依存症について (5) ジョーン・トリフソン

 
ジョーン・トリフソンの文章「Addiction (依存症) 」を翻訳・紹介している5回目。(その1その2その3その4)

== 以下、翻訳 ==

回復のための唯一の「正しい」方法というものは存在しない。他の人にとってはとても効果的な方法が、あなたにとっても効果的であるとは限らないし、失敗のように見えることが、実際には完璧な展開であるかもしれない。依存症を扱う分野には、自分は依存症に関することなら何でも知っていると完全に思い込んでいる自称「専門家」が沢山いる。私は、こうした専門家の何人もが、私自身の経験に照らして考えるとかなり疑わしいようなことを、絶対的な確信とともに言い切るのを聞いたこともある。だから、この分野のことなら何でもわかっているような人が存在しているなどと思い込んではいけない。

依存症からの回復を扱う世界にいる人たちの大部分は、死ぬまで完全に対象物を断つことだけが依存症に対する真の解決策だと信じている。だが、特定の依存症、たとえば過食といったものについて言えば、依存対象を断つことはできない。医師であったセラピストの元で私は1973年にアルコール依存から脱したが、彼女は一生続けるような断酒は必ずしも必要ではなく、依存症の原因となっている根本的な問題をセラピーで扱うことによって、一度はアルコール依存だった人も、節度を持って飲酒することを習得することができると考えていた。彼女は、依存症を、それに対して私が何の力も持っていない病気としてではなく、さまざまな理由で私が無意識的に選んでいる行動として扱った。自分がどのように、なぜそういう選択をしているのか、飲酒をすることによって自分が何を手にしているのか、ということに意識的に気づくようになることは可能だと彼女は信じていた。それが可能になれば、今度は自分をダメにしないような別の選択を私は意識的にできるし、アルコールを通して可能になっていたより肯定的なこと、たとえば抑制を和らげるとか、自由に話すとか、創造性を解放するとか、頭から抜け出して身体に興味を持つといったようなことをするための、別の方法を私は見つけられるのだと。節度をもってたまに酒を飲むということが、数十年の間、私にはできていた。酔っ払うことは極めて稀だった。アルコールは取るに足らない問題となっていたのだ。だがその後、だがその後、依存的な飲酒は自分にとって過去のものとなったと考えるようになってからずいぶん経って、それは突然再発した。若い頃にしていたような破滅的な感じの飲酒ではなかった。夜に一杯のワイン (通常二杯になり、時には三杯になり、四杯になることもあった) という感じで、毎晩でもなかったが、自分のこれまでを考えればそれが依存的で過剰な飲酒であることは明らかだった。飲酒が止まったり、また飲み始めたりを何度も繰り返すという年月を経験した後、私がいま確信しているのは、一生の間完全に対象物を断つということが、それが可能であれば、最も安全で最も確かな依存症の治療なのだということだ。それが、私自身が今いる道だ。適度につきあうということを軽くみることによって、特にそれがうまくいっているように見えるときは、ごまかしの態度と中毒への誘惑がそのままになりがちだ。適度につきあうということは危険なのだ。そうでないと思っているときでさえ。だから、あなたがもし完全に一生止めることができるのであれば、それが完全な回復のためのベストな選択肢だと私は間違いなく言うだろう。でも、回復へのどんな道に自分がいるとしても、最も大切なのは、過去でも未来でもないし、その後ずっと、ということでもない。一番大切なのは現在の瞬間だ。なぜなら、今の瞬間だけが実際のところ唯一の瞬間だからだ。自分の問題を未来に解決しようとすることは絶対にうまくいかない。AAの12のステップのプログラムでは、一日ずつということが言われる。本当のところは、私たちが問題を解決できるのはだけなのだ。それが、唯一の最も重要な解放への鍵だ。今の瞬間に焦点を当てること。昨日でも明日でも、その後ずっとでもなく。これが正念場なのだ。たった今。目覚めるということを延期することはできない。

ここ数年私はAAに関わってきているが、しばらくの間定期的にAAのミーティングに参加していたこともあったし、スポンサーと共に12のステップに取り組もうとしたことさえあった。AAは自分の道ではないということが分かったのだが、AAが目を開かせるものであると同時に、心を開かせるものであることに気がついた。AAでなければ決して会わないような、あらゆる職業の本当に多様なグループの人たちと一緒にいることが私は好きだ。AAのミーティングで、人々が正直で、気取らず、オープンで、自分を隠さない様子も好きだ。これほど正直で、これほど地に足のついた集団と、他では一度も出会ったことがない。そして、AAに特定のリーダーがおらず、無料で、序列なしに何十年も続いていることも素晴らしい。ミーティングに参加するたびに、私は重要なことを学び、自分の人生についての洞察を得る。そして、ミーティングの終わりには、一時間の瞑想をした後のような気分になる。地に足がついていて、目覚めていて、生きている実感があり、開放的な気分だ。私がAAのミーティングに行くのは、いまはアルコール依存症が主な理由ではなく、あらゆる依存的行動の根底にある、行動、傾向、思考のあり方のより広い意味での繰り返しということに関心があるからだ。

AAに関して、私が疑問をもっていたり、共感できない点もいくらかある。その一番は、AAこそが〈唯一の正統な道〉であり、AAを捨てる人や他のプログラムを使って回復する人は絶望的で、本当の意味で回復することは絶対にない、と考えているように思える人たちがいることだ (全員ではないが) 。だが、AAの大半の人たちは、プログラムの中で効果があるものは採用して、そうでないものは放っておくようにと言う。それから、私は、ある行動パターン (たとえば飲酒行動) をいつまでも続くアイデンティティとしてしまう (「私はアルコール依存症だ」のように) ことにも疑問を持っている。否認の状態を乗り越えて、依存を完全に認めるということの重要性は理解しているが。さらに、AAが、ミーティングに参加し続けるのを止めてはいけないと勧めることによって、少なくともいくつかの場合において、新たな依存対象になってしまう恐れがあるのではないかとも感じる。そのようになれば、参加者は社会的つながり、スピリチュアル的な生活、生きる意味や目的という面でAAに依存してしまう。と言っても、そのようなことがあったとしても、もちろんAAはヘロインやアルコール依存よりはいい。AAが回復のための唯一の道だなどと私が言うことは絶対にないが、全体としては、今では私は12のステップのプログラムを高く評価しているし、ありがたく思っている。そして、AAは真の意味でのスピリチュアルな道であり、驚いたことに、AAは非二元論、仏教、アドヴァイタと著しく一致することもありえる道であり、視点なのだ。

実際、12のステップのこれまでと違った形で認識し理解する方法を提示している本が、近年次々に出版されている。フレッド・デイヴィスは『Beyond Recovery: Non-Duality and the Twelve Steps (回復を越えて – 非二元性と12のステップ) 』という本を著し、アドヴァイタ教師のウェイン・リカーマンは『The Way of Powerlessness: Advaita and the 12 Steps of Recovery (無力という方法 – アドヴァイタと回復のための12のステップ) 』という本を書いた。仏教の師のケヴィン・グリフィンは『One Breath at a Time: Buddhism and the 12 Steps (一度に一呼吸 – 仏教と12のステップ) 』という本を含む何冊かをこのテーマについて出している。禅師のメル・アッシュには『The Zen of Recovery (回復の禅) 』という本があるし、ラミ・シャピロ (自身を聖なる悪党と呼んでいるユダヤ教のラビで、仏教と非二元を長年探究した) は『Recovery – the Sacred Art: the Twelve Steps as Spiritual Practice (回復 – 聖なる芸術 – 霊的実践としての12のステップ) 』という本を書いた。他にも多くの本がひっきりなしに出版されている。

AAは元はクリスチャンによって組織され創設されたが、彼らは賢明だったため、この方法をとても開かれた形で提供し、それぞれの人が自分に意味の通じるやり方で神というものを理解すればよいのだとした。私にとっては、神とは〈ここ・今〉、〈在るもの〉、〈気づき〉、〈実在〉の別名だ。私の理解では、飲酒 (と他のあらゆること) に関して無力な自己とは、思考するマインドであり、「私の人生」の中心にいると思い込まれている蜃気楼のような人物のことだ。あらゆる力の真の源泉は、すべてを見守っていて、すべてとして在る無限の気づきであり、また、すべてを包括する単一性、他者の存在しない融合性なのだ。この無限性への明け渡しが起こったとき、この瞬間の〈ここ・今〉への明け渡し (目覚めること、くつろぐこと、受容すること、いまここに在ること、完全にいること、注意すること、開くこと、緩めること、何もしないこと、止まること、見ること、聞くこと、等さまざまに呼ばれる明け渡し) が起こったとき、〈ここ・今〉において明け渡しが起こったとき、習慣や古い条件付けから生まれた行為 (二元的な思考やコントロールという幻想から生じた行為) が終わり (その後永遠に起こらないという意味での終わりではなく、〈ここ・今〉で終わるということ) 、まったく違う何かが代わりに現れる。それは、川の急流を渡ろうとして一つの岩から別の岩に飛び移るときに、考えることや状況をコントロールしようとすることを超えなければならないことと同じだ。川に落ちるかもしれないという考えをあなたは手放さなければならない。宇宙があなたを岩から岩へと運んでくれるというある種の信頼の中に飛び込まないといけない。あなたは、言ってみれば、神の腕の中へ自身の身を任せる。スポーツでは、このことはゾーン体験として知られている。自分が宇宙全体となって楽に身体を動かしているという感覚だ。分離も、制限も、後知恵で裁くことも、ためらいも、恐れも、掴もうとすることも、コントロールすることもない。それでも、あなたはすべての岩に完璧に着地するのだ。

もちろん、絶対的な意味では、躊躇してしまって無惨に失敗したときでさえ、あなたは完璧に着地している。人生において過ちと言われることは、ただ単に、そこから何も分離することのない継ぎ目のない全体のひとつの側面であるにすぎず、それらの過ちが真珠を作り出す核になることはよくある。だから、明け渡すということは、一度したらおしまいというようなことではないし、それは個人として完璧になるということとは関係ない。明け渡しとは、今の瞬間に在るものに完全に開かれているということをただ意味している。どんな評価もせず、変化を意図的にもたらそうとすることもなく。すると、変化は自然に有機的に起こり、それは過去から解放されたものとなる。気づきは無限であり自由だからだ。

12のステップや他の回復プログラムに加え、私が知っている中で、依存症から解放されるための最も効果のある方法は、気づきを通した方法だ。たった今この瞬間に起こっていることに、批判的なところのないオープンな注意を向け、結果を求めることも起こっていることをいかなる形にせよ変えようとすることもなく、ただはっきりとそれを見るということだ。例として飲酒をとりあげてみよう。もしあなたが飲酒を止める準備ができていなかったり、完全に止めることができないとしたら、飲酒が起こっているその時に、そのプロセス全体に注意を向けてみてほしい。飲みたいという最初の衝動に気づく。何が引き金になったかを見て、その衝動がどのように起こるのかに目を向け、その時身体の中でどんな感じがするかに注意するのだ。飲みたいという衝動そのものは実際どんなものだろうか? どんな思考が現れているだろうか? 頭の中のイメージは、ストーリーは、感覚はどんなものだろうか? 一瞬停止して、飲みたいという衝動と共に現れる身体感覚、切迫感、興奮、なんであれ生じているものを十分に経験することは可能だろうか? そして、この衝動に屈するか、それとも抵抗するか、どうするか「決める」ときのプロセス全体を見てほしい。このいわゆる意思決定のプロセスは実際どのように展開するだろうか? あなたの思考は何と言っているだろうか? そして、酒を買って、缶や瓶を開け、最初の一杯を注ぐ、そのプロセスのひとつひとつの瞬間に、身体の中でどんな感じがするだろうか? それから最初の一口は、どんな感じだろうか? 最初の一杯の後、どういう気持ちだろう? 飲むことのどんなことが楽しくて、どんなことが楽しくないだろうか? 二杯目を飲むきっかけは何だろうか? その衝動はどんなものであるのか? あなたは本当に二杯目を飲むことを望んでいるだろうか? それとも、飲み続けないときに感じるかもしれない何かに対する恐れがあるのだろうか? 二杯目を飲んだ後、どんな感じがするだろうか? あなたは本当にそういう感じが好きだろうか? どんなところが好きで、どんなところが好きではないのか? 次の朝、どんな感じがしているだろうか? どんな思考やストーリーが生じているだろうか? この展開するプロセス全体にオープンで批判的でない注意をただ向けて、ひとつひとつのステップを観察するのだ。多くのことに気がつくだろう。これらの質問には「正しい」答えも「間違っている」答えもない。そして、答えはその時々によって異なるかもしれない。これは要するに、頑張ることなく気づき、起こっているとあなたが考えていることではなく、実際に何が起こっているのかということを発見するということなのだ。

習慣的な行動の仕組みに気づきの光が当てられれば当てられるほど、そうした行動がどのように起こるのかがより明らかになっていき、何か別のことが生まれる可能性が増していく。飲みたいという衝動はそれでも生じるかもしれないが、その衝動に従わないということが起こる可能性もある。そして、衝動に従わないことが無理なときは、あなたは飲む。すると、あなたはそれがどんな感じがするのか気づく。もしかしたら、時間が経つにつれて飲酒が起こることはだんだん減るかもしれない。あるいは、ひょっとするとどこかの時点で飲酒は完全に止まるかもしれない。ことによると、いつかの時点で、飲酒を止めるという明確な決定が現れるかもしれないし、なんらかの回復プログラムに参加しようという決定が生じるかもしれないし、どうなるかは分からない。そのいずれもが、実は「あなた」の決定ではない。〈生〉そのものの働きなのだ。

== 翻訳は以上 ==

その6はこちら

(2012年12月15日追記: 原文の改訂に合わせて、一部改訂した。主にジョーンとAAの関わりに関する部分)
(2012年12月18日追記: 原文の改訂に合わせて、一部改訂した。ジョーン自身の飲酒の経験に関する部分)

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