グレッグ・グッドのインタビュー 2011年 (4)

 
グレッグ・グッドのインタビューの翻訳の続きで、最後となるパート4。(その1その2その3)

原文 GREG GOODE – Interview with non duality magazine. July 2011

== 以下、翻訳 ==

Q. あなた自身の場合、「観照の崩壊」はどのように起こったのでしょうか? なぜ起こったんだと考えていますか?

A. そうですね。私が観照の崩壊と呼んでいるのは、主体と対象 (客体) という構造が完全に解消することです。見られているという感覚と、見ているという感覚が完全に消えてしまうこと、なにかが現れているという感覚が完全に落ちてしまうことです。

「ゾーン」体験とか、「日没」体験 (訳注: 日没に夢中になり、自分がいるという感覚がないこと)、オーガズム、あるいは拡張したいわゆる大洋的な感覚のように、主体と対象の区分が一時的にあいまいになることがあります。そうした経験は、「崩壊」という言葉によって私が表現していることではありません。そのような一時的な現象は、よくあることです。そのような経験は、生じたとしても、必ず終わります。それは、ここでいう「崩壊」とは違うんです。

私の場合、きわめてしっかりと高次の観照に確立するということをとおして、崩壊が起こりました。その頃、それと同時に、観照という問題それ自体のなかに、素晴らしい気持ちよさと優しさと共に浸されていたんです。観照はとても甘美なもので、そこでは実体は感じられていませんでした。でも、経験が完全に非二元的であるようにも感じていませんでした。この観照ということに関する疑問を解くことによって、何かを得ようとしていたわけではありません。ただ、光に引き寄せられるように、その問題に没頭していました。観照について探究することは、とかげが温かい岩の上にひっついているようなものでした。結果として、穏やかに、歓びとともに、観照は解消しました。

この探究は必ずしも必要であるわけではありません。というのは、観照の崩壊はそれ自体で勝手に起こるからです。

Q. 自分は気づきであるということは知っているけれども、世界を二元的にか認識できない人たちがいます。そうした人たち全員に、この観照の崩壊が起こるとは限りません。それは、なぜだと思いますか?

A. 観照の崩壊が起こらないのはなぜか、ですか? 観照が確立されていないということが、大きな理由です。観照が確立されていないと、崩壊が起こることはありません。観照が確立されていない状態というのは、微妙なところではあるのですが、対象や機能や構造が、客観的に存在しているように感じられている状態です。因果関係、記憶、時間、空間、参照といったようなことが存在しているように感じられているという状態です。観照それ自体が、そうしたもので構成されているように感じられていることさえあるでしょう。この点は、きわめてとらえづらく、つかみどころがありません。たとえば、こういうような点があります。観照は、現れすべてを覚えているだろうか? 観照は、現れの一定のパターンだけを示し、他のパターンを示さないということがあるだろうか? 観照が、少しくらいはなんらかの現れを生じさせることはあるだろうか?

観照が、このようなことのいずれかをしているように感じられるとしたら、観照の「中」で、あるいは観照の「背後」で、何かが起こっているということになります。そのように感じられる場合は、観照が透明になっていない、あるいは純粋になっていないということです。その場合、何かにしがみつくとか、つかもうとするとか、ある一定の経験を他の経験よりも好ましく感じるということが、まだ続いているということなんです。

ですが、こうした微妙なかたちで認識されている対象が、いずれも、気づきのなかに現れる、自力では動くことのできない、形をもたない現れにすぎないということが認識されることがあります。それが、高次の観照の始まりです。そうなると、観照の崩壊は自然に起こるでしょう。

Q. 観照が崩壊するまで、どのくらいの期間、観照を確立していたんでしょうか?

A. 1年半ほどです。

Q. あなた自身は、ダイレクトパスをとおして観照を確立させたのでしょうか、それとも瞑想など、他の方法をとったんですか?

A. ダイレクトパスをとおしてではありません。現代の探求者なら触れることがあるような、いろいろな道をとおして始まりました。キリスト教正統派、西洋と東洋の神秘主義、瞑想、カルマ・ヨーガ、ラジャ・ヨーガ、バクティ・ヨーガ、ジニャーニ・ヨーガ、正統派のアドヴァイタ・ヴェーダーンタなどです。そうしたことを学んだ当時、私は「非二元」ということは聞いたこともありませんでした。私が関心をもっていたのは、そもそもひとつのことだけです。仕事場にいないときや、忙しくないときは、いつもこのことについて考えていたんです。

それは、「人のアイデンティティというものは、どこに存在しているのだろうか? 自分が誰であるか、自分が何であるか、ということを決めるのは何だろうか? それは身体やマインドや微細な領域の中にあるようなものなのだろうか?」ということでした。

いろいろな道で学んだ結果、自分のアイデンティティがどこかにあるとしたら、どこにあるだろうかということについて、自分の考えを絞ることができました。こうした教えを案内として使うことで、考えられるかぎりすべての物理的、精神的、直感的、そして微細なプロセスについて考察しました。輪廻転生のさまざまな教えも考察したんです。というのは、同一の魂の流れのなかで、生と生の間に人のアイデンティティがどこにいくかということについて、輪廻転生の教えでは明確に概念化されていたからです。どんな考え方も拒みませんでした。でも、「自分」と関係あるように感じられるものはひとつもありませんでした。たった一つだけ残っていたものがありました。これは正しいと感じられるもの、「自分の居場所」だと感じられるものです。それは何かと言えば、選択と決定のプロセスです。自分のアイデンティティは選択の主体であって、自分というものはたぶん選択のプロセスの内側深くに潜んでいるのだろうと、考えたんです。

それで、私はその点についてものすごく細かく探りました。この点について、本当に強烈に好奇心をもっていたんです。規律に基づいた修行のようなものとして探究したわけではありません。どちらかと言えば、素敵な秘密のミステリーが自分を誘っているような感じでした。風変わりなやり方で、家に戻ってこいと呼ばれているような感じがありました。

その後、ラメッシ・バルセカールの著書Consciousness Speaks (意識は語る、邦訳未) に出会いました。1996年のことです。本当の意味での行為者は存在していないし、行為者性もない、ということについて、この本はきわめて明確に指摘していました。そのような見方をしたことは一度もありませんでした。最も効果的に、ひらめきがもたらされたということになります。というのは、「自分」を形作っているものとして、他に考えられる候補は、それまでにすべて却下していたからです。私のアイデンティティ (誰のアイデンティティであっても) という砂上の楼閣は、崩れ落ちました。アイデンティティを収容できるような現象的な候補は、どこにも何も残っていませんでした。そして理解できました。自分も世界も気づきのなかに現れる見かけ、あるいは現れだということ、そして、その現れは誰のものでもなく、個人間で起こることでもないということが。

私にとっては、これがアイデンティティの探究の終わりでした。でも、微妙な意味では二元性が終わったわけではありませんでした。つまり、気づきと見かけの間には区別が感じられていましたし、一連の見かけが、時間の流れと共に展開するという印象が微妙に残っていたんです。

それで、その問題について考え始めました。とても快い探究でした。シュリ・アートマナンダの教えに出会ったときに、このような状態に「観照」という名前がつけられていることを知ったんです。

Q. この観照の崩壊が起こったとき、エネルギー的な現象というものはあったのでしょうか? なにか特別なことは起こりましたか?

A. 崩壊はふいに起こりました。自己と他者の間の分離も、客観性というものも、そのすべてがでっちあげだということを、完全に認識したときに起こったんです。観照ですら、でっちあげだったんです。親切に見せかけてはいますが、信用詐欺のようなものです。

観照は、もともと不安定なものです。確かに、あらゆるものが分離しているという主張が嘘であることを、観照によって見抜くことができるというのは事実です。でも、この認識が可能になるのは、観照が、これは非常にとらえづらいことですが、まったく同じように分離をつくりだすからなんです。

そのことがわかったとき、信用詐欺が明らかになりました。それはあたかも、見るものと見られるものとの間の「隔たり」が意識に変わったという感じでした。

一瞬のうちに、観照とそれに対して現れる現れという構造が分解してしまいました。エネルギー的な現象はありました。火花か熱の流れが指から心臓に流れ込み、それが頭のてっぺんから飛び出すという感覚です。

そのエネルギーの流れは90分ほど続いてから落ち着いて、そして消えました。その後も、分離が戻ることはありませんでした。観照という形態には他の二元性もつきまとっていました。たとえば、「これ・・・これ・・・これ」という感覚や、現れては消えていくという感覚、そして何かがあってそれが見られているというような感覚です。こうした感覚も消えてしまい、二度と戻りませんでした。そのどれもが永久に消えてしまいました。

Q. シュリ・アートマナンダは、観照の状態で安定しさえすれば、解脱のためにはそれで十分だと言っていたように思いますが? 過去世の影響はどうなるのでしょうか? そういうものが残っていても、輪廻から脱することはできるのでしょうか? 否定的な心の傾向の影響下にあるような状態であっても、解脱はできるのでしょうか?

A. たしかに、シュリ・アートマナンダは、解脱のためには観照だけで十分だと何度か言っています。著作権の問題のために、シュリ・アートマナンダの言葉を直接引用することはできませんが、シュリ・アートマナンダのNOTES (訳注: Notes on Spiritual Discourses of Shri Atmananda、邦訳未) のセクション125、205、884、906、913、1283を参照してください。

Q. 観照が崩壊したら、それは探求の旅の終わりということになるのでしょうか。それともその先があるのでしょうか?

A. 観照が崩壊したとき、人は言語や、参照、「指し示し」に必要となる二元的な前提といったものから解放されます。ものごとを、対象をもたない愛や輝きとして経験するかもしれません。ですが、繰り返しになりますが、そうした言葉そのものが、ある特定の語彙に属しているんです。それはある人にとって意味があるものであるかもしれませんし、意味がないものであるかもしれません。言葉がなにかにくっついているというような感覚はなくなります。この認識においては、道というものそれ自体からも自由になります。私はこの自由を「楽しい皮肉」と呼んでいます。その点については、次に出る本 (The Direct Path)に詳しく書いています。この自由のなかでは、言葉を信じることなく言葉を使っていることに気がつくことになるでしょう。この自由は、なにかを参照するものではないんです。

そのために、「これで完了だ」とか「まだ先へ進まないといけない」ということを決めるような、スピリチュアルな指導基準を見つけることはできなくなります。

すでに自由なんです。愛と輝きによって、さらにスピリチュアルな活動を続けたいと思うことになるかもしれません。あるいは、そうは感じないかもしれません。ある種の安定化ということについて語っている人たちもいます。認識されたことにしたがって、マインドと身体が再調整されるということです。ヨーガに惹きつけられる人たちもいるでしょう。美術もそうです。他の道に進む人もいるかもしれません。でも、以前とは違う点があります。それは、「苦しみがなくなったらいいのに」という苦悩に満ちたきつい感覚からこうした行為をしているのではなく、そうした活動と共に自由に流れているということです。音楽や詩や祭りと同じです。すべてが快く素敵に感じられ、どんな規律にも縛られることはありません。

Q. キリスト教正統派、カルマ・ヨーガ、ラジャ・ヨーガ、バクティ・ヨーガ、瞑想、正統派のアドヴァイタ、西洋と東洋の神秘主義、それから何年にも渡る探究といったことに関わらなくても、ダイレクトパスに取り組むだけで、あなたと同じような成果を手にするということは可能だと思いますか?

A. そうしたいろいろなことを、いわゆる「前提条件」のための準備だというふうに考えることもできると思います。「同じような成果」ということについての質問ですが、「成果」というのがどういう意味かによって、答えは違います。私が感じているような、キリスト教や正統派のアドヴァイタ・ヴェーダーンタに対する共鳴も、成果のうちということですか? それも「成果」のひとつに数えますか? そうしたことは単に私の経歴です。他の人たちは私とは違うでしょう。そうした正統的で伝統的な道は逆効果で、くだらない宗教に夢中になっているだけだと思う人たちもいます。

でも、もし「成果」という言葉が、私のように遠回りの道を通ることなく、ダイレクトパスの助けを借りて心の平安を見出すということを意味しているのであれば、答えははっきりとイエスです。そうでない理由などありません。

Q. あなたが言っていたような、分離がない一体性というものを垣間見る体験をした人たちはたくさんいます。たとえば、ハリウッド俳優のジム・キャリーは、一瞥の体験について、それがどれほど儚いものかということ、そして、再び体験したいということを語っています。(こちらの動画参照)

こういう人たちにどんなアドバイスをしますか? 彼のような人たちは、ダイレクトパスには向いているでしょうか?

A. この動画のなかでジム・キャリーが語っているのは、非二元の世界ではよく知られている現象です。「とんぼ返り」と呼ばれます。広がっている感覚を感じて、それからその感覚が消えるんです。この点を考えるにあたっては、ダイレクトパスはきわめて役に立ちます。ダイレクトパスには、微妙なレベルを扱う「高次の理性」という道具があり、それによって自分の本質の真実と、ニアミス体験の違いを識別することができます。拡張された広がりの感覚は現れては消えていくものであり、それは真実ではないということ、真実はそのようなものではなく、このような感覚が現れる無限の透明さこそが真実なのだ、ということがダイレクトパスによって容易に認識できます。

Q. いま執筆中の新しい本について教えてください。

A. 今年(2011年)の秋にNon-Duality Pressから出版される予定の本は、The Direct Path: A User Guide (ダイレクトパス – 取扱説明書) という名前です (訳注: Non-Duality Pressより発行済み。邦訳未) 。オライリーのThe Missing Manualシリーズのような感じの本になります。自己探究に取り組んではいるものの、その途中のいろいろな段階でつっかかっているという人のための実用的な案内です。どういう段階で立ち止まってしまうかと言えば、たとえばこんな点です。

・観照が「起こる」けれども、それが消えてしまうのはなぜだろう?
・すべてが気づきだということがありえるだろうか?
・気づきの外側に、経験されていないものがあるのでは?
・「自分は身体ではない」という洞察が、身体の痛みによって消えてしまった
・意識は自分にどんな未来を用意してくれているんだろう?
・なぜ私の状態は他の人と比べて深くなく、不安定なんだろう?
・なぜ教えによって言うことが違うのだろう? 整合させられないのだろうか?

こうした点や、洞察が必要となるような微妙な点が、新しい本の中では詳しく扱われています。実験も紹介されています。実験をすることで、経験というものがつねに最初から気づきの甘美さでしかなかったということが、きわめて直接的に示されます。それから、ここで話しているようなこと自体も、言い過ぎなんだということが、本を読めばわかりますよ!

==翻訳は以上 ==

インタビューは以上で終わりだ。パート3では、因果関係というものは本当はない、と断言しておきながら、このパート4では、観照に確立するということがなければ観照の崩壊は起こりません、と因果関係があるように聞こえることを言っている。本当に自由というしかない。

このインタビューで触れられている著書Standing as Awareness (気づきとして存在すること) については、その邦訳がナチュラルスピリット社から発行される予定になっている。

二冊目のThe Direct Pathは、かなりボリュームもあり、マニア向けという感じもする。Standing as Awareness (および、同じく邦訳が刊行される予定のルパート・スパイラのPresence) だけで十分以上に足りていると感じる人がほとんどになるだろう。

だが、アートマナンダの教えを、わかりやすい実験や解説と共にかみ砕いて教えているという意味では、The Direct Pathがこれまでになかった稀有な書物であるということは言える。

広告