あることのシンプルさ (3) ジョーン・トリフソン

 
ジョーン・トリフソンのウェブサイトにある文章 The Simplicity of What Is
 という文章を翻訳して紹介している。これはパート3。(パート1パート2)

The Simplicity of What Is


== 以下、翻訳 ==

スピリチュアルなグループのなかには、爆発的な覚醒をするということが大きな関心の対象となっているところもある。そうしたグループでは、覚醒というものは、ある線のことだとされている。「自分」がその線を一度越えれば、身体に自分が封じ込められているという幻想から永遠に解放され、元に戻ることはなく、「自分」もついに解放された賢者の仲間入りするのだ!と。いわゆる探求者のなかには、その架空の線をすでに越えているとされている先生、賢者、グルに完全に魅せられている人たちがかなりいる。そうした先生たちのストーリーを誰もが聞きたがる。さらに、どうしたら自分にもそういう素晴らしいことが起こるのか、ということを知りたがる。これが、自分をめぐる代わり映えのしないストーリーだということがわかるだろうか? たしかに、いろいろな驚異的な経験をしたことがある人たち (といっても、それは必ず目覚めているときの人生という、夢に似た映画のなかでしか起こらないのだが) もいるだろう。だが、悟りとは、自分が悟っているのか悟っていないのかというようなことを気にする人が終わるということだ。悟ることができるような独立して存在している人間というものが存在しないということ、そのようなものは一度も存在したことがなかったということを理解すること、それが悟りだ。身体に閉じ込められているという幻がどれだけ繰り返し現れようとも、それが幻であることには変わりない。そして、この幻から目覚めるのは「自分」ではない。なぜなら、その「自分」こそが幻なのだから! というよりも、「自分」にはどんなこともできない。

「あなた」がこの文章を読んでいるいま、この画面にいろいろな組み合わせで表示されている模様が認識され、意味をもつものとして直ちに解釈される。この素晴らしい行為をしている人、この入念な光学的で神経的な作用を監督している人がどこかにいるのだろうか? それとも、この行為、作用は、自動的にそれ自体で起こっているのだろうか? 「私」が読んでいるとか、「私」が見ているとか、「私」が聴いているとか、「私」が考えているとか、「私」が禁煙したとか、「私」が食べ過ぎた、という表現がある。だが、その「私」とは正確にはなんなのだろうか? 「あなた」の次の思考や、「あなた」の次の行為がどんなものになるかを、「あなた」は本当に知っているのだろうか? それをコントロールしているのだろうか?


いまここにおいて、自分の左足に注意を向け、つま先を揺り動かすということをする能力は存在している。でも、そうしたことは実際どのように起こっているのだろうか? 何がそれを引き起こしているのだろうか? 意志や意図はどこから現れるのだろうか? 生じることをマインドが言葉で捕まえようとすると、そこにすぐに二元性が生まれる。そして気がついたときには、空想上の問題やなぞなぞのなかで迷子になってしまっている。自分には自由意志があるのだろうか? なぜしたくないことをしてしまうのだろうか? どうしたら変えられるだろうか? 自分はなにをすべきだろうか? 自分にはなにかできるんだろうか? 私は存在しているのだろうか? といったような問題のなかで。


そうしたことはすべて思考だ。混乱していたり、何かを探し求めていたりしたら、それは思考が自分の尾っぽを必死に追いかけているという証拠だ。現実は単純だ。現在の瞬間は単純だ。ここには混乱もないし、問題もないし、自由意志もないし、自由意志がないということもない。自分がしていることが何であれ、していることをただしているというだけだ。本当のところは、そのどれに関しても、それをしている「あなた」は存在していない。その「あなた」というのは、後になってから現れた考え、頭の中のイメージ、文法的な約束事、本当に一切何でもないものであるエネルギー的な流れの一部が実体のあるものとしてみなされているものにすぎない。実際には、「あなた」や「私」という見かけをとおして、生がそれ自体を生きているだけなのだ。このことが真の意味で理解されたとき、罪悪感も非難もすべて消える。


遺伝、神経作用、条件付け、誘因、状況が「誤った」かたちで組み合わさって、恐ろしいことだと考えられていることが起こることがある。「私」がその恐ろしいことをしてしまう人になるかもしれないし、「あなた」がそうなるかもしれない。誰もが、皆の安全のためには、連続殺人犯や児童虐待犯はどこかに閉じ込めておいたほうがいいと考えるだろう。でもその一方で、慎重に探ってみると、そうした人たちを非難することはできないということがわかる。もし自分で選択するということが本当に可能であるならば、そして本当の意味で自由ならば、残虐行為をする人はいないだろう。注意深く見てみると、もし「私」が「彼ら」の立場にいたら (つまり、もし「私」にも彼らと同じ遺伝、神経作用、条件付け、誘因、状況の組み合わせがあったとしたら) 、「私」は「彼ら」と全く同じことをするだろう。「立場」 (素質と環境などの無数の条件に基づく) というものを切り離しては、「私」も「彼ら」もないからだ。

ということは、「すべてはただ起こっているだけ」で、「自分は何も選択することはできない」のだから、私たちは完全に言いなりになり、何も抵抗せず、あるいは途方もなく無道徳でいるべきだということになるのだろうか? そうではない。ここで言っているのは、見かけの上でいろいろなやり方を「選択」することができる「私」というものは幻想で、観念的なイメージであり、そこには実体がないということだ。ということは、私たちには力がなく、何をすることもできないということなのだろうか?

イエスかノーかという概念的な答えをひねり出すのではなく、この質問と共にありながら、答えを求めないでいることはできるだろうか? 行為が生じるとき、選択がなされるとき、結論が出るときに、それを注意深く見るのだ。椅子から立ち上がるかどうかという小さなことから始め、結婚するかどうか、あるいは他の国に引っ越すかどうかというような大きなことまで。じっくりと見てみよう。コントロールをしている誰かを見つけることができるか、決定の瞬間を特定することができるか、あるいは、どのように選択と決定が起こったのかを全部説明することができるか、確認してみてほしい。舵をにぎっている主体がどこにもいないことを発見するかもしれない。または、自分の腕を上げるとか、こうした文章を読むという最も単純なことについても、それを「あなた」がどうやってしているのか説明することができないことを発見するかもしれない。それでも、一方では、自分には何もできないとも言い切れない。それは、たったいまここで行動する能力が明らかにあるからだ。あなたにできないのは、その決定が実際何なのか、どのようにそれが起こるのかをつかむということだ (概念的に) 。ある行為に気づきが向けられれば向けられるほど、行為と気づきはより洗練されていくように思える。そして、可能性がますます広がっていくように思える。でも、行為に気づきを向けているのは誰だろうか? そこには選択がかかわっているだろうか? 言葉や概念は現実を包むことができないということに、あなたは気づくかもしれない。

ここというものは、概念を越えた実際の現実のなかでは、自然な対応能力と知性であり、生そのものによってもたらされている選択のない選択、努力のない努力だ。息をすること、循環する血液、思考、思考に気づいていること、夢、目覚め、現れ、現れが消えること。分けることのできない一なる直接性。そのなかには、自由意志をもっていたりもっていなかったりする分離したものはなにもなく、何かを引き起こしたり引き起こされたりするものもなく、生まれるものも死ぬものもなく、悟っているものも迷妄のなかにいるものもない。

思考は、見かけの上で、この直接性を分割する。思考は、継ぎ目のない現実の上に網をかぶせ、概念的に現実を小さな区画に区分けする。そうしてから、思考は、区画Aが区画Bを引き起こしたとか、区画Bは区画Aの結果だとか、区画Aには自由意志があって区画Bか区画Cを選べるとか、区画Aは時間的空間的に区画Bより前に来るといったことを想像する。これはすべて想像であり、概念化だ。区画は本当は分離しておらず、境界線は実際には存在していない。区画も境界線も観念のなかにあるだけだ。複数の区画の間の関係や、時間や空間にかんする関係も想像されたものであり、観念であるにすぎない。区画同士は実際にはまったく関係していない。そもそも二つに分かれてはいないからだ。そして、全体性に概念的な網をかけるという思考によるこのプロセスも、それ自体が同じ全体性のひとつの側面だ。架空の区分けの本質を見破っている気づきも、同じくこの全体性のひとつの側面だ。すべては〈絶対〉のなかに包括されている。〈絶対〉は相対 (見かけの上での区分けで構成される世界) を含んでいるということは言える。だが、〈絶対〉は相対には縛られない。目覚めとは、相対的な現実を無視したり、見くびったり、否定したりすることではない。目覚めは相対的な現実の本質を見抜く。目覚めは、すべてが空 (くう) であることを認識する。だが、相対的な現実においては、ショーは続き、あなた (見かけの上での登場人物) は自分の役割を演じ、見かけの上で選択をして行為をする。

選択というものは、自動的に生じる思考にすぎず、その思考が意図したことがその通りに結果としてそれに続くこともあれば続かないこともある、という考え方を、たいてい私たちはしている。そういうものが選択だと考え、また、そういうものを選択と呼ぶ。「俺は禁煙するぞ」というような思考は、無数の条件から自然に生じるが、禁煙という結果がそれに続くかどうかはわからない。思考には力がないからだ。「私」という名で指し示されているそれは、力のない蜃気楼であり、幻だ。蜃気楼は何かをする (あるいはしない) ことを選択することはできない。この蜃気楼のような架空の断片 (「自分」) の視点からすると、自分には選択もできなければ自由意志もないという考えは恐ろしいものに感じられる。それじゃあ「私」はまるで何のコントロールもできないロボットみたいじゃないか、と。だが、この見かけの上でのジレンマは消え去ることがある。それが消え去るのは、制限されていたり、自由であったりできるような「私」がここにはそもそも存在していないということが認識されるときだ。行為が起こり、欲求や意図や願望が起こり、学びが起こる。だが、それらすべてが全体的で分割されていない一つのできごとなのだ。

習慣的な思考のパターンや条件付けられた存在のあり方は、実際、きわめてロボット的で無意識的だ。だが、それらすべてを見守り、照らしている気づきについてはどうなのだろうか? 気づきは、無意識で、条件づけられたものなのだろうか? 気づきは、なんらかのかたちで制限されているのだろうか? 気づきを探そうとしても、何も見つかることはない。というのは、気づきは見ることの外側に存在している対象ではないからだ。気づきとは、見かけの上でのあらゆる形がないことであり、何も存在していないことであり、全体性であり、無限性であり、活動性であり、目覚めなのだ。

== 翻訳は以上 ==

その4へ続く

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