依存症について (2) ジョーン・トリフソン

 
ジョーン・トリフソンの文章「Addiction (依存症) 」を翻訳・紹介する2回目。(1回目はこちら)

== 以下、翻訳 ==

ある意味で、依存症は私たち人間に特有の基本的な問題だ。それは、必ずしもアルコールやドラッグに対する依存である必要はない。私なら、どんなものであれ、制御不能で強迫的で止まることがなく破壊的であるように感じられる習慣的な行為あるいは物質の摂取のことを、依存症と定義するだろう。依存症は、それを止めたいという欲求と、続けたいという欲求との間での内面的な葛藤をしばしば伴うが、そのどちらもが、〈ここ・今〉の現在の現実性からの逃避だ。この現在の現実性からの逃避は、つねに、より望ましいものだと想像するものへと向かう動きとなっている。それが中毒性の快楽であっても、依存症から自由になるという夢であっても。止めようと努力することは、依存症の一部だ (そしてそうすることは、実際に止めることとは異なる) 。私の本を一冊でも読んだことがあるのであれば、私自身が依存症と強い衝動を直接経験してきたことを知っているだろう。私は元アルコール依存症患者だ。私はまず1973年に、8年間に渡る命を落としかねないような、底をつくような、度が過ぎた飲酒から脱した。それから数十年たってから、以前よりはるかに穏やかで頻度も少なかったが、依存的な飲酒が再発した。そして、今、一生続ける断酒という道の途上にある。私は人生を通して、指を噛むという衝動と格闘してきたが、それは今でもときおりひどくなることがある。大の愛煙家であったり、ドラッグ愛用者であったりもしたが、この二つの習慣は何十年も前に止まった。私の人生においては、様々な時に、あらゆる種類の物質や行為、インターネットからカフェインまであらゆるものへの中毒性の傾向があった。私は1973年に理学療法士の助けによってアルコール依存を脱したが、その際はゲシュタルト、交流分析、短期間の根治治療が組み合わされた。もっと最近では、私は断続的にAAのミーティングに参加している。最初にアルコール依存から脱してからの数十年の間、私は他の種類のセラピーをしたり、長年に渡って瞑想や他の形の気づきのワークに取り組んできた。だから、依存症と回復は、私が直接知っている境域なのだ。だが、様々な依存症や強い衝動の根底にある基本的な問題を経験して知るために、私のような経歴がないといけないというわけではない。

依存症は、私たちが自発的にやっていると考えたがるような行為を、明らかに無意識に強迫的に行なってしまうということに関係している。そのため、依存症というものは、選択と自由意志という問題全体を探究するための素晴らしい機会となる。依存症という言葉を最も広い意味でとらえれば、この探究はほぼ全員に役に立つものとなるのだ。善かれと思って考えた新年の決意をすべてきちんと実行したと言える人も、結局は有害だったり満足感が得られなかったりした快楽を一度も追い求めたことがないと言える人も、ほとんどいないだろう。ほぼすべての人は、苦しみを生むような思考の中毒になっているし、通常なら健全な行為であるはずの食、セックス、あるいは仕事といったことと依存的な関わり方をしている人も沢山いる。地球規模で言えば、米国にいる私たちは石油に依存しているし、世界は全体として衝突と戦争の痛ましいサイクルの中毒になっているように思える。人類のほとんどは、コントロールという幻想の中毒になっていて、これが「私」であるとして同一化しているこの見かけ上の形として生き残ることに中毒になっている。程度の差こそあれ、依存症というのは私たち誰もが知っていることなのだ。

快楽を求め痛みを避けようとすることは生き残りの仕組みであり、それは純粋に生物学的に言えば全くおかしいことではない。だが、自分が死ぬまで喫煙したり飲酒したりする動物は他にはいない。資本主義消費社会は、実のところ依存症を奨励している。1930年代にリーマン・ブラザーズに勤めていたウォール・ストリートの銀行員だったポール・メイザーは、ドキュメンタリーの中でこう言ったとされている。「我々はアメリカを必要の文化から欲望の文化へと転換しなければならない。人々は、欲望を持つように、新しいものを欲しがるように、調教されなければならない。古いものが完全に消耗していない時であっても。人の欲望が、人の必要をつまらないものにしないといけないのだ」 広告業界は、それは私たち人間の性質の現れであるが、政治から霊性に至るまでの現代生活のほとんどすべての側面において欠乏感を創り出し、それからその欠乏感を満たすために、私たちには実際は必要なく、本当のところは私たちを幸せにもしないものを勧めることに専念してきたのだ。

おそらく、最も根本的な人間の中毒とは、「私」というストーリーへの中毒だ。その「私」は、自由意志を与えられていて、意識の分離した見かけ上の一単位で、独立した身体・精神の内側に閉じ込められていて、なじみのない外側の世界を眺めていると信じられている。「私」というこの空想上の視点、断片化した世界の中の一つの断片の視点からすると、つねに幸福 (あるいは愛、歓び、平安、自由) が欠けていて、それを探し求めているという感覚がある。探し求めているものは、いつもどこか「別の場所」にあるのだとされる。おそらく、この分離という考え・感覚が、人間が快楽を求め苦痛を避けようとする上でうまく機能しないあらゆるやり方の原因になっている。

== 翻訳は以上 ==

ジョーンの本 Awake in the Heartland を読んだとき、彼女がアルコール依存や薬物依存に苦しんでいただけでなく、今でも指を噛むという衝動から自由になっていないということにびっくりした。

悟りや覚醒について語る人がそういう依存から解放されていないということ自体にも驚いたし、そういうことをオープンに本に書いていることにも驚いた。

でも、それについてジョーンが実際に語る様子をネットの動画で見て、強迫的な衝動自体から自由になりたいという思考 (あるいはそういう衝動から自由になっていなければ覚者ではない、という思考) も観念的な思考にすぎないんだ、という印象を受け、楽になった気がした。

その3はこちら

(2012年12月15日追記: 原文の改訂にともない、一部改訂)

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依存症について (2) ジョーン・トリフソン」への2件のフィードバック

  1. ありがとうございます。
    とても役にたちそうです。どうもありがとうございます。

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