グレッグ・グッドのインタビュー 2011年 (1)

 
2013年の最初の記事は、グレッグ・グッドのインタビューの紹介。ジョーン・トリフソンのウェブサイトの文章の翻訳がまだ残っているが、それはいったん後回しにしたい。

そこそこ長いインタビューのため、3回か4回かに分けて紹介しようと思う。Non-Duality Magazineというウェブサイトが、2011年7月にグレッグ・グッドにインタビューしたもの。主にダイレクトパスについての話になっている。

GREG GOODE – Interview with non duality magazine. July 2011

== 以下、翻訳 ==

グレッグ・グッドは、Standing as Awareness (気づきとして存在すること) の著者であり、また、Direct Path: A User Guide (ダイレクトパス – 取扱説明書)が近日中に出版される予定になっている (訳注: 2012年に刊行済)。いずれもNon-Duality Pressの発刊。そして、グレッグは空性に関する本にも取りかかっている。非二元に取り組む彼の方法は実際的で、体験に基づいていて、開放的なものであり、独善的なところがない。グレッグは哲学博士で、西洋と東洋の両方の哲学を深く研究した。彼が研究した東洋の教えとしては、シャンカラ、ガウダパーダ、ナーガールジュナ (龍樹) 、チャンドラキールティ (月称) 、ツォンカパ、法然上人、親鸞上人、シュリ・アートマナンダ、フランシス・ルシール、淨空法師のものがある。西洋からは、プロタゴラス、ヘラクレイトス、ゴルギアス、セクストス・エンペイリコス、ジョージ・バークリー、デイヴィッド・ヒューム、G. W. F. ヘーゲル、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン、W. V. O. クワイン、ネルソン・グッドマン、ブランド・ブランシャード、ジャック・デリダ、ウィルフリド・セラーズ、ミシェル・フーコー、ピエール・ブルデュー、リチャード・レイナム、リチャード・ローティなどの影響を受けている。

グレッグはまた、アメリカ実践哲学協会の学術誌Philosophical Practice (哲学的実践) の専門委員をつとめている。

これまで15年間、グレッグはニューヨーク市においてノンデュアル・ディナー (非二元を語る夕食の集い) を開いてきた。ノンデュアリティマガジンの編集者として、私は過去半年の間、この夕食会でグレッグに会ってきた。夕食会では、ニルヴィカルパ・サマーディ、正統的なアドヴァイタと現代的なアドヴァイタの違い、教えの手法、瞑想、シュリ・アートマナンダ・クリシュナ・メノンのダイレクトパス、ニサルガダッタ、禅、チャン、上座部仏教、浄土仏教、イスラム神秘主義、グノーシス主義、ヨーガ、タオイズム、太極拳、気功、風水など、いろいろなことが話題になる。以下のインタビューでも、そういったことが語られている。

ノンデュアリティマガジン (以下、Q). あなたはStanding as Awarenessの序文で、「気づきとして存在することによって、世界をきわめて直接的に経験することになる。なにかを変えたりする必要も、なにかになる必要もない」と書いています。

でもシャンカラは、ヴィヴェーカチューダーマニのなかで、気づきとして存在することができるようになるためには特定の条件と適格性が必要だと述べています。ダイレクトパスを実践するために、そういった何らかの条件を満たしていることが必要なのでしょうか?

グレッグ・グッド (以下、A). 気づきとして存在するということは、目標を達成しようとする行為ではないんです。どちらかといえば、気づきとして存在するというのは、自分を気づきに優しく開き、気づきと恋をして、気づきの深い神秘を探究することを求めるということです。ただそうだ、というだけであり、なにか理由があるわけではありません。たとえば、「気づきはどんなことをするのだろうか?」という疑問に自分を浸らせるというようなことをします。そうすることで、気づきはどんな行為もしないし、何もしないということが理解されます。それでいて、気づきによってなされないことは一切何もない、ということもわかります。このように、いろいろな形で非二元性を調べていくことによって、自分の経験というものが非二元的であるということが、経験によって確認されるんです。

ということは、ダイレクトパスは万人向けだということでしょうか? 違います。万人向けの方法というものは、どこにもありません。人が違えば方法も違います。「フリーサイズ」の教えというものは存在しません。

次に、アドヴァイタ・ヴェーダーンタで言われている適格性ということについてです。サンスクリット語で、サーダナ・チャトゥスタヤ (四つの準備段階) と名づけられているものがあります。それは、不変のものと変化するものを識別すること、自分の行為の結果にこだわらず、しがみつかないこと、一定の行動基準 (修行、精神集中、信仰、節制、苦行に耐えることなど) 、そして最後に生と死の制限から解放されることへの切望、の四つで構成されています。広い意味で、これらは、適応力と対応能力を育むための一連の行動特性であると言うことができるでしょう。そこに、解放されることへの切なる思いが加わります。

アドヴァイタ・ヴェーダーンタ以外の教え、たとえばカバラや仏教中観派の空性の教えにも、そうした「必修科目」はあります。

だいぶ前ですが、チンマヤ・ミッションでアドヴァイタ・ヴェーダーンタの講義を受けたことがあります。そこで教師がこんなことを言っていました。昔のインドでは、ヒンドゥー教で定められていた諸条件には、参入障壁の役割を果たすという側面があった。各家族が従っているヒンドゥー教のグルは、ヒンドゥー教を教えはする。でも、誰にでも「高次」の教え (ヴェーダーンタ) を授けるというわけではない。先ほど言った四つの段階を満たしている人にだけ、もしくは、間違いなく満たすことになるであろう人にだけ、そうした教えへの門戸を開くのだ、と。こうしたやり方をとることによって、この四つの段階が、必要条件として実際に機能することになります。

もちろん今日では、ヴェーダーンタの教えはこうした社会的に管理された状態から抜け出てしまっています。ヴェーダーンタやアドヴァイタの教えには、誰でもインターネット上で接することができます。文章、オーディオ、動画、掲示板などのかたちで。それだけでなく、翌日配送される書籍をとおして学ぶこともできます。ある教えに飽きたら別の教えに移ることもできますし、自分の好きな教えを、好きなように混ぜたり組み合わせたりすることもできます。

ある意味では、四つの条件はまだ存在していると言うこともできます。ただ、現在では違った役割を担っています。これらの条件は、絶対的なものではありませんし、必要な条件でもありません。それでも、学ぶことを望む人たちに対して、「見えざる手」としての影響を巧みに及ぼすんです。学ぶ人が教えになにを期待するかによって、どのような影響を及ぼすかが異なります。もし、現象的な、もしくは実用的な効果を求めて教えを学んでいるとしたら、見えざる手が働いて、その人は教えの一部から引き離されることになります。結果として、生活上の問題を正面から扱うような別のやり方に出会うことになるでしょう。ダイレクトパスを、そうした他のやり方と組み合わせることもできます。いずれか一つの教えを最初に済ませておかなければいけない、というような決まりはないんです。

なにか別の目標を達するために、解放というものを望む人たちもいるでしょう。そのような場合にも、見えざる手が働きます。ダイレクトパスを学ぼうとする人たちが、それによって何を得ようとしているのか (少なくとも最初の段階では) 、これまでに私が聞いたもののなかには、こんなものがありました。歯の問題や外科的な問題の解消、神経やバクテリア、ウィルスによる疾患の治癒、カンジダ症や慢性疲労症候群の治療、自分 (あるいは配偶者) の浮気の防止、学校の成績向上、自宅売却時の価格上昇、度胸、集中力、知力、意志力、自制心、名声、文章を書く能力の向上まで!

ダイレクトパスは、こうした実用的な目標を達成することを目指すためのものではありません。教える側に豊富な経験があれば、生徒に対して、他の情報源や方法をどのようにでも示すことができます。でも、生徒の側があくまでもダイレクトパスをとおしてこうした目標を達成しようとするのであれば、そんなときに見えざる手が巧みに働きます。

生徒は、ダイレクトパスと他の手法を混ぜたり、組み合わせたり、あるいは二つの方法の間を行ったり来たりすることもあるでしょう。そうしたときに、気遣いのできる経験豊富な教師は、生徒を支えます。古の中国で、チャン (禅) の修行者は「師よ、私は書を学びたいのです」と言ったかもしれません。老師はこう答えたでしょう。「そうか。東の方にいるハン師のところで学びなさい」

あるいは弟子が「カンフーのために身体を柔軟にしたいのです」と言ったのであれば、老師は「そうか。では、南の方にいるユン師のところに行きなさい」と答えたでしょう。でも弟子が「生と死の秘密について学びたいのです」と言ったとしたら、老師はこう答えたでしょう。「厨房へ行って、皿を洗いなさい」

今日でも同じことです。もし現象的なものごとを改善することではなく、現象的なものごとから完全に解放されることを望むのであれば、ダイレクトパスはそのために完璧に役立つものとして、作用するでしょう。

== 翻訳は以上 ==

「この世界」では、西洋哲学を学んだ人というのはけっこう珍しい。だいたいが、パパジやその他の東洋系のグルに直行するパターン、あるいはアメリカやヨーロッパで禅を実践したというパターンだ。

全然別のルートから登ってきた人だけれども、いろいろな他のルートについての理解も深いという意味で、グレッグはなかなかユニークなポジションにいると思う。

その2はこちら

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