自由意志はあるか ジョーン・トリフソン

 
約一年ほど前に、自由意志について書いた。

自由意志がないということ

基本的には、非二元の教えで「洗脳」されていたこともあって、自由意志が無いということは明らかなように思えていた。というより、自由意志が有るとか無いとか言う前に個人がそもそも存在していないんだから、意志も何もないだろう、と考えていた。

だが、それは理屈であって、自由意志が無いと納得したことでいろいろなことが楽になったものの、自由意志が無いという説に固執している傾向があるのは自分でも感じていた。

最近、ジョーン・トリフソンが自由意志についての文章を発表した。これはかなり目からウロコだった。

Free Will, Predestination, the Purpose of Life

== 以下、翻訳 ==

自由意志、運命、人生の目的

自由意志か運命か、責任か無力さか、そして人生に目的はあるのかといったことについて、たくさんの人たちが私に質問してくる。

最初に触れるべきなのは、こうした疑問についての混乱は、思考がある時だけしか生じないということだ。これらは観念的な問題だ。人生がどのような仕組みになっているかということついて、私たちには様々な概念的な地図があり、それぞれの地図には現実に関するそれぞれの見解が示されている。そのため、私たちは混乱してしまう。どちらの地図が正しいのだろうか、と考える。だが、どんな地図も、それが表している土地そのものであることは決してない。最も厳密な最高の地図でさえも、抽象的な表現にすぎない。地図は役に立つものではあるが、地図と土地そのものを取り違えると、私たちは混乱してしまう。

自分の手を開いたり閉じたりすることに、混乱させられることはない。その手の動きが自由意志によって起こった行為なのか、起こるべくして起こった行為なのか、そこにはどんな目的があるのだろうか、ということについて考え始めない限りは。そういうことを考え始めると、空想上の問題、思考がつくり出したにすぎない架空のジレンマでこんがらがってしまう。だが、手を開いたり閉じたりすることは単純なことであり、混乱させられるようなことではない。手の動きは実にたやすく起こる。

観念的に地図として表現すれば、ある特定の瞬間に手を開こうとする衝動、開こうという欲求、開くことのできる能力、その行為の実行は、無数の原因と条件に左右され、また、無数の原因と条件の結果だということができる。手を開くという行為は、もし脳や筋肉や神経がなければ起こりえなかったが、その脳や筋肉や神経も、消化器系や肺がなければ、そして日光や水や空気や両親や祖父母、それに祖父母が生きるために必要だった食物、食物の栽培を可能にした土壌などなど、どれが欠けても存在していなかった。つまり、手を開くということは、宇宙全体が今の通りに全くそのまま存在していなければ、この瞬間に起こりえなかったのだ。

そして、自分がこの行為を開始して生み出した本人だと主張している「あなた」がどこにいるかを、気づきをもって注意深く探そうとしたとき、実体があって持続するような、行為から分離した何かを実際に見つけることができるだろうか? 「あなた」というものは、一種の頭の中のイメージ、ストーリーの中の登場人物であることが分かる。つまり「あなた」とは、絶えず変化し続ける思考、ストーリー、学んで習得した信念の集合体なのだ。「私はこれこれで、自由意志を持っている個人です。私の性別は〜で、年齢は〜で、〜の階層の出身で、〜という民族で、かくかくしかじかです。私は自分の思考を考えている人で、自分の行為を行う人で、自分の選択をする人で、この身体・精神の舵を握っている管理者で、船を支配し操舵している者です」というように。だが、この管理者を実際に見つけることはできるだろうか? 実際に注意深く調べてみると、あらゆる行為の源には、まったく何もないように見える、もしくは完全にすべてがあるように見える!

と言っても、人が思いのままに手を開く能力を認めないのは馬鹿げているだろう。というのは、明らかに、その能力は存在しているからだ。だが、その行為はどこでどのように始まるのだろうか? 行為を開始する「あなた」とは誰だろうか? その衝動、決定、実行する能力は、どこから来ているのだろう? その源を見つけることはできるだろうか? あなたは、自分の次の思考、あるいは次の衝動がどんなものであるか知っているだろうか? あなたは音楽や食べ物に関する自分の好み、自分の性的嗜好、あるいはこのウェブサイトを訪れる元になった興味を、自分で決めただろうか? あなたは、どのニュース発信元や情報源が信頼できて、どれが信頼できないように思えるのかを、自分で選べるだろうか?

もっと詳しく調べてみると、「自己」とは永続的な何かではなく、絶えず変化し続けるプロセスと言ったほうがふさわしいということ、そしてこのプロセスは宇宙全体から切り離せないということが分かる。内側と外側、自己と他者の間には実際には境界はないということが分かる。私たちは、自分たちの行為を、自分で選択したものとして表現することもできれば、生の流れの中での選択を超えたできごととして表現することもできる。だがこのどちらも、言葉や概念では決して捕えることのできない現実を言葉で説明しているだけだ。

人生の目的というものは、人生の現実の上に付け足された観念だ。この今の瞬間の現実は、ただ在る。思考は、無数の目的をひねり出すことができる。だが実際は、これが何であるのか、なぜ起こっているのか、次に何が起こるのかを私たちは知らない。私たちは現実に関する考え、イメージ、ストーリーや地図を持っていて、そのいくつかは役に立つものだが、実際、私たちは知らない。知っていなくてはいけないと考えるときだけ、これは恐ろしいことのように聞こえる。目的地に着くには何時のバスに乗るべきか、といった実用的なことを知っておく必要はあるかもしれない。だが、この宇宙がなぜ現れているかということを知る必要はあまりない。それはただ在るのだ。

もしあなたがオリンピックに出るために練習をしている選手だとしたら、選択と対応能力と自信を付けるといったことを強調する地図をおそらく使うだろう。もしあなたが現実の本質に関して話しているのであれば、それは私がこうして書いているような場合だが、分離した自己は存在しないということや、起こることすべてに選択はないということを強調した地図を使うだろう。あなたが依存症から回復しつつあるとしたら、無力さを強調する方法か又は選択する力を強調する方法を見つけるだろう。どちらも役に立つ。現実の「唯一の真実の地図」は存在しない。まさにその本質として、地図 (言葉、概念) というものは、抽象的かつ二元的で、また、実際にはそこから何も切り離されていない、分割されておらず継ぎ目もない流れであるものを、固定した形で表現したものだ。主体と客体はひとつの出来事だ。主体と客体は、言葉や実体のない概念的な境界線によって、思考の中でだけ分割されているかのように感じられる。実際には、運命づけられるような何かも、自由意志を持ち得るような何かも存在していないのだ!

私たちのすべての混乱は地図の中にある。私たちが探し求めているものは、すでに目の前に存在している。それは土地そのものであり、これ・ここ・今であり、それは不可避で完全に明白であり、絶えず変化するものであり、絶えることのないものだ。地図 (案内図としての) でさえもが、土地のひとつの側面だ。地図を作るということも、宇宙がしていることのひとつだ。そこから除外されるものは何もない。だが、もし自分が自由意志や選択や人生の目的といった架空の問題によって、麻痺したり、こんがらがったり、絶望していたりすることに気がついたら、この瞬間の音や感覚、在るもののシンプルさ、そしてそれらすべてを見守り耳を傾けている広大な静寂にただ戻ろう。本当にそれほど簡単なことなのだ。

== 翻訳は以上 ==

自由意志があるかどうか、という問題はそもそも架空の問題だということが腑に落ちた。神経科学の援護射撃もはじめから必要ないし、気にすることもなかった。かなりすっきりした。

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自由意志はあるか ジョーン・トリフソン」への4件のフィードバック

  1. ヒロさん、こんにちは。
    いつもたくさんの翻訳をありがとうございます。

    この文章は読みながら、すごい、すごい、を何度も呟いていました。
    英語を読むことすら出来ず、翻訳の大変さも分からないのですが
    読解力に自信のない私も読めるよう平易な形に翻訳してくださったこと、どうもありがとうございます。

    ちょうど今後のやりたいことはなんなのかを悶々としておりました。
    このジョーンの文章を読んでなんだかスッキリした感覚を大切にしたいなと思います。

  2. はじめまして。
    いろいろ拝見させていただいております。

    それで、よろしければご意見を伺えればと思い こちらに記ささせていただきます。

    というのは・・・
     つまりは 全ては架空であり・・・
    というとこまではまったくOKなんですが、最後に残った “ストーリー” が 何なのか、ヒロさんは どう捉えられていますか?

    いま ここ に展開し続けて知覚されている現象や精神的感覚に 実体が無いのは まあ まったくそのとおりだとして、 それにしてもそこに残る ストーリー性 というのは その本質は何なんでしょう?

    原因も結果もなくただ展開している、 とはいいながら 関連性をみせながら知覚され続けている 人生という物語・・・

    存在の本質は ストーリー性なのでしょうか?

    ひょっとして、 意思 = ストーリー なのかな??

    う~ん、 これをクリアすれば コンプリート! な雰囲気なんですが・・・ 
    あと一歩というところで スッキリしません。。。

  3. satoruさん、こんにちは。

    ストーリーとは何かというのは僕はほとんど考えたこともないので、どうにも答えようがありません。

    ただ、それを気にするのはなんとなくジョーン・トリフソンが言う「地球の端から落ちたらどうなるか?という問題に答えようとすること」に近いものなのかなという気はします。

    「コンプリート」したいと思っているのは誰なのか、何なのか、というところを見てみると、意外なことが起こったり起こらなかったりするかもしれないと思いますが、適当なので気にしないでください。とりあえず聞く人を間違えていると思います(笑)

  4. コメントありがとうございました。

    確かに、答えを探す意味もない問いだったかもしれませんね。

    無限の可能性から、何かが ストーリー という概念を引っ張りだして戯れていただけかもしれません。

    この思考を発展させずに、これはこれとして ただ 気づいていてみます。

    ありがとう!

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