あることのシンプルさ (4) ジョーン・トリフソン

 
ジョーン・トリフソンのウェブサイトにある文章 The Simplicity of What Is
 の翻訳のパート4。(パート1パート2パート3)

The Simplicity of What Is


== 以下、翻訳 ==

「私はここにいる」ということを知っている主体を探そうとしたり、その知識を求めようとしたり、あるいは、気づきや無限性を探そうとしたりすると、つかめるようなものは何もないことに気づく。それでも、すべてが見つかるのだ! あなたは、あなたが (存在-気づきとして) ここにいるということを知っているし、絶対的に疑いのない確かさをもってそれを知っている。ここにいるということは、疑うことができない。〈ここ・今〉にあるということを否定することはできない。

このあるということを、言葉で包含すること、表現することはできない。このあるということは、空性、無限性、不生、絶対、タオ、純粋意識、ワンネス、仏性、自己、真理、全体性、一心などと呼ばれてきた。だが、言葉は指し示しているだけだ。概念化を越えたところを指し示し、まったく明白で見過ごすことが不可能なものを指し示している。こうした言葉が指し示しているのは〈ここ・今〉、〈永遠の一なる (時間を超えた) 現在の瞬間〉 だ。

そして、それはいったいなのだろうか?


それをつかもうとすれば、必ず欲求不満につながる。それでも、いま経験しているということの直接性はここにあり、避けることができない。この直接性は不可思議なものでも神秘的なものでも不可解なものでも超越的なものでもない。あなたにはこの直接性がないというようなこともないし、それを認識するために厳しい修行をしなければならないということもない。それは、たった今のこの直接的な経験のことだ。正体を突き止めて、頭で把握して、概念化しようとするまさにその努力によって、この直接性は一見したところ分かりづらいように見える。この把握しようとする努力と、その結果として生じる欲求不満のなかで、混乱と分離感が現れる。思考の把握しようとする動き、求める動きが、「自分」という蜃気楼をつくりだす。つねに不完全で、何かを見つけないといけない、何かにならないといけない、すべてを解明しないといけないという必要に突き動かされる幻の自己をつくりだすのだ。目覚めるということは、観念的に把握しようとするこの働きがやわらぐことだ。ある禅の指導者の言葉を借りると、目覚めとは思考の手を開くことだ。

無限性は実は遍く存在している。無限性が私たちのもとを去ったことはない。つかもうとしている最中、求めている最中でもそうだ。つかもうとすること、求めることも、分けることのできない無限性のひとつの活動だからだ。波が海の活動であるのと同じだ。無限性は絶えずある現実だ。それがどのようなかたちをとって現れるかには関係なく、絶えず存在している現実なのだ。無限性が見かけの上でとるかたちによって存在することになるのではない。だが、思考 (頭のなかの映画、心配、強迫観念) のみに注意が注がれると、無限性が失われてしまったかのように感じられる。「私」は他から切り離されて存在する誰かであって、その「私」が「一体性」や「気づき」や「現在の瞬間」を取り戻そうとして奮闘しているように感じられる。あたかも、そうしたものが自分とは切り離された対象であって、そうしたものを見つけたい、つかみたい、理解したい、経験したい、一緒になりたい、同一化したい、それになりたいと感じているかのように。観念的な蜃気楼の世界がスクリーンを満たし、それによって、分離と不足というストーリーが完全に現実的で説得力があるものであるように感じられる。逆説的だが、蜃気楼を逃れようとすると、まさにそのことによって、架空であるはずの問題が実際に存在しているかのように、さらに、問題を抱えているとされる人間が存在しているかのように、思えてしまう。解放とは、出口を見つける必要はないということを認識することなのだ。

思考と、思考によって気づきのスクリーンに映し出される映画は、脳の分泌物、条件づけられた行動パターン、精神的な天気であるにすぎない。そこに個人的な要素はまったくない。思考や映画に抵抗したり、克服しようとする必要はない。それが本当は何であるかということを見ればいいだけなのだ。ストーリーの中に囚われているように見える「自分」が、実はただの幻であるということを認識するのだ。すべてがあまりに見え透いている。そのことを認識するだけだ。

思考がつくる蜃気楼のような世界と、頭の中に映されている映画について、それが本当は何であるのかということを認識することは、次第にとらえづらいものになってくる。「考えすぎ」ということについて自分を責めるということは、それもまたひとつの思考にすぎない! 考えている「自分」、見ている「自分」はいないのだ。その「自分」はひとつの思考、観念的なひとつのイメージにすぎない。解放は、なにかを取り除くことではない。解放とは、存在しているように見える障害に実体がないということを見ること、思考を止めたいと願っている「自分」もまた、観念的なイメージ、ひとつの思考、ひとつのストーリーのなかのひとりの登場人物にすぎないということを見ることだ。


無限性を避けることはできない。無限性は、雨の匂い、鳥の鳴き声、道路の騒音、感覚のただなかにある。完全に生きている。それをつかむことはできない。最終的な結果も、ゴールの線も、ビッグバンのようなできごとも、あなたも、何もない。あるのはあることだけ、ありのままのあることだけだ。魅惑的な経験をする必要はない。排除すべきものも、しがみつくべきものも、得るべきものも、理解すべきこともない。除外されるものはなにもない。特別扱いされるものはない。自由はまったく単純で、簡単だ。複雑さや混乱があるとしたら、それは思考が自分の尾っぽを追いかけているというしるしだ。そして、この追いかけるということも、無限性にほかならない。

***

すべてに継ぎ目がなく、何の分割もないのは確かだ。それでも、分離というストーリーに巻き込まれるということは、開けていて広大な曇りのない気づきとは違う経験だ。分離のストーリーに極端に巻き込まれたことで、何百万もの人をひどく苦しめ、命を奪う人たちもいる。そうすることは良いことであると感じられるのだ。そのような催眠状態から、個人的にも国家レベルでも目覚めたいと感じるのは当然だが。だが、とてもわかりづらいものではあるが、そこには落とし穴がある。

苦しみに抵抗したり、目覚めようと努力することは、それ自体が苦しみであり、混乱だ。それがうまくいくことはない。なぜならそうした抵抗や努力は、分離という幻想を土台としているからだ。その幻想や取り違えこそが、苦しみを生み出しているのだ。苦しみは、いまあるものを完全に受け入れることによって終わるが、それが起こるのは、ここ、いまだ。受け入れるといっても、それはすべてを好むとか、すべてを是認するということではない。受け入れるということは、ものごとを変えるための行動を起こさないということではない。受容に基盤をおいた行動は、抵抗や収縮から生じる行動とは、かなり異なるものだ。受容とは、気づきあるいは無条件の愛を表す別の言葉だ。というよりも、すべてを含み、すべてを受け入れるということは、気づきの本質だ。だから、この受容というのは、私たちが取り組む必要があるような課題ではない。どちらかと言えば、すべてがそのままであることがすでに許されているということを認識するということだ。それは当然だ。すべてはそのようにあるのだから! すべてはあるがままにあり、この瞬間、ほかのありかたであるということはありえない。と言っても、それが次の瞬間に変わっていることはありえないとか、変わることはない、という意味ではない。

痛みを和らげるため、傷を治すため、不正義を正すために行動すること (あるいは行動しないこと) は、自然に起こる。宇宙が行動している。治ったとしても、究極的には、いつかはまたその状態は崩れる。あらゆるかたちが一時的なものだ。そもそも、私たちが考えているようなあり方では、ものごとは存在していないのだ。真の自由とは、生まれることも死ぬこともない無限性を認識すること、相対的な現実に関係なく無限性がここにあること、相対的な現実があることによって無限性があるということはありえないということ、それを認識することだ。

「自分」がこの認識を「獲得する」ことを目指していて、そのことに「自分」が失敗してしまったら残念がるという映画が上映されはじめたら、ただ気づけばいい。それがただの映画であり、意識のなかに現れる夢のような現れであり、架空の登場人物をめぐるストーリーにすぎないということに。無限性は最初からここにある。無限性が失われる (あるいは見つかる) ということはない。気づきはすべてを包含していて、何にもしがみつかない。濁りは現れる。収縮は現れる。痛みは現れる。抵抗と緊張は現れる。広がりとくつろぎは現れる。頭のなかの映画は現れて、消える。夢は生じて、消える。深い睡眠と死に際してすべては消え、目覚めたときにまた現れる。すべては境界のない盛衰、流れだ。そこには、絶対的にすべてが含まれる。収縮や苦悩や抵抗や、分離と封じ込めという見かけさえ、含まれている。いわゆる「悪」さえも、含まれている。すべてがある


すべては無限性だということを認識するということは、明晰さと混乱との間に違いがあるということを認識できないということとは違う。歯間を綺麗にしないということでも、不正を正したくなったときに正すために立ち上がらないということでもない。単一性には、識別力も、行動する力も含まれている。間違いに気づく能力、それを正す能力も含まれている。だから、覚醒とは、すべてはそのままで「問題ない」と考えているということを理由に、ただ傍観するだけで何もしないということではない。私の最初の禅の指導者が言っていた。「あなたはそのままで完璧だ。でも、それは、向上の余地がないということではない」 あらゆることのための余地があるのだ! だが、どんな行動も、その真のは〈全体性〉であって、分離して存在している架空の人間ではない。そして、何が起こったとしても、それは夢のような見かけだ。つい先ほどの瞬間は、すでに完全に消えてしまっている。そこに何の現実性、実質、実体があったというのだろうか?

輪廻と涅槃の間には、何の違いもない。違いという幻想が輪廻であり、涅槃とは、この違い、分離に実体がないということを認識することなのだ。解脱とは、「あなた」が輪廻を脱して涅槃に至るというようなことではない。それは幻想だ。解放 (解脱) とは、分離や不足というストーリーがまったくないということなのだ。

***

だが、こうしたことをただ信じるとしたら、そんなことにはまったく意味がない。解放とは、別の信念体系を採用するということでもなければ、別の答えのセット (たとえば「すべては一なるものだ」とか「獲得すべきものはない」とか「意識が存在するすべてだ」とか「自由意志はない」とか「すべては完璧だ」) を手にするということでもない。解放は、信念を超えた活動性、直接性だ。解放とは、すべての答え、解釈、立場が消えることであり、そのすべてが消えたとき、知らないという開かれた心が残る。

それが、仏陀にあったら殺せ、と言った人がいる理由だ。答えを見つけたと思ったら、それを捨てるべし。昨日の答えは今日の死肉。手放せ。しがみつけるような実体のあるものは何もない。悟った人はいない。あるのは、悟った見方、悟ったあり方、悟った意識、非個人的な明晰さだけだ。悟っていない人もいない。そこにあるのは混乱、催眠状態、非個人的な不明瞭状態だ。これらすべてが、天気のようなものだ。現れては、消えていく。そして、そのすべてが分割されていない全体の側面であり、他のあらゆる側面から切り離すことはできない。混乱も、明晰さも、目覚めたいという望みも、浄化したいとか癒したいという衝動も、いろいろな瞑想的探究も、修行も、修行から目覚めるということも。そのすべてが、あるものなのだ。

こうしたことすべての意味をつかもうとしたり、固定した立場や見解を受け入れようとしたりすれば、遅かれ早かれ、自分が立っていると思っていた地面は押し流されてしまうだろう。解放とは、「正しい」答えを突き止めることでも、「正しい」立場をとることでもない。現実を突き止めることはできないし、箱に詰めることもできない。目覚めるということには努力は要るのだろうか、要らないのだろうか? 選択はできるのだろうか、それとも選択はできないのだろうか? 世界は現実に存在しているのだろうか、存在していないのだろうか? 起こることには意味があるのだろうか、ないのだろうか? 自分は死んだ後も存在しているのだろうか、消えるのだろうか? そうした疑問には答えがない。なぜなら、これらの疑問はすべて、表現できないものを表現しようとするものであり、そして、観念的な欺瞞に根づいたものだからだ。ちょうど、平らな地球についての疑問と同じだ (地球の端から落ちたら自分はどうなるんだろう?という疑問があるが、自分も地球の端も架空のものであり、この疑問は誤認によって生じたものだ) 。


「一体性」、「空性」、「気づき」といった言葉が出たとたんに、その言葉が示している対象が存在しているとか、分離したものが存在しているという、幻の感覚がつくりだされる。だが、対象は実際には存在していない。それは概念であるにすぎず、さらにそれらの言葉はそれが指し示しているものとは違う。考えることによって無限性をつかむことはできない。それでも無限性はあらゆるところに現れている。すべてとして。

== 翻訳は以上 ==

パート5へ続く

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