不可思議さの香り

 
最近、探求というものがいつ始まったのか、ということを考える。

三年か四年ほど前に、ある場で出会った人と話している時に、「いつからスピリチュアルな探求をしているの?」と質問されたことがある。その時、探求をしているという自覚はなかったため、「別に探求はしていませんけど」と答えた。

見えない世界のことには子どもの頃から興味があったし、ビートルズやピンクフロイドやヴァニラファッジ等の音楽のサイケ的表現にひかれて、変性意識ということにも興味はあった。さらに、エネルギー的なヒーリングとか、ハレ・クリシュナのようなバクティ的な陶酔というものに関心をもったこともある。

だが、悟りとか覚醒という言葉で表現されているような何かを探し求めているという感覚は一切なかった。でも、今はそれを求めている。

それというものが獲得できるものでも達成できるものでも理解できるものでもない、ということは感じる。そして、ジョーンが繰り返すように、それを求めている主体にさえ、そもそも実体も継続性も無いのだ、ということも分かる気がする。

でも、やはり気がつくと求めている。求めなくなるまでは求め続けるのだろう、と諦めてみたりもするのだが。

(この点については、ジョーンが薦めている本の一冊であるJ. Matthewsという人のRadically Condensed Instructions for Being Just as You Areという本に面白い喩えが書かれていた。いつか紹介したい)

***

と、そんなことを書こうとしたのではなく、中野真作さんのミーティングのことを書こうとしたのだった。

中野さんの新大阪でのお話会には、3回くらい参加させてもらったと思う。感想を書いたこともある(中野真作さんのお話会に参加して)

それについての表現にはいろいろある。中野さんは自身のスタイルについて以前こう書いていた。

いろんな悟った人の表現方法に触れて思うこと。私の探求の原点は自分の苦しみをなんとかしたい、ということだったので、たとえその苦しみがある種の幻想であったとしても、あなたが感じる苦しみを少しでも小さくできるように、ということが私の表現方法のベースになる。
(twitter 2012年6月29日)

個人的には、それの理解不可能性や逆説性という側面を強調した表現に惹かれている。だから、苦しみをどうにかしようというようなストーリー内での表現には正直言ってそれほど興味はない。

ないのだが、ストーリーを無下に却下したりせず優しい眼差しで人に寄り添いつつも、不可思議さの香りを感じさせる中野さんの表現には惹かれる。

世界の不可思議さの香りというのは僕にとっては重要だ。当たり前と思っていることが実は全然当たり前ではなかった、という可能性が急にまたは静かに目の前に現れる瞬間のなんとも言えない香り。中野さんは多くを語るわけではないが、その香りが言葉の合間から漂ってきて、楽しい。

それに、これは本当に稀だと思うのだが、依存させないという態度が徹底している。答えは誰もが自分で持っているという確信がにじみ出ていて、否定的な意味でのグルや教師にはなりえず、ファシリテーターという言葉がむしろ合う気がする。いろいろなことが解決していないと本当のファシリテーターにはなれないと思うが、その意味でも、「この世界」では稀な存在だと感じる。

その中野さんが12月に東京にやってくる。東京という場でその表現に変化はあるのかどうか、楽しみだ。

中野真作の癒しと目覚めのお話会 東京1dayミーティング 2012/12/23

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