依存症について (3) ジョーン・トリフソン

 
ジョーン・トリフソンの文章「Addiction (依存症) 」を翻訳・紹介する3回目。(1回目はここ、2回目はこちら)

== 以下、翻訳 ==

注意深く調べてみると、この分離している自己というものは蜃気楼のような見かけであって、それが絶えず変化し続ける思考、心象、記憶、ストーリー、信念、そして感覚から成り立っていることが分かる。身体・精神との実用面での同一化は生き残りのためにある程度は必要だが、人間特有の苦しみを生み出す自己中心的な同一化と分離の感覚には、ストーリーの筋、分裂と疎外の感覚、死や生物としての生き残り本能が及ばない絶滅に対する恐れ、拡張させたり守ったりしなければならない自己イメージ、そしてこの「私」がコントロールしている (あるいは、コントロールすべき) という思い込みが伴う。この実体のない「私」が核心にある依存症だと言われており、すべての依存症は何らかの形でその徴候となっている。

だが、依存症や強い衝動には、それにかかわる多くの要素がある。だから、あらゆる依存症を説明したり治したりする、あるいはあらゆる人に効くような、万能の説明や万能な解決策というものに対しては、それがどんなものであっても私は常に慎重でありたい。神経科学や脳や心に関する知識、関係するすべてがどう作用するのか研究する分野では、新たな発見が絶えずなされている。鬱や依存症というような特定の状態は、もっぱら倫理的、心理的、あるいは霊的な問題であると、長い間に渡って誤って解釈されてきたが、結局つい最近になって、他の多くの力が明らかに影響していることが分かった。そこには、神経科学、遺伝的な特徴、感情的なトラウマ、脳損傷、それから様々な他の身体的、感情的、社会経済的な条件も含まれている。強い衝動 (たとえば指噛み) と依存症 (たとえばアルコール依存) は、それぞれが脳の異なる領域における異なる状況から生じているのかもしれない。いろいろな依存症の間での違い、あるいは依存症と強い衝動との間の違いを見つけることもできるし、類似性を見つけることもできる。この文章では、私は類似性、つまり共通点を強調している。だが、私はそれぞれの違いを否定しようとしているわけではない。私たち皆が、偏見のない態度を維持し、依存症と回復について知るべきことは全部知っているなどと思い込まないよう勧めたい。

不安やいらだちや心の痛みといった不快な感覚に直面した時、あるいは自分は無力だとか誤解されたという嫌なストーリーに直面した時、人間は一般的にそこから抜ける出口を探すか、あるいは自分自身の気分を落ち着かせる方法を探す。先に指摘したように、苦痛を避け快楽を求めるということ (恐れと欲求) は、条件反射的な生物的な生き残り機能であり、一定の実用的な場面ではまったく当然のことだ。だが、複雑な脳をもった人間においては、この基本的な生き残り本能は精神的な領域にまで持ち込まれてしまい、そうなるとその生き残り本能は機能障害を起こし、有害となる。想像上の恐怖や不適切な欲求によって動かされる結果、私たちは食べ過ぎたり、お金を浪費したり、強迫的に働いたり、強迫的に思考したり、過剰な飲酒をしたり、喫煙をしたり、ヘロインを打ったり、なんであれ私たちがしているようなことをする。私たちが強迫的で依存的なやり方で快楽を求め痛みから逃げようとすればするほど、苦しさは増していく。これは漆によるかぶれと同じことだ。掻けば掻くほど、痒みは増していき、かぶれは広がっていく。一瞬のハイの後に続くのは、うんざりするような不快さなのだ。


この回避と追求がそれぞれの人においてどのような形をとるかは、性質と環境に関係している。遺伝的特質、神経系、神経科学、幼少時の体験、条件付け、社会的圧力、環境的影響、脳の状態といったようなことだ。ある人たちは依存的な行動に巻き込まれても本当に少しだけであるのに対し、他の人たちの場合は、依存的行動が急激にひどくなって、その人の生命の構造そのものを破壊するようになり、彼らはしばしば他のたくさんの生命をも巻き込む。とても穏やかな依存症もあれば、致命的なものもある。過度な労働の中毒になる人もいれば、アルコールやヘロインに依存する人もいれば、幼児への性的虐待や連続殺人がやめられなくなる人たちもいる。

過度な飲酒についても、幼児への性的虐待についても、それをするかどうかは選択の問題なのだと考えている人は多い。だが、しっかりと注意深く調べてみれば、それは科学的方法でも瞑想的な探究という方法でもいいのだが、すべては無数の要因と条件付けから生じていて、こうした種類の依存的で強迫的な行動は、一種の催眠にかかった昏睡状態に等しいということが分かるかもしれない。あたかも、催眠にかけられたり、条件付けられた結果として、自分を (あるいは誰か別の人を) 傷つけ、それを止めることができなくなっているようなものだ。

では、どこかに出口はあるのだろうか? この悪循環から抜けることを選択することはできるのだろうか?

もしあなたが、この質問に対する正しい答えをそれが何であれ知っていると確信しているのであれば、その答えを下に置いて、ちょっと一瞬の間だけでも答えを知らないということにするよう勧めたい。


依存症からの回復に関しては、たくさんの異なる方法が存在している。だがいずれにしても、依存症からの回復は、私たちの根底にある恐れ、不快さ、不安、落ち着かなさという痒みを引っ掻くことによって事態を悪化させることなく、それらと共に在ることを習得するということと常に関係している。今に在り、目覚めながら、逃げず、完璧を求めないということを習得することに関係している。気づきの力を発見し、観念的な思考 (人生に関するすべての概念、信念、思い込み) に夢中になった状態から目覚めるということに関係している。コントロールと意志の力の対極にある開放性と出会うこと、明け渡しや恩寵としばしば呼ばれる解き放ちと出会うことに関係している。ある特定の瞬間に明け渡しが可能かどうかということは、誰もコントロールできないことだ。それは全宇宙的な出来事なのだ。

明け渡しといっても、依存症に明け渡すということではない。それはある種の偽の明け渡しだ。本当の明け渡しは、たった今、現在の瞬間から逃げたり、それに抵抗したりしようとするあらゆる試みが落ち、判断することなく、故意に変化を強いようとすることもなく、在るものに完全にただ開かれているということを単純に意味している。明け渡しとは、この瞬間に現れているものをコントロールしたがるマインドの動きが緩まることだ。それは、まったく何もしないということを意味する。だが、これが意味しているところを本当に理解するにはしばらく時間がかかるかもしれない。これは、自分が運転している車のハンドルから手を離すということ、されるがままになっている人であり続けるということ、虐待的な状況に居続けるということ、問題を解決するために適切な行動をとらないということ、そういうことは意味していない。これが意味しているのは、現在の瞬間に完全に入るということだ。もちろん、現在の瞬間にいないということは不可能だ。現在の瞬間というのは存在するものすべてであり、現在の瞬間と分離していてそこに入ることができるような人はどこにもいないからだ。だが、これはある種のゆるめること、開くこと、明け渡すこと、くつろぐこと、私たちが泳ぐ方法や自転車に乗る方法を覚えるのとほとんど同じように、手探りで進みながらそれを見出していくということをただ指し示している。こうしたことがどのようにできるのかを本当に説明することができる人はいない。ただ、私たちが自分でこうしたことを見出すのを、他の人たちが助けてくれるというのはよくあることだ。

== 翻訳は以上 ==

ここまでで文章全体のだいたい半分くらいになる。

その4はこちら

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