あることのシンプルさ (2) ジョーン・トリフソン

 
ジョーン・トリフソンのウェブサイトにある The Simplicity of What Is
 という文章を翻訳、紹介している。これは二つ目のパートだ。(その1)

The Simplicity of What Is


== 以下、翻訳 ==

いま聞こえてくる音に、ただ耳を傾けてみよう。車の音、クラクション、鳥のさえずり、芝刈り機、除雪車、雨、風、葉がこすれる音、犬の吠える声、掃除機、こどもたちの声、ラジカセ、サイレン、列車の汽笛。何が聞こえてきてもいい。音をただの音として聴いてみよう。音楽を聴くときのように。もし音が何も聞こえないのであれば、静寂に耳を傾けてみてほしい。呼吸を感じ、身体の感覚を感じ、心臓の鼓動を感じ、エネルギーの流れを感じ、胸の緊張を感じよう。何が感じられてもいい。何が感じられても、それをただの感覚として感じてみよう。ラベルを貼らず、評価もせず、抵抗もせず、感覚を正そうとか、改善しようとか、強めようとせずに。抽象画を見るときのように、自分のまわりにある色や輪郭や動きを見てみよう。すべてが絶えず変化していることに気づくだろうか。変化し続けているが、すべてはこの絶えず存在している〈ここ・今〉で起こっている。この時間を超えた直接性が何であるかを言い表すことはできない。この直接性を避けることもできない。

こうしたこと全部は、いったいなんなのだろうか?

この質問が尋ねられたとき、なにが起こるかに注意してみてほしい。思考するマインドが割り込んできて、すぐに答えを探そうとするだろうか? 思考は、スピリチュアルの (または科学的な、あるいは心理学的な) ファイルを探しはじめるだろうか?「これはすべてが〈意識〉なのだ」と考えるかもしれない。もしくは、「これは純粋な気づきだ」とか「これは脳の活動によるものだ」とか「これは自分の居間だ」とか「これはウェブサイトに掲載されている文章だ」とか「これは知性のエネルギーが振動して異なるパターンとして現れているのだ」とか「これは夢だ」とか「これは現象の顕現であり、自分は純粋なニューモノンだ」と考えるかもしれない。

こうしたものすべてが思考だということが、たったいま認識できるだろうか? こうしたものは概念、考え、解釈、言葉、レッテル、信念なのだ。役にたつこともあるかもしれないし、指し示すものあるいは地図としては、相対的な意味ではある程度は正確であるかもしれない。でも、そのすべてが言葉であることに、たったいま気づくだろうか? そのどれもが、変化し続ける音や感覚や形や色の現実 (本質) ではないのだ。言い表したもの、あるいはレッテルだ (先ほど書いた他の言葉も同じだ) 。 「気づき」という言葉は気づきではない。気づきや実在に関するどんな考えも、疑うことができるし、それについて反対することもできる。だが、気づきや実在の現実は、疑いや信念を超えたものだ。何の証明も必要ない。「気づき」という言葉は、気づきを分離した何か、音や色とはの何かにしてしまうように感じられる。だが、いまの瞬間の現実が、実際に「気づき」と「内容」に分割されているわけではない。それは継ぎ目のないひとつの直接性であり、全体的なひとつのできごとだ。それの向こうには何もなく、その外側にはなにもない。それは分割されておらず、何にも包まれておらず、制限されていない。

すべての言葉、レッテル、概念、考え、信念が脱落するにまかせるということは可能だろうか (一度脱落してそれ以降ずっとということではなく、たった今この瞬間に) ? それらすべてを手放したとき、なにが残るだろうか?

残るなにかを、思考するマインドが探しているだろうか (経験、特定の感覚、正しい概念的な理解、何かがないこと等、どんなことでも) ? この探そうとしている動きの本質を見破り、それが脱落するにまかせることはできるだろうか? 実際に残るもののなかで、ただくつろぐということはできるだろうか? 考えによっては全くつかむことができないけれど、完全に明白で避けることが不可能なこれのなかで。見ること、聴くこと、気づくこと、呼吸すること、ただこれ。言葉ではなく、現実のなかで。(これを読んで、マインドが、非概念的な純粋さというものを想定し、その純粋さを獲得するために言葉と思考を追い払おうとしているかもしれない。もしそのようなことが起こっていたら、そうした努力をただ起こっていることとして見るということは可能だろうか? 追い払わないといけないものはなにもない! マインドのその努力も追い払わなくていいのだ。すべては分けることのできない流れている全体だ。この、つねに〈ここ・今〉で生じる、絶えず変化しつづける現れなのだ。)


一瞬一瞬が完全に新しいものだ。言葉にしがみつかないように。言葉が完全に正しいということはありえない。言語はそもそも二元的なものだ。言語は主体と客体 (対象) を必要とし、言語が概念を具体的なものとみなし、分割する。だが実際のところ、境界線がどこにあるというのだろうか? 「内側」と「外側」の境目はどこにあるだろう? その答えは、概念的になら考えることができる。だが、気づきをもって直接見てみたとき、その境目を実際に見つけることができるだろうか? この境界というものが完全に概念的なものであって、直接的な経験のなかでそのような境界を見つけることはできないということが、認識できるだろうか? でも、それをそのまま信じてはいけない。信じるのではなく、たったいま目を閉じて、慎重に調べてみてほしい。自分の「内側」が終わり、自分の「外側」が始まる場所を本当に特定することができるだろうか? 「自分」と「それ以外のすべて」の間に、明白な境界があるということが、実際の経験によって確かめられるだろうか? それとも、そのような境界線は、実際は観念、頭の中のイメージ、絶えず変化し続ける感覚の流れ、気づきのなかに現れるストーリーにすぎないのだろうか? いまある気づきには端というものがあるだろうか? 端というものがあると考えることはできる。でも、たったいまの経験のなかで、そのような端を見つけることができるだろうか?

このウェブサイト (訳注: http://www.joantollifson.com/)で示されていることを、定式化したり、把握した上で自分のものにしたりすることはできない。禅、アドヴァイタ、ゾクチェン、タオイズム、瞑想的な探究、今の力、存在-気づき、原理的な非二元論など、生きているこの活動性にはいろいろな名がつけられている。名づけるということには、それが固まったものになり、体系化され、生命のない教義になってしまうという危険がある。気がついたら、僧侶、聖典、正統な後継者、教理、聖戦、ブログ、それから正しいやり方と間違ったやり方といったものに囲まれていることになる。自分は自由思想の持ち主で反権威主義だと思っている人もいるかもしれないが、教条主義や原理主義や権威主義に向かいがちなこの傾向は、とてもとらえづらいものになりえるし、気がつかない間に作用していることがある。そのような傾向が「どこか別のところ」にあることを認識するのは簡単だ。だが、自分にそのような傾向があるのを認めることは簡単ではない。不確実さや不安定さと向き合ったとき、人は答えや安心を求めるものだ。そのことは、簡単に何かを信じるという態度に変わり得るし、そうした信念との同一化も起こりえるし、さらに命をかけてその信念を守る (実際に、あるいは比喩的な意味で) ということもありえる。信じるということの裏には、つねに疑いがある。疑うことができることすべてを手放し、なにが残るか見てみよう。疑いを超越したものは、維持するために何の努力も必要としない。

きわめて複雑で抽象的な方法でものごとを考えることができるという能力は、私たちにとって最高の才能であると同時に、苦しみの最大の原因だ。荒野にいるときであれば、ある種の反応や行動はまったく当たり前のものであるかもしれない。だが、精神的な領域にまでそうした反応や行動を適用すると、それが役に立たなかったり、有害になったりすることはよくある。たとえば、誰かに侮辱されたとき、人は虎に攻撃されたときのように反応する。あるいは、悟りを求めているとき、食べ物や寝場所を探すときのように「どこかにある」ものとして探してしまう。その結果、不安、憂鬱、不眠症、世界的な戦争状態がもたらされる。目覚めるということは、幻想の正体を見抜くこと、現実にあるものと想像上のものとの違うを認識することであると言える。目覚めるということは、二度と思考しないとか、概念的な地図をすべて捨てるということではない。目覚めるというのは、地図と土地の違いを認識できる (いまこの瞬間に) ということだ。この認識は、より微妙なレベルに入っていき、洗練されていく。

思考は敵ではない。実用的なことがらについて言えば、思考には意味がある。思考は素晴らしい道具だ。だが、多くの思考は、おそらくほとんどの思考はそうだが、実用的なこととは関係ないものだ。多くの思考は、習慣的に車輪が回っているようなものであり、頭のなかの幻を追いかけ、幽霊と闘い、夢にとりつかれている。そうした思考が役に立つことはまったくなく、人が望むような満足をもたらすこともない。そのプロセスをほんとうに見てみれば、それがいかに嫌なものであるかということ、そして、それなのに抑えることができないということがわかるだろう。このことは、依存症にとてもよく似ている。というよりも、こうした思考こそが、私たちの根源的な依存症なのだと言ってもいい。それから、こうした強迫的な思考のすべてが、なんらかのかたちで、架空の存在である「自分」を中心にしているということにも気づくかもしれない。たとえば、「自分」を評価する思考、「自分」を批判する思考、「自分」(あるいは自分が同一化している様々な集団) を幸せに安全に力強く、または悟っている存在にしようとする思考などだ。目覚めるということは、自分というストーリーの結末を満足できるものにする、ということではない。ストーリーの正体を見破るということだ。目覚めるとは、ストーリーが気づきの無限の広がりのなかで現れたり消えたりするものだということを認識することだ。ストーリーは儚く、実体がなく、断続的で、つかの間のものだ。目覚めるということは、自分の名前や自分の人生を思い出せないということではないし、自分が個人として存在しているという感覚をすべて失うことでもない。目覚めとは、そうしたことすべてが気づきのなかに一時的に現れるものであり、夢の世界のなかの劇のようなものにすぎないということに気づくことなのだ。

== 翻訳は以上 ==

その3へ続く

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