回拭えば、何十億もの微生物を殺し、重傷を負わせたことになる。恐ろしい出来事や災難が、途方も無い知恵や洞察や慈悲や目覚めのきっかけになることは多い。明るさと暗さは同じコインの二つの面であって、一つの面しかないコインは存在しない。これが認識されるとき、生をそのままに受け入れることができるようになる。悟りとは、「自分」が陽光が当たる側に移って、永遠にそこに留まるというようなことではない。悟りは、絵の全体を抱擁するものだ。悟りは、超然としていることでも、思いやりを表現しないということでもない。なぜなら、悟りとは、すべてが自分自身だという認識だからだ。どんな境界線も、想像上のものだ。悟りとは無条件の愛だ。露の一滴一滴、雪片のひとつひとつ、排水溝に落ちているゴミのひとつひとつ、人間ひとりひとり、そのすべてが、かけがえのない、大事なものだ。そして、それらすべてが継ぎ目のないひとつの存在だ。驚くほど多様だが、そこにはどんな分離もまったくない。そのことを本当に認識したとき、自分自身を含むすべての存在に対する慈悲の心が生じるのは当然のことだ。慈悲であると通常考えられているようなかたちで、偉大な慈悲が表現されるとは限らないのだが。

どんなことが現れたとしても、たとえば混乱、抵抗、痛み、喜び、努力、至福、退屈、自分のストーリー、批判、好み、晴天、荒天といったことが現れたとしても、それらすべては継ぎ目のない一つの全体だ。バラバラにすることはできない。

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自分が「全体」を探そうとしていたり、「全体」がどんなものなのか思い描こうとしていたりすることに気がついたら、無限性というものが特定のものではないということを思い出すことだ。「気づき」を何か (何も映っていないスクリーン、空の容器、鏡など) として考えていることに気がついたら、それがすべて観念的なイメージ、概念的な考え、微妙なものではあるが想像上の対象だということに注意しよう。「気づき」は言葉であり、それは、見ることを指し示すものだが、その見ることが、見る側と見られる側に分かれていることはありえない。それがどういう意味か、いまあなたは理解しようとしているのではないだろうか? でも、それをわかろうとすることの滑稽さに気がつくだろうか?

無限性は、かたちの無形性を指し示している。知覚することができるもの、あるいは考えることができるもの (かたち、イメージ、考え、記憶、感覚、思考、感情、出来事、物、経験) は、どれだけ確実なものなのだろうか? 自分の子ども時代、昨日、一分前、一秒前は、いまどこにあるだろうか? 詳しく調べてみると、すべてが一瞬一瞬分解していっていることがわかる。目覚めているときの生という見かけのどこにも実体はなく、つかむこともできない。マインドはつねに把握しようとする。マインドは、答えや確かさ、そしてぐらつかない場所を探す。これらすべてはいったいなんなのだろうか? と、マインドは理解したがる。思考は、「自分」が一歩下がって、自身のこと、そして〈全体性〉を見ることができるのだと思い込む。だが、どんなに必死に見ようとしても、目はそれ自体を見ることができない。あなたが探しているもの、それは最初からあなたとしてある。あなたはずっといたのだ。分離ということが生じる可能性はない。あなたは、あなたであるものでないということができない。

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経験は生じて、消えていく。ここで言っているのは、特別な経験をすることでも、大きな出来事を経験することでも、最終的な解明をすることでも、ある種のサイケデリックなビジョンを経験することでもない。以前の経験を取り戻すとか、どこかで読んだことがあったり想像したりしていることを手に入れるということでもない。そうしたことすべては、夢のような現れの世界のなかにある。

すべてのこと (頭のなかの映画、夢、知覚、思考、目覚めているときの人生、蜃気楼、自分という幻想、見かけの上での二元性、時間と空間、椅子、テーブル、拡張、収縮、瞑想リトリート、交通渋滞、そしてすべて) に、実体も継続性もないということにただ気づくのだ。すべてはここに現れ、消えていく。ここは常にここだ。いまは常にいまだ。過去の記憶、未来についての空想、別の場所についての思考といったものでさえ、〈ここ・今〉にしか現れることはできない。気づきはある。明晰なときも、思考によって「曇っている」ときも。深い睡眠のあいだ、宇宙全体が消える。言葉も観念もすべて消える。気づきや存在の感覚さえ消える。理解の追求や覚醒の探求もすべて消える。あなた (知覚でき、考えられるものとしてのあなた) も消える。「自分」が消えたことに気づくことができる「自分」も残されていない! 知覚できることも、考えられることも、何も残らない。この広大な空っぽさから、夢が現れ、そして目覚めているときの人生という映画が現れる。波が海岸に次々と打ち寄せるが、海はそのままある。宇宙は「人々して」いる。それは海が「波して」いるのと同じだ。なにが生まれ、なにが死ぬのだろうか? 無限性をマインドがつかまえることはできない。ここでなにかが起こっているが、それを思考によって把握することはできない。それに、把握すること、解釈することは必要ないのだ! 境界のない単一性を見つけることはできない。なぜなら、あなたこそが境界のない単一性だからだ。境界のない単一性の他にはなにも無い。あなたは宇宙全体を包含している。そして、宇宙全体があなたとして現れているのだ。

目覚めるということは、たった今ここに存在していない何かを手にするということではありえない。

普通のことに感じられる現在の気づき。この言葉のかたち、コンピューターのブーンという音、車の音、聴いている存在、現れては消えていく感覚。それを分割して、解明しようとするのは思考だけだ。そして、その思考の動きそのものも、それ自体がエネルギーであり振動であって、ひとつの見かけ、頭のなかの天気なのだ。まったくなにものでもないものだ。

***


じゃあ、何をすればいいのだろうか? 努力するか、しないか。鍛錬をするか、しないか。こうした質問は、空に浮かぶ雲のようなものだ。鍛錬は現れるかもしれない。現れないかもしれない。努力は起こるかもしれない。あるいは努力が起こらなくなるかもしれない。いずれにしても、あるのはこの一つの現在の瞬間だけ、あるがままのそれだけだ。いわゆる瞑想は (その真の意味においては) 、どこかに行くということでも、何かを達成することでもない。瞑想は、特別な姿勢とも、技法とも、結果とも、経験とも関係ない。瞑想とは、努力のない気づきであって、あるものに気づいているということだ。瞑想とは、瞑想している者がいないということを直接発見すること、そして、〈ここ・今〉の無限性に入ったり、そこから出たりすることはありえないということを直接発見することだ。そのことが認識されると、「瞑想」という概念が完全に脱落する。そしてそこに残るのは、新たな信念体験ではなく、すべてだ。ありのままのすべて。

だから、自分に自由意志があるのかどうか、自分が存在しているのかどうか、瞑想をすべきなのかどうか、どの先生を信じればいいのか、というようなことを見つけ出そうとして自分が混乱しているように感じたら、こうした観念的ななぞなぞから、たったいま目覚めればいい。止まる。見る。聴く。車の音、鳥の声、風の声に耳を傾ける。呼吸を感じる。特別なことではない。いま実際にあることという、驚くべき奇跡があるだけだ。

(見かけの上で) 邪魔になっているのは、これは違うというストーリー、何かもっと別のものが必要だというストーリーだ。そのストーリーを自分で消すことはできない。なぜなら、ストーリーを消そうとする努力そのものが、ストーリーの一部だからだ。ストーリーから自由になりたがっている「自分」というストーリーだ。ストーリーと、身体に閉じ込められているという幻想についてできることは、それがストーリーであり幻想であるということを、それが生じたときにただ認識するということだ。ここで、今。その正体が見ぬかれない場合は、「自分」にはわからない、束縛されている、あるいは困っているのだと感じられるかもしれない。だが、わかっていない「自分」というものは本当に存在しているのだろうか? 映画の中の炎によって、スクリーンが燃えてしまうことなどあるだろうか?

言葉と概念は複雑だ。現実はまったく単純だ。メニューを食べることも、地図の中に住むこともできない。ここに示している言葉は、すべての信念と観念が本当はなんであるのかということを見抜くことを促すものだ。アドヴァイタや禅やこの文章で使われているような、かなり微妙な点が考慮されている信念や観念もその対象だ。真理は未来にあるのではなく、今にある。隠されておらず、明白で避けることができない。真理は概念のなかにあるのではなく、現実のなかにある。すべてを解き明かしたいという探求、解き明かしてどこかに到ろうとする試みは、観念的な混乱だが、それがまったくなんでもないということ (そしてそれがまったく個人的なものでもないということ) が認識され、自分というものはあらゆる現れを超えていて、あらゆる現れは自分、〈一心〉に他ならないということが明確になったとき、そこに目覚めることができるような誰かが存在していることはないだろう。このことを解放と呼んでもいい。でも、呼び名をつける必要などあるだろうか?


== 翻訳は以上 ==

かなり多くのポイントをひとつの文章でカバーしているため、ダイジェスト版のような印象も受ける。だが、ところどころにどきっとする言葉が埋め込まれている。続けて読んでいると、逃げ場がないような感覚に襲われるかもしれない。

だが、その逃げ場のなさの向こうに、逃げる必要などなかったという安心、最初から自分は自由だったというほっとする感覚があるような気もする。

ここまでで、ジョーンのウェブサイトにある文章のうち、翻訳の許可をもらっているものについては、すべて訳し終えた。ジョーンは、最近ではFacebookにたくさんの文章を投稿しているが、それはまた機会があればということにしたい。

このブログでは、ルパート・スパイラ、トニー・パーソンズ、ネイサン・ギル、グレッグ・グッド、リチャード・シルベスター、レオ・ハートンなど、いろいろな人のエッセイやインタビューを訳して紹介してきた。

そのなかで、ジョーンの文章についての反響がいちばん多かった。コメントもたくさんいただいたし、メールもいただいている。

なぜだろう?と考えるが、ジョーンの言う通り、なぜだろう?の答えはすべて観念だ。だから、その答えの無さのなかにただいることにしよう。雲を眺めるという行為に正解がないのと同じだ。

と、自分の言葉までジョーン風になってしまった (笑)

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