鬱陶しい表現

 
ある若いイギリス人の女性が「現実の本当の性質」について語る動画を昨日見ていた。彼女はいわゆる覚醒を体験し、それをシェアしている人で、教師ではないと言っているが、実際にはそういう感じだ。インドのティルヴァンナーマライでのサットサンの様子を撮影した動画のようだった。

彼女が言っていること自体は、非二元のとてもオーソドックスなことで、たとえば「身体はただのコンセプトであり、自分はその中にいるのではなく、身体があることに気づいている主体が本当の自分だ」とか「起こることは起こるが、それは誰に起こっているわけでもない」といったようなことを言っていた。

だが、なんとなく違和感を感じた。それは、先生ゲームをしたがっている感じと言えばいいのか、聞く側から特定の反応を求めている感じと言うのか、ともかく爽やかではないのだ。鬱陶しいと言ってもいい。

なんなのだろうと思って、彼女のウェブサイトを見てみると、鬱陶しい印象をもった意味がわかった気がした。サイトにある多くの文章から伝わってくるのは、「現実の真の性質」を認識していない可哀想な人たちが正しい認識を得て苦しみから解放されるのを助けたい、という思いだった。世界を救う人と救われるべき人たちに二分して、高所からしゃべって悦に入っている感じがとても気持ち悪い。

あの人ひどい服装のセンスだな、と思っていたら、その人から「こうした方がいいんじゃない?」と服装のアドバイスを受けてしまったときの感じと似ているかもしれない(違うか)。

この気持ち悪さ、鬱陶しさに対する敏感さや抵抗は、このところ自分の中でとても大きい。

本当は、ここで感じたような気持ち悪さを自分のものとして捉えなければ、何も問題はない。ただそのような違和感が起こっているという話にすぎない。だがこのところ、この気持ち悪さに対する抵抗は、自分という存在の主要なテーマというかパターンになっている。

その抵抗に気づかせようとしているかのように、視界には鬱陶しい表現が次々に入ってくる。本当に鬱陶しい。

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