グレッグ・グッドのインタビュー 2011年 (2)

 
グレッグ・グッドのインタビューの翻訳の続きで、パート2。(その1はこちら)

GREG GOODE – Interview with non duality magazine. July 2011

== 以下、翻訳 ==

Q. シュリ・アートマナンダの信奉者であるアーナンダ・ウッド氏は、ダイレクトパスに取り組みはじめるタイミングについて、次のようなとても興味深いことを言っていました。

「早い段階で飛び込むのは、容易なことではありません。飛び込むのが早すぎるというのは、サーダカ (生徒) に純粋でない部分が残っているという意味です。真理を求めて飛び込んだとしても、不安定に後退し続けることになります。自己中心的な心の傾向にはかなわないわけです。真理に取り組むことに努力して戻りつづけなければなりません。その苦労は、自己本位な傾向が完全になくなり、本来の自然な状態に確立するまで続きます。準備ができてから取り組む方が容易です。人格が浄化されているため、自然な状態に確立するために必要となる修行がほとんどない、あるいはまったく不要な状態です。ただし、取り組むのは準備ができてからだということで、自分の人格をそのために適したものにしようとすることには落とし穴があります。どういうことかと言えば、ある程度の進歩があると、生徒がそうした進歩に夢中になってしまうということです。それは、囚人が黄金でできた鎖に夢中になってしまって、囚われたままになることと同じです」

このことについて、どのように考えますか? それから、いつ取り組みはじめるのが適切なのかということについては、どうしたらわかるのでしょうか? いつ取り組みはじめるかは、教師やグルが判断すべきことでしょうか、それとも生徒が自分で決めるべきでしょうか?

A. 真理を求めていつ飛び込むべきかが、あらかじめわかったと思っても、それが正しいかどうかの保証はありません。いつが適切な時期なのかを事前に知る方法はないんです。それに、そのことについて指導されたとしても、従うかどうかは別問題です。誰かに「ぜーったいに、今飛び込んだらダメだ! お前にはまだ早すぎるぞ!」と言われたとしたとしましょう。そんなことを言われたら、すぐに飛び込みたくなるのがおちです。

本気でダイレクトパスに取りかかるということについて言えば、取りかかるときが、取りかかるときです。誰でも受け入れられます。取りかかり始めた後でも、心の傾向や他の問題に同時に取り組むことは、問題ありません。ダイレクトパスは、そのくらい寛大な道です。

私に何ができるか、ということはどうでしょう。 ダイレクトパスに関心をもって、取り組んでみたいという人たちはいます。彼らが何を求めているか聞いてみたり、ちょっと話をしてみたりすると、そもそもそういう人たちが解放を求めているわけではない、ということがわかります。彼らが求めているのは、「人間的なこと、あまりに人間的なこと」なんです。ですから、私はそういう人たちに対しては、他の方法を教えたり、もしくは適切だと思われる他の人たちや他の分野を紹介したりしています。学びたいという人たちが自分自身で決める力を奪うことは、決してできません。

Q. では、もし解放を本当に望んでいる人がいて、ダイレクトパスのプロセスが始まったとしたら、どんなことをすることになるのでしょうか? このプロセスはどのくらい続くものなのでしょう? あなたに直接会う必要はありますか? 一対一がいいのでしょうか、それともワークショップのような感じの大きなグループという環境で行うのがいいのでしょうか?

A. ダイレクトパスでは、経験に基づいてあらゆることを調べるということが行われます。経験にはいろいろな側面がありますが、どの側面も外すことはできないからです。一見すると客観的に存在しているように感じられる、世界、身体、マインドについて探ります。愛、甘美さ、オープンさ、寛容さ、思いやりが育まれます。 どのくらいの時間がかかるかについては、終わるまで、というしかありません。事前に予測することはできません。ものすごく頭がよくていろいろな経験も積んでいる人がいたのですが、彼はひとつの質問に本当にじっくりと取り組んで、それだけに一年をかけました。急ぐ必要はないんです。というのは、気づきとして存在するということから始めているからです。自分を置いて列車が出発してしまった!というように感じることはないでしょう。

以前は、マンハッタンにある自分のオフィスでいろいろな人と直接会っていました。でも、この一年は、文章を書き続けていました。個人的なコンサルティングを再開する予定はあります。それと、グループ・ミーティングもするかもしれません。「授業」の形式がだんだん受け入れられてきているように思います。そういう形式は、10年前なら一種のタブーでした。授業形式はいいやり方です。それから、デジタルの形態もいろいろありますね。私自身はまだ試してはいませんが。

Q. グループでの授業形式はなぜタブーになっていたんでしょうか?

A. なぜタブーだったかですか? 本や授業はマインドを使いすぎるという考え方があったからです。サットサンであれば、回り道なしで、変な濾過作用を通すこともなく、直接自己へと導かれるとされていたんです。授業はメニューで、サットサンは実際の食事だというわけです。授業では真理に関する話が語られ、サットサンの先生は真理そのものを伝える、という考え方です。

これは、西洋バージョンのアドヴァイタではよく見られる考え方です。でもインドでは、教科書を使って教える授業という形態は、何世紀にも渡ってうまくいっています。そうした形態をサットサン (サットサンガ) と呼ぶこともありますよ!

このことには、また別の皮肉があります。よくよく見てみると、西洋式のサットサンも、実は教科書に基づくものになっているんです。サットサンの先生が発する言葉が、合図として働くことによって、教科書になっています。それに、お互いの目をずっと見続けるということ、それからハグをすることも教科書として作用します。書かれた言葉の行間には沈黙がありますが、語られる言葉の間にも沈黙があります。どちらの形態も、同じように、直接的であることもあるし、間接的であることもあります。どちらも場合も、合図を使って伝えています。

Q. そのタブーを破るときとして、今はいいタイミングだと思いますか?

A. ええ。今がタブーを破るべきときでしょう!

Q. サットサンについてですが、最近、道は存在していないということを言う、西洋の先生たちがいます。すべきことは何もなく、瞑想もどんな方法も技法も、探求者の分離を強化するだけだと彼らは言います。なんらかの手法を使って探求を続けるよりも、探求を放棄して何もしない方がいいのでしょうか?

A. あなたの質問は、探求を放棄して何もしないことを選ぶ方がいいのか、それとも、いろいろな方法に取り組み続ける方がいいのか、ということですね。それはすでに十分に論じられていることです。

探求のための手法を伝える一千年前から続く伝統があり、一方では、そういうやり方は問題を悪化させるだけだと主張する、40年か50年前からの考え方があります。どうすべきか、というのが質問なのであれば、それに対する実際的な答えは、こうした異なる考え方にかんする多くの微妙な問題について気にする必要はない、ということになります。心からわかりたいと望んでいるのであれば、両方の方法を試してみて、どうなるのか見てみればいいんです。

Q. ダイレクトパスの話題に戻ります。シュリ・アートマナンダが示したやり方のなかに、誰でも経験している日常的な経験について探究するというものがあります。アートマナンダは、深い睡眠は「究極への鍵」であるとみなしていました。生徒に準備ができていて、深い睡眠について真剣に考え、探ることができれば、それだけで十分だと言っていました。ニルヴィカルパ・サマーディを経験する必要もなければ、ニルヴィカルパ・サマーディの実現を目指して何年も修行を続ける必要もないのだと。

もしそれが本当なのであれば、ヨーガをする意味、ニルヴィカルパ・サマーディを達成する意味はどこにあるのでしょうか? ヨーガの究極的な目標である解脱 (解放) は、ニルヴィカルパ・サマーディを経験することによってもたらされるわけではないのでしょうか?

深い睡眠とニルヴィカルパ・サマーディの間には違いがあると思いますか?

A. それぞれの教えが、その教えこそが最高なのだと主張するのは当然のことでしょう。ヨーガの教義には、正統なアドヴァイタ・ヴェーダーンタと共通するところがありますが、ニルヴィカルパ・サマーディのあいだには「明るさ」があり、深い睡眠のあいだには「暗さ」があるとしています。深い睡眠は、真の自己であるアートマンを覆っている暗さだというのです。

ですが、ダイレクトパスでは、どんな対象も状態も、観照する気づきに対する一時的な現れだとしています。となると、どんな対象も現れておらず、ただ対象のない気づきだけがある瞬間についてはどうでしょうか? ダイレクトパスでは、それこそがまさに深い睡眠であり、ニルヴィカルパ・サマーディであるとされます。一方は夜中に起こることであり、もう一方は瞑想中に起こることです。自己探究をする人にとっては、深い睡眠のほうが達成しやすいでしょうね!

深い睡眠やニルヴィカルパ・サマーディのような時間の意味は、そのあいだに、自分というものは世界に存在している対象でもなく、身体でもなく、マインドでもない、ということが経験されるということです。どうしてそうなのでしょうか? それは、対象がまったく存在していないときでも、あなたは「私」として存在しているからです。このことによって、あなたというものは実は気づきであり、そこに対象が現れるのだ、ということが経験的に確かめられます。

となると、自己の視点からすると、この深い睡眠というある種の暗い覆いあるいはベールというものも、ある意味での属性あるいは対象ということになるのではないでしょうか? 自己には属性がない (ニルグナ) のではなかったですか?

Q. そういう考え方、もしくは深い睡眠を探究するということは、ヨーガ・ニドラ (Yoga Nidra, 深い睡眠状態に意識的に気づいていること) に端を発するのではないでしょうか? マーンドゥーキヤ・ウパニシャッドに書かれているヨーガ・ニドラです。

シュリ・アートマナンダの教えを記録した本のなかに、こうあります。

「マインドの活動が激しくなると、熱が生じる。それにより、深い睡眠に入れなくなる。冷たさは、その強さが増すことで、目を覚ますものになる。深い睡眠は、幸福と平安の感覚をもたらすものだ。この幸福と平安の感覚は、マインドの活動が起こっていないときだけ生じる。深い睡眠にともなう、幸福という側面にマインドを向けると、やさしい冷たさが感じられる。このやさしい冷たさにより、睡眠時に起こりえる非実在の感覚を防ぐことができる。つまり、マインドをくつろがせ、マインドの活動を止めることによって、自分の本質にいたり、さらに、深い睡眠の際に経験される幸福と平安を見失うこともなくなる。この肯定的な側面によって、非実在と眠りという覆いによって覆われる可能性がなくなる。マインドを活動的にさせてもいけないし、同時に、マインドが停止しないということも理解しなければいけない。言い換えると、「意識的に眠れ」ということになる。そのようにすれば、自己を真の中心において確立させるために、深い睡眠を活用することができるのだ」

「意識的に眠る」という部分を読むと、アートマナンダが語っているのは、マーンドゥーキヤ・ウパニシャッドにあるヨーガ・ニドラの修行のことではないかと感じますが。

A. ヨーガ・ニドラについて話すことはできませんが、ジャン・クラインの弟子のなかに、ヨーガ・ニドラを教えている人が確かいました。ダイレクトパスとヨーガ・ニドラには関係があってもおかしくないとは思います。

Q. その弟子というのは誰のことですか?

A. リチャード・ミラーです。

Q. トリプラ・ラハシャ (Tripura Rahasya) については、どう考えますか? この書物では、三つの状態と、その三つの状態を超える神秘について触れられています。夢の状態、目覚めの状態、そして深い睡眠の状態です。

A. 簡単に言えば、ダイレクトパスのようなかたちで深い睡眠を扱う教えは、私の知る限り、他にはありません。正統的なアドヴァイタ・ヴェーダーンタでは (トリプラ・ラハシャはそれを表現したもののひとつですが) 、深い睡眠は非常にとらえづらい覆いとして扱われます。非常にとらえづらいものではありますが、覆いであることには変わりません。ダイレクトパスでは、深い睡眠は私たちの本質として扱われています。どんな対象もない、観照する気づきとしてです。

そのような違いはあるわけですが、この二つの教え方になぜそのような前提の違いがあるかということについては、理由があります。

トリプラ・ラハシャでは、マインドは覚醒が起こる場所であるとされます。正統的なアドヴァイタ・ヴェーダーンタには「アカンダ・アカラ・ヴリッティ (akhanda akara vritti)」ということについての教えがあります。これは、マインドのある種の変容のことで、それによって覚醒が起こるとされます。つまり、覚醒がマインドのなかで起こるものだとされていることは間違いありません。覚醒とはマインドの変容だというわけです。ということは、覚醒が起こるためにはマインドが活動している必要があるということになります。

ダイレクトパスは、それとは違います。生徒を鼓舞するものとして、レトリックとして覚醒ということが語られることはあります。ですが、伝記に書かれるような大層な出来事としては扱われません。まして、解釈して意見を一致させなくてはいけない対象として扱われることはないんです。覚醒という出来事は、他の出来事もそうですが、見かけの現象としての出来事です。ですから、覚醒といってもそれは気づきのなかに現れるただの現れです。覚醒というものが、現象世界を超越するための本当の意味での入り口として機能するということは、ありえません。そもそも、そのような超越をする必要などないんです。それが、よく耳にするような劇的なストーリーが、このインタビューで話しているようなものもそうですが、ダイレクトパスにおいてまともに取り合われない理由、まともに取り合う必要がないとされる理由です。ですから、覚醒がどの場所で起こるかというようなことを仮定したりする必要はありません。場所というものは存在しないんです! 覚醒という出来事が実際にあるわけではありません。あるのは目覚めだけ、すべてが目覚めです!

以上のことが、ダイレクトパスにおいて、深い睡眠がマインドを覆うものであるとはされていない理由です。そうではなく、深い睡眠はある種の隔たりであって、その間にもあなたは存在していて、マインドは存在していないとされます。どんな経験も実は深い睡眠と同じなのだという点について深く考えをめぐらすことは、ダイレクトパスにおいては、取り組みのひとつになっています。

あなたの質問には別の答え方をすることもできます。慧能が自分に対する挑戦に対して答えたやりとりで、示されていることです。慧能は禅の六祖ですが、ほこりをかぶっている鏡について、自らの考えを明らかにしました。他の僧が詠んだ次のような詩偈、にどう応えるかという問いでした。


身体は菩提樹だ
心は曇りのない鏡のようなものだ
心を磨くことを怠らず
埃が積もらないようにすべきだ

慧能はこれに対し、こう答えました。

菩提はそもそも木ではない
鏡のような心というものも無い
仏性はつねに曇りがなく透明だ
どこに埃が積もるというのか

== 翻訳は以上 ==

このようなインタビューにありがちなこととして、質問者が正統派アドヴァイタ・ヴェーダーンタの教えを引用しながら、回答を迫るという構図がある。これにもそういう印象がある。

だがちょっと他と違うように思うのは、グレッグがそれを面白がっている感じがすること、それから正解はあくまでも頭のなかにはないということを、言葉ではなく行間で示していることだ。

その3はこちら

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グレッグ・グッドのインタビュー 2011年 (2)」への2件のフィードバック

  1. グレッグ・グッドの『脳と気づき』は圧巻でした!

    今回のインタビューも楽しみにしております。

    ご翻訳くださり、ありがとうございます。

  2. izさん、コメントありがとうございます。

    「脳と気づき」は、ピンと来ない場合はピンと来ないと思いますが、ピンと来ると気持ちいいかもしれませんね。

    脳というのはすごい物語だなあと感じます。

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