あることのシンプルさ (1) ジョーン・トリフソン

 
ジョーン・トリフソンのウェブサイトにある文章を翻訳して紹介するシリーズ。The Simplicity of What Is
 という文章を、何度かに分けて紹介したい。ジョーンの文章で繰り返し現れるメッセージが、ここには詰まっている。

The Simplicity of What Is


== 以下、翻訳 ==

生とはいったいなんだろう? 生にはなにか意味があるのだろうか? 幸福や解放はどこで見つかるのだろう? 私たちには自由意志があるのだろうか? 悟りとはなんだろう、そしてどうしたら悟れるのだろうか? 憂鬱、不安、強迫的な行動、戦争、大量虐殺、敵対感情から解放されるために、できることはあるのだろうか? スピリチュアルとはなんだろう? (逆に、スピリチュアルでないものとは?) 死んだらどうなるのだろう?

思考するマインドは、疑問に対する答えを見つけようとする。どのバスに乗ればいいかとか、どうしたら家が建てられるのかといったことに関してなら、答えを見つけるという能力は役に立つものとなる。だが、いつ思考を止めればいいのか、あるいは、どんなときなら思考が役立って、どんなときは役立たないのか、ということについては、思考するマインドは無知だ。人は、成長していくにつれて、観念の世界のなかで生きることが多くなっていく。思考によって幸福を見出そうとしながらだ。そして、こどものときにはあったような、直接性や好奇心の感覚は失われていく。

私が小さいとき、母がバケツ一杯の水と塗装用のはけを私に貸してくれることがあった。それを使って、私は歩道に絵を描いた。歩道に水でいろいろな絵を描くと、数分の間に絵は消えてしまった。でも消えることは気にならなかった。というのは、描くということそれ自体が純粋に歓びだったからだ。褒美も、賞賛されることも、絵がずっとそこにあることも望んではいなかった。描くということは、それ自体で完結していたのだ。

後になって美術を学んでいたころ、私は自分が絵を描くことにどんな意味があるのだろうか、ということを真剣に思い悩んでいた。レオナルド・ダ・ビンチやピカソのような天才ではなく、完璧でもない自分が絵を描くということに、なにか価値はあるのだろうかと。こどもなら、誰にでも、楽しい遊びの感覚や好奇心が自然に備わっていて、存在しているということそれ自体を楽しめるものだ。だが、自分も何かを成し遂げたいという思いや、「自分」を成功している人間に作り替えたいという思いによって、その感覚が当時は覆い隠されてしまっていた。

スピリチュアルなことというのは、本来は、自分というストーリーから目覚めるということにかんすることであるはずだ。だが、スピリチュアルなことに関心を持つようになった人たちによく起こるのは、ストーリーから目覚めるかわりに、それまでのストーリーを新しいものに作り替えるということに夢中になるということだ。関心の焦点が、自分がいかに目覚めているか、自分はどれほど上手に瞑想できているか、自分は悟っているかどうか、ということに変わる。面白いのは、その関心の中心にある自分というものが、じつは一種の蜃気楼あるいは頭の中のイメージ、思考と想像が創りだした映画のストーリーのなかに現れる中心人物にすぎないということだ。その自分は、本当はまったく存在していないのだ。

どうしたら、そのことに気づけるのだろうか? この頭の中のイメージ、思考のなかの自失状態から目覚めることはできるのだろうか? 目覚めるとしたら、なにが目覚めるのだろうか? 「自分」が目覚めるのだろうか? それとも、なにか他のものが目覚める?

そうなると、すぐに思考するマインドが動き出して、答えを探し始める。答えを持っていそうな権威を探しだして、彼らの意見を受け入れる。与えられた観念や解釈にしがみついて、より好ましい体験やより大きな体験を求めることになるのだ。

***

解放は、答えを手にするということとも、なんらかの経験をするということとも違う。特定の信念とも関係がない。そうではなく、信念がないということ (あるいは信念の正体を見抜くこと) なのだ。目覚めるということは、過去にも未来にも起こらない。起こるのは〈今〉だけだ。解放や悟りは、人が見つけることができるようなものではないし、新しいクルマを買うようなこととは違う。エクスタシーやLSDでハイになった感覚がずっと続いているような、めくるめく経験でも風変わりな経験でもない。解放とは、観念的な思考がつくりだす、遍在している作り事や蜃気楼の正体を見破るということだ。解放されないといけないと信じられている、その人というものが存在しているという観念全体の正体を見抜くということだ。

〈究極のリアリティ〉は、私たちの目の前に隠されているが、あからさまにその姿を見せている。それは、朝食の料理、洗濯物、日光、葉、犬の吠える声、道や雨の音、コンピューターがうなる音、紅茶の味、こうした言葉の輪郭、そしてすべてとして存在している気づき、すべてを見守っている気づきとして、現れている。「気づき」と「紅茶の味」が別々のものであるように見えるのは、こうしたことすべてを言葉で表現しようとするときだけだ。この、呼吸し聴き見て気づき存在するという、観念を離れた現実性は、分けられておらず、そこには中心も周辺もない。内側も外側もない。主体も対象もない。ただこれ、ありのままのそれがあるだけだ。

そこでたぶんこんな思考が現れるだろう。「生には、もっとなにか意味があるはずだ」、「生の意味とはなんだろう?」、「最終的な悟りについてはどうなるんだ?」、「これらすべてはただの見かけの顕現で、単なる幻想なのでは?」など。思考は架空の問題を作りあげ、それからそれを解決しようとする。複雑にできている人間の脳には驚くべき能力がある。概念化したり、想像したり、思い出したり、計画したり、さらに実際には存在していないものについて考えるといった能力だ。だが、そうした思考さえ、〈一なるもの〉、分割されていない境界をもたない〈全体〉が、夢のような一時的な形として現れたものであるにすぎない。

生じる知覚は絶えず変化し続けるが、思考はそれにレッテルを貼り、分類し、評価し、具体化されたものとして考える。概念的な思考によって、実体があって持続する独立したもの (「自分」や「あなた」もそこに含まれる) という催眠性の蜃気楼のような幻想がつくりだされる。二元性と分離という幻想だ。思考は、「私」というものが、時間のなかで展開される旅の途上にある分離した人格なんだと想像する。そして、目標や、成功と失敗の物語をひねり出す。それにとどまらず、思考は、「自分」を消そうとすることに人生を真剣に捧げているスピリチュアルな人という「自分」というイメージさえもつくりだす。だが、もし思考がなければ、「自分」はどこに見つかるだろうか? 実際、私とはなんだろう?


***

私たちは平安や幸福を求めているが (それは、より表面的なかたちをとる、あらゆる欲求の根底にある切望だ) 、平安や幸福が、どんな答えによっても、どこに到達しても、何を経験したとしても、見つからない可能性、満たされない可能性はあるだろうか? 平安や幸福を「外」で見つけようとすることそれ自体こそが、私たちが探しているものは実は〈ここ・今〉の本質なのだということを、見えなくさせている原因だということはありえるだろうか?

では、〈ここ・今〉の本質とはなんだろうか?

それは、概念的に把握することができるようなものではない。それに、ある特定の経験でもない (他の経験に対してという意味で) 。〈ここ・今〉の本質とは、この瞬間の存在性、無背景性、あるということだ。この、どのようにも疑うことのできないものとして紛れもなく存在するこれ、なんの証拠も信念も要らないこれ、否定することができないこれだ。把握しようとしたり、探したり、特定の経験を求めたりする以前も、その後も、そしてその最中も、ずっと存在しているこれだ。存在性、無背景性、あるということといった言葉は、ただ指し示しているにすぎない。そうした言葉が指し示しているものを、対象としてつかむことはできない。というよりも、実体のある対象というものは本当に存在していないのだ。すべては、どんな意味においても、流れだからだ。この、どんなものもないこと (あるいは、空性) だけが、存在しているものだと言える。

そしてこのどんなものもないということは、生き生きとしていて、気づいていて、自覚していて、目覚めていて、そしてある。把握すること、探すこと、考えることは、存在の全体性や、存在-気づきの広大さを壊すものであるように見えるかもしれない。だが、気づきや現在の瞬間や存在性を本当の意味で壊すことができるものなどあるだろうか? すべては、〈ここ・今〉に、気づきのなかに現れているのではないだろうか? すべては、一緒に同時に、多様で継ぎ目のない一なる全体として現れているのではないだろうか?

***

概念的な思考は (見かけの上で) 、それを分割する。分割も、分離も、本当には決して起こっていないのは当然だ。分割や分離は、思考や想像のなかにしか存在していない。だが、それが思考や想像であるということが認識されていない場合、それを真実であると思い込んだり真に受けたりした場合は、苦しみが生じる。禅とアドヴァイタは、要するに、この催眠と苦しみから目覚めるということに関するものなのだ。だが、誤解してはいけない。目覚めるのは「あなた」ではないし、あなたが「目覚めた人」になるわけでもない。それは迷妄にすぎない。迷妄から目覚めないといけない人が存在しているという観念こそが、迷妄のひとつなのだ! 囚われという問題は、思考の創りだした映画という想像の世界にしか存在していない。その問題は、蜃気楼のようなものなのだ。本当に存在しているものは、存在していないということがない。そして、そのことを覆い隠しているように見えるものは、本当の意味では決して存在していないのだ。

このひとつの永遠の現在の瞬間という現実を、とらえることができるような言葉はない。そのことについていろいろな方法で話すことはできるし、指し示すこともできる。だが、現実について何を言ったとしても、それが現実そのものであることはない。それを聞いて、「それはそうだろう」と頷くかもしれない。それでも、私たちはいつも、土地そのものと地図を取り違えたり、実際のものと概念を取り違えたりしてしまう。そうなると、空想上のジレンマをめぐる終わりのない議論や、混乱に巻き込まれることになる。空想上のジレンマというのは、自由意志はあるのかないのか、スピリチュアルな実践をする意味はあるのかないのか、世界は本当に存在していてそれなりに対処しなければならないのか、それとも世界は夢のような幻想だから無視するのがいちばんいいのか、といったようなことだ。マインドはぐるぐると堂々巡りをするだけで、結論にいたることはない。現実を概念でつかむことはできない (自由意志がある、自由意志はない、自己はある、自己はない、こうだ、ああだ等)。どのように言い表したとしても、それが正確であることはない。言葉も概念も、非の打ち所がなく完璧だということはありえない。自転車の乗り方を覚えることはできない、なぜなら、覚えることができたりするような個人というものは存在していないし、自由意志もないからだ、と言う人がもしいたら、それは自分自身を無力なものにする愚かな考えだ。それでも、誰が、あるいは何が自転車に乗っているのかということ、誰がそうすることを「選んでいる」のかということを注意深く探ってみると、そこには何もなく誰もいないことがわかるだろう。そして、この自転車に乗るということを「あなた」が実際どのようにやっているのかを説明することができないということも、わかるだろう。

こうしたことについて、永久に議論することもできる。乗っているのは誰か、乗る人は自分で乗るかどうかを決めることができるのか、指示や練習は必要か、あるいは邪魔か、というようなことをだ。それに、自転車の機構や自転車に乗るという仕組みについて話すこともできるし、過去の偉大な自転車選手の物語を語ることもできる。だが、結局のところ、どれだけ話したとしても、どれだけ指示したとしても、どうしたら自転車に乗れるかということはわからないし、自転車に乗るということがどんな感じなのかはわからない。話すことも、読むことも、他の人が乗るのを見ることも、誰が上手に乗っているかについて議論することも、ただ自転車に乗るということとは違う。もちろん、悟りは自転車に乗ることとまったく同じではない。だが、自転車と同じように、実際どうかということが問題なのだ。土地そのものが問題であって、地図が問題なのではない。悟り (もしくは覚醒や解放) について話をしたり、悟りについて考えたり、想像したり、未来に起こるものとして望んだりすることは、すべて地図に関することだ。だが、悟りは土地そのものであり、〈ここ・今〉にあるものであり、絶えずあって、絶えず変化し続けている。もちろん、これは逆説的に聞こえるかもしれないが、地図でさえも (地図として使われるときでも) 実際には土地だ。それは、どんな夢にも、どんな幻想の中でも、なにかが存在しているのと同じだ。本当に存在しているものとはなんだろうか? この現実からは、逃げることもできないし、この現実を避けることはできない。この現実はまったく単純で、直接的で、失うということが不可能なものなのだ。

== 翻訳は以上 ==

その2へ続く

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