依存症について (4) ジョーン・トリフソン

 
ジョーン・トリフソンの文章「Addiction (依存症) 」を翻訳・紹介する4回目。(1回目2回目3回目)

== 以下、翻訳 ==


AA (アルコホーリクス・アノニマス) の12のステップのプログラムでは、人間の無力さ (思考するマインド、実体のない自分、「私の人生というストーリー」の中心にいる人格としての無力さ) を認識し、自分の人生と意志を、この見せかけの自己を、超越している存在、思考するマインドよりも大きな存在へと委ね、自分自身を神に明け渡すということが語られる。この「高次の存在」あるいは「神」というものは自分とは別の存在であるというふうに二元的に理解する人たちもいる。だが私にとっては、神とは疑いなく私たち自身の〈真の本質〉だ。明け渡すということ、ハートを開くということ、神に自身を明け渡すということは、何かを掴もうとしたり人生をコントロールしようとしたりすることをあきらめ、エックハルト・トールが「パワー・オブ・ナウ」と呼んでいる大きな存在に溶け去ることをただ意味している。アドヴァイタの賢人であるロバート・アダムスは、それを「道を知っている〈存在〉」と呼び、「あなたはその〈存在〉そのものなのだ」と指摘した。彼は、見せかけの自己あるいは思考するマインドが〈存在〉なのだと言ったわけではない。彼が〈存在〉という言葉で指していたのは、この〈実在〉、この〈目覚め〉、この〈気づき〉であり、それは私がいつも〈ここ・今〉と呼んでいるものだ。この〈実在〉には、見せかけ自己や思考するマインドも含まれている。それは、見せかけの自己や思考するマインドと別のものではなく、そうしたあらゆるものよりもずっと大きなものなのだ。明け渡しというのは、この無限の実在に溶けること、〈ここ・今〉においてそれを完全に体現することに関わっている。

私たちが無限の気づきとして目覚めていると、このすべてを包含する無限性の外側には何もないということ、〈ここ・今〉に現れるものの中に、物質的なあるいは持続する実在性をもったものは何もないということを認識する。すべてが神なのだ。神は〈存在するすべて〉だ。依存症から回復するということは、終わりがなく、一生涯続く、現在の瞬間に展開することであり、そこには、私たちは分離した断片であり、制限されていて、何かに閉じ込められていて、迷子になっていて、何かが足りない存在なのだということを言っているあらゆる思考やストーリーや信念から、今ここで目覚めるということが伴う。回復は、思考と行動の古い習慣的なやり方という催眠状態、習慣性の自失状態から目覚めるということに関係している。そのためには、嫌な感覚あるいは不快な感覚を、それらを追い払いたいとか感覚を麻痺させたいという欲求なしに経験することができるということが必要となる。そして、人生をコントロールしたり操作したりしようとすることから、この瞬間のありのままの現実に、結果を求めることなしにくつろぐということへの、微妙だが非常に大きな転換が伴う。それは、逃げようとすることが終わるということなのだ (一度終わってそれで完了ではなく、今逃げようとしていないということだ) 。

この転換はどのように起こるのだろうか? ある意味で、それがどのように起こるのか知っている人はいない。それは選択なのだろうか? それに本当に答えることはできない。どんな説明も現実をつかまえることはできない。よくある思い込みは、人間は誰でも自由にコントロールし、自分の思考や行動や注意の動きを選んでおり、したがって、止めたければ誰でも依存症を止められるし、なにを自分が求めるかは誰でも自分で選んだり決めたりすることができる、というものだ。この誤解が、罪悪感、恥、非難、欲求不満につながる。アドヴァイタや原理的な非二元論に夢中になっている人たちなら、「自己はない」あるいは「無選択性」というのは、依存的な行動形式を終わらせるためにできることは何もないということだ、と決めてかかることもあるだろう。そうした人たちは、何かを行うということは、アドヴァイタや原理的な非二元論の根本的な教義に反するものだと考えることもある。もしすべてがありのままで完璧であって、自由意志があるような人は存在していないとしたら、何かを変えたいと思ったり、変えることができたりする人がいるだろうかとか、何をどうしたら変えたいということになるのか、と彼らは説明する。だがこれは、アドヴァイタや非二元論を誤解したものだ。

変化は生の本質そのものであって、私たちの行動、能力、欲求、洞察といったもののそれぞれが、全体性が機能していることの一部なのだ。ある意味で、すべてはありのままで完璧だというのは全く正しい。だが、依存症から回復したいという望みもまた完璧なのだ、ということも同様に正しい。瞑想、精神療法、ヨーガ、ボディワーク、身体の気づきのワーク、サットサン、太極拳、回復のためのプログラム、環境保護のための社会運動プログラム、もしくは苦痛をやわらげることや様々な不正義を正すこと、これらのすべてが、人類が混乱を解決し、新たな可能性に目覚めるために協力しているやり方なのだ。このすべての行動は、身体の中で感染と戦い病気を治癒させようとして白血球が一丸となって作用するのと全く同じように起こっている。あたかも、選択し、意図を持ち、行動しているのは「私」なのだというように見えるかもしれない。だが、注意深く調べてみると、事態を取り仕切っているような誰かを見つけることはできないのだ。私たちの意図、衝動、思考、行為のすべて、私たちがしているように見える「選択」や「決定」のすべてが、宇宙全体の行為であって、それは白血球の行為が宇宙全体の行為であるのと全く同じだ。無限の単一性は、癌細胞と白血球の両方、寄生虫と寄生相手の両方、依存症と回復の両方、仏陀とヒトラーの両方を包含している。そこから除外されるものは何もない。そして、そこには個人的なものは何もない。つまり、個人として何かをしていたり、何かをもっていたりする人は誰もいないのだ。「私の」思考を考え、「私の」選択をしているように思える「私」は、ただの蜃気楼、幻影、錯覚だ。その意味で、自己も選択も存在しないと言っているのだ。

と言っても、それは何も起こらないとか、したがって私たちは残りの人生を「何もせずに」ソファに座っていなければならないというわけではない。実際には、私たちは生に動かされ、何らかのやりかたで行動する。適切な条件が揃えば、身体・精神はあらゆる方法を使って学ぶことができるし、また熟練することができる。その結果、より多くの選択肢、より良い選択、より多くのコントロール、より洗練されたコントロール、より多くの可能性、どのように表現してもいいが、そうしたことが可能となる。熟練したアスリートには、訓練も練習もしていない人と比べて、自分の身体を動かす上でより多くの選択肢、コントロール、可能性がある。熟達した作家には、無学の人と比べて、言葉で明解に自分の思うところを表現する上で、より多くの選択肢、コントロール、可能性がある。同様に、回復のためのプログラムやセラピーや瞑想を通してスキルを学ぶことによって、特定の感覚や衝動や不快さやイライラに対して、破壊的にではなく建設的に対応するためのより多くの選択肢、可能性、能力を得られる可能性がある (それが可能なときなら) 。学ぶということは起こる。引っ掻くことなく痒みと共にあることを学ぶということ、そして、そのようにしたときいつかは痒みは消えるということに気づくということは起こるのだ。

確かに、より広い意味では、こうした学びのすべては無数の原因と条件付けから起こることであり、どんな瞬間にも実際にそうなっているそのありようと少しでも異なるあり方はありえない。どんなことに関しても、それを「している」自律的な執行者は存在していないのだ。それでもなお、それは起こることがある (それが起こりえるとき、あるいは適切な条件が揃ったときに) 。だから、一面では選択というものは無いのだが、人はそれでもゲームをしなければならず、生があなたにさせることをしようと「決める」必要があるのだ (生があなたにそうさせるなら) 。ある時には、それはヘロインを打つということかもしれないし、別のときには回復のためのプログラムに参加するということかもしれない。あなたには選択することができないのだ! だが、責任は完全にあなたのものだ。というのは、宇宙には〈あなた〉(二つ目のない一なるもの) 以外の誰も存在していないからだ。なんという逆説だろう!

私が40年前のように自分を死に至らせるほどの飲酒を今は続けておらず、また想像できるかぎりのあらゆるドラッグを摂取することもなく、一日に何箱ものタバコを吸うこともなく、コントロール出来ないほど激怒することもなくなったということには、とても感謝している。だが、アルコール依存から抜けるということは「私」のしたことではないということは認識しているし、同様に大酒飲みであったということも「私」のしたことではないと認識している。大酒飲みとしての私の人生は自分にとっても他の人にとっても非常に痛ましいものではあったが、それがあらゆる意味で悪いことだったとは言えないということも分かる。いろいろな意味で、それは知恵と思いやりを生みだしてきた。「大酒飲みのジョーン」というのが〈一なる自己〉の現れであるのと同じように、「しらふのジョーン」もその現れだということも明白だ。実際、すべては一つで、完全で、継ぎ目がなく、分割されていない流れであり、そこから離れているものは何もない。そして結局、「善」と「悪」を切り離す方法はないのだ。頭の中の地図で、概念的に切り離すことができるだけだ。

思考するマインドは、いつも綿密な計画を立て、何が何を引き起こすのかということを把握しようとする。思考するマインドにとって改善や成功と考えられることを達成するための戦略を欲しがるのだ。これは生き残りのための機能であり、一定の場面においては、思考するマインドはかなり有効に働く。そして、その原因と結果の概念的な解釈の中では、精神療法、瞑想、武道の練習、様々な気づきのワーク、そして最後にAA、そのすべてが、大酒飲み状態から断酒への「私の」変化がもたらされたことに関係しているように確かに思える。だがもっと注意深く見てみれば、ひとつの状態と別の状態の間、あるいは「ジョーン」とそれ以外の宇宙の間には、確固たる境界線を見つけることは実際できないのだ。だから、精神療法や回復のためのプログラムが依存症から自由になる上で役立つ手段になるという考えを持つことは、実用的な意味では有益である一方で、この解決策は必ず望ましい結果をもたらすのだと思い込んでしまったり、舵を握っている人がいて、その人が自由にもしくは意のままに目的を果たすことができる (あるいは「そうすべき」だ) と信じたり、私たちが完璧を求めたり、善と悪に関する自らの二元的で過度に単純化された観念を信じたり、変化するための万人に効果的な唯一の方法が存在すると考えたりすると、問題が生じることになる。私たちがそうした種類の観念を信じてしまうと、そこに罪悪感、恥、非難、欲求不満、絶望、独善性が生まれる状況が生じるのだ。

== 翻訳は以上 ==

いつもそうだが、ジョーンの文章はかなり長い。冗長すぎると感じることもある。だが、不思議なことに、それでも読み進めていくと、伝わってくるものがある。

ここまでで、半分強くらい翻訳した。

その5はこちら

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依存症について (4) ジョーン・トリフソン」への2件のフィードバック

  1. ヒロさん、いつもありがとうございます。

    この「依存症について」というジョーン・トリフソンの文章、本当に素晴らしいですね。

    ジョーンさんはこの先も書くことがあるのだから、それ自体驚きですし、じつに楽しみです。

    Love pari

  2. pariさん、コメントありがとうございます。

    やはり体験した人だけが理解すること、体験した人だけが語れることというものがあり、また、そこから溢れてくる何かがあるのかなと感じます。

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