気づきの単純さ ジョーン・トリフソン

 
Awakening Clarityというブログがある。Fred Davisという人のブログで、目覚めや非二元性のことを扱っている。

そのブログに、ジョーン・トリフソンがゲストとして最近寄稿した文章がある。その文章の翻訳の許可をジョーンとフレッドの二人からもらった。紹介したい。冒頭のジョーンを紹介する部分は割愛した。

How Simple Can This Be?

== 以下、翻訳 ==

どこまで単純でありえるだろう?

この身体・精神の中でたった今何が起こっているだろうか? コンピューターの画面の上の言葉を読み、音を聴き、いろいろな形と色を見ながら、呼吸をしている。他にどんなことが起こっているだろう? 期待、好奇心、興奮、退屈、落ち着かなさがあるだろうか? 少しだけ止まって、たった今どうなっているか気づいていることはできるだろうか? 何をも変えようとも正そうともしようとせず、ありのままのこの瞬間のそのままの現実にただ目覚めながら。

車の音、鳥の鳴き声、上空を飛ぶ飛行機、サラサラと木の葉を揺らす風、別の部屋にあるテレビ、こどもの声、吠えている犬。形、色。息の動き、椅子に接している感覚、肌に優しくあたる涼しいそよ風、足のぴりぴりする感じ、あるいは腹の不快感や喉の緊張、もしかしたら不安や不満の漠然とした感覚、そしてマインドに現れるこれらの言葉。

この今起こっていることに努力は必要だろうか、それともすべてはそれ自体で努力なしに起こっているだろうか?

この瞬間はまったくシンプルで複雑なことは何もなく、完全に明白で、まったく不可避であり、努力なしでただ全くあるようにある。どのようになっていようと。困難だったり不快だったりするかもしれないが、それについて考えはじめるまでは、現在の瞬間にややこしいことは何もない。

そして突然、私たちは自分が全体から切り離されてしまった分離した断片だと考えはじめる (そしてそれを信じはじめる) 。私たちは迷っていて、何かが欠けていると感じる。あたかも、すべてを解き明かして自分がいる場所よりもっと良いどこかに行かないといけないかのように感じられる。私たちは必死になって自分を改善して、誰かになろうとする。私たちは死を恐れる。この身体・精神は実体があって持続するものであり、その他の宇宙から切り離されているのだと想像しながら。私たちは自分が持っていないものを渇望し、自分であるものに抵抗する。思考の作り出した無意味さという妖怪を恐れながら、私たちは必死に意味を探し求める。意味を探せば探すほど、すべてはより無意味であるように感じられる。

どうすれば解放に至れるか考えようとするが、考えれば考えるほど、混乱と疑いの中でこんがらがってしまうように思える。自己から解放されようとするが、それが可能だとは思えない。非二元的な経験 (それをどのように想像するにせよ) をしようと頑張って、その経験が永久に続くように努力するが、そのかわりに繰り返し現れるように見えるのは、失望、不満足、欲求不満、それに疑問だ。

こうしたことすべてをどうにかしようとしたり、慰めになるような新しい哲学や元気になるような行動計画を見つけ出そうとしたりするかわりに、完全にシンプルでまったく無理のないもの、この瞬間に起こっていること、ありのままのそれに気づいていることはできるだろうか?

ここで今気づいているということが、門のない門、天国の鍵、真の悟り、完全な解放だということはありえるだろうか?

もちろん、悟りや解放や天国の鍵というようなものは、いろいろな意味をもった観念であり、そうした観念によって、ある種の希望に満ちた興奮と期待が即座に引き起こされかねない。だから、想像上のことに関する劇的で現実離れした考えに夢中になるかわりに、まさにここ、たった今のありのままのシンプルさに戻ろう。

どうだろうか?

急いでラベルを貼ろうとしたり概念的な説明をしようとするかわりに、この現在の瞬間のそのままの現実、言葉では表せない現実にシンプルに気づいていることは可能だろうか?

もしマインドが「分かった。これはいいね。で、次は何をすればいい? 悟りと完全な解放はどこにあるんだ?」と言ったとしたら、そうした思考は思考として聞いておいて、音や身体の感覚や呼吸の非概念的なシンプルさに戻ることはできるだろうか?もっと重要でもっと良いものを望む気持ち、今ここにあるものから逃げ出そうとする衝動を感じて、そうした感情や感覚がここにあるのをただそのままにしておくことができるだろうか?

もし、他人の観念を採用するかわりに、現実の性質を探究することに関心があるのであれば、自分の今ここでの実際の直接的な経験を探究することはできるだろうか?

この現在起きていること (いろいろな音、感覚、思考、感情、形、色) には、議論の余地のない変化と多様性がある。だが、聴くことと見ることと考えることの間には分離が存在しているだろうか? 気づきと気づいている内容の間には分離が存在しているだろうか? それともそれらは、一つの全体的な継ぎ目のない変化する絵、絶えず変化しているが常にある〈ここ・今〉の中で、すべてが一緒に現れているだろうか?

この現在の経験を「している」とされている誰か、聴くことや考えることを「している」とされている誰かを見つけようとした時、舵をとっている誰かもしくは何かを実際に見つけることができるだろうか? それどころか、舵や中心を見つけることができるだろうか? 「私の身体」の内側に封じ込められている「私」がいて、外側にある「世界」を見ていて、この身体・精神を操って生活し、思考を生み出し、自分で意思決定し、人生をどう生きるか選んでいる、という観念があるかもしれない。この「私」は、身体の中で生きている一種の魂のような存在であり、意識の独立した単位だと考えられている。だが、この切り離されて封じ込められている存在というものが、ただの観念、頭の中のイメージ、思考、ここで何が起こっているかということについてのストーリーにすぎず、それは身につけたものにすぎないということが、たった今認識できるだろうか?

あなたの「身体」でさえもまた、観念、頭の中のイメージであり、それはあなたの身体でないとされているすべてのものから実際には切り離すことのできない、絶え間ない動きに他ならない何かに関する観念的な抽象概念なのだ、ということが分かるだろうか? もしこれが到底信じがたいと思えるなら、目を閉じて、音と身体感覚にしっかりと注意を向けてほしい。そうしているとき、「あなたの身体」の見かけ上の個体性と独立性に何が起こるだろうか? 直接の経験の中で、「あなた」がどこで始まりどこで終わるかという場所、自分の内側と自分の外側の間のその境界線を実際に見つけることができるだろうか? 境界について考えることはできる。境界を思い描く (あるいは想像する) ことはできるだろう。だが、実際に見つけられるだろうか? 実際に境界は存在しているだろうか? 車の往来の音はあなたの内側にあるだろうか、それとも外側にあるだろうか? そこに違いはあるだろうか?

もちろん人には、機能的には、自分がいる場所や境界の感覚、特定の身体との同一性の感覚がある。こうした感覚は必要な場合にいつもここに生じる (脳に深刻な損傷を受けていない限りは) 。だから、自分の名前は分かるし、指を切り落とさずにニンジンを切ることもできるし、どの口に食べ物を入れればいいかも分かるし、さらに、自分の犬とコンピューターをどうしたら区別できるかも分かる。継ぎ目がなく境界もない単一性に目覚めるということは、「すべてはひとつ」だからと、昼食に犬の糞を食べるとか、走っているバスの目の前を歩くというような間違いを犯すということではない。

単一性に目覚めるというのは、単に、思考や観念に騙されず、蜃気楼と現実を取り違えないということだ。そして、目覚めは今でしか起こらない。永遠に目覚めている人、というようなことはありえない。だから「あなた」が魔法のようなゴール線を越えれば、その後はいかなる蜃気楼も現れず、騙されるということは二度となくなる、と想像してはいけない。騙されるということには何の問題もない。思考がそれを個人的なこととしてとらえ、それを「私に関する」ことであり「私の」問題だとして扱う時だけ、そのことが問題になるのだ。

考えるということは、この継ぎ目のない非二元的な出来事のひとつの側面だ。考えることは勝手に起こる。次の思考がどんなものになるかということでさえ、あなたは知らない。思考はひとりでにポンと現れる。時には役立って創造的な思考であることもあるし、時にはぼんやりとガムを噛んでいるような感じの思考もあるし、時には、二元的な妄想を作り出して苦しみと絶えることのない混乱を生む、自分中心の強迫的で混乱し堂々めぐりで問題のある思考、たとえば「私は自分の人生すべてをダメにした。誰も私を愛していない。私は出来損ないだ。世界は地獄に落ちる。私が正しくて、あなたが間違っている。あなたが私の人生をめちゃくちゃにした。私は悟っていないし、多分悟ることは決してないだろう。ずっと感じている不安はどうやったら消えるだろう? もし〜だったら? 〜さえ〜だったら。たぶん〜すべきなのかも・・・」という思考もあるかもしれない。

私たちは、自分がこうした不快な思考を考えるのを止めることはできない。それはうまくいかないのだ。だが、私たちが実際に起きていることにきちんと注意を向け始めると (起きていると自分が考えていることに注意を向けるのではなく) 、思考と信念の中での催眠状態から目覚め始める。思考によって、どのように仮想現実、頭の中の抽象概念、地図の世界が作り出されるかということに気づきはじめる。私たちは自分の思考に疑問を持ち始め、思考が絶対的に真実であることは決してなく、たいていの場合は相対的な意味においてでさえ真実ではないということを認識しはじめる。考えることと、知覚することや感じることの間には違いがあることに気づき、その違いを意識するようになる。感じることには痛みも含まれるものの、苦痛を感じたり混乱したりする時は必ず思考がそこにあるということに気づく。そして、切り離された自己という蜃気楼が姿をあらわすのも、思考があるからだ、ということに気づく、

思考は、単一性と対立する悪の勢力のようなものではない。だが、思考によって作り出された仮の現実の中にだけ、二元性、衝突、混乱、分離といったものがある。これが、思考が思考だということに気づいているということに、多くの教えが多大な力点を置いている理由だ。だが、二元性という見かけでさえ、単一性が二元性として現れたものにすぎないということを認識することは役に立つ。思考は追放しなければならない敵ではないし、目覚めは二度と考えないということを意味するわけでもない。目覚めとは、仮の現実の中での催眠状態から、ここで今この瞬間目覚めるということなのだ。

何が目覚めるのだろうか? 何が思考を思考として認識するのだろうか? 目覚めている時の人生という映画全体、私たちが同一化している「私」という登場人物や絶えず変化し続けるストーリー展開やドラマを含むその映画全体を眺めているのは何だろうか? こうしたこと全てはどこで起こっているのだろうか? 気づきは身体の内側に存在しているのだろうか、それとも、身体が気づきの中で現れているのだろうか? 気づきには、大きさや形や性別や年齢があるだろうか?

私たちが朝最初に目覚めるとき、自分の名前、役割、ストーリーを思い出すのに実際はコンマ何秒か時間がかかる。復元が起こっていることを認識できることさえ時にはある。そして毎晩深い睡眠の際に、すべては再び消える。世界は消え、ストーリーは消え、問題は消え、そうしたことすべてを気にしている人である「私」が消える。知覚できるもの、考えられるものすべてが消える。目覚めている時の人生というこの映画の中の存在や出来事は、実際どれだけ確かで実体があって現実でありえるだろうか? それらすべての中心にいる「私」はどれだけ現実でありえるだろうか?

無限性と一体性に目覚めるということは、日常生活を退け、世界を「ただの幻想」として無視するということではない。そうではなく、それらすべてをより大きな文脈で、より柔らかいやり方で見始めるのだ。いろいろな存在は確かな何かであって、固定していて、この気づいている実在から切り離されて「向こう」にあるのだ、と考えることなく。そして、この気づいている実在が分離した身体・精神の中に閉じ込められているとか、架空の思考者が「私の人生」をコントロールしている、というような想像をすることがなくなる。

疑いと混乱でいっぱいになっていると感じるたびに、疑うことのできることすべてを手放し、何が残るか見つけ出してみることを薦めたい。自分にとって絶対的に確かなこととは何だろうか? どうやっても疑うことのできないこととは何だろうか? 存在していることについて、信じるということが必要ないものとは何だろうか?

私たちは、ここに今いるということを否定できない。できるだろうか? この非個人的で気づいている存在のことだ。存在しているのは何かとか、気づいている主体は何かということについては、そのどんな考えも疑うことができる。だが、ここにいて、ここにいることを知っている、というそのままの事実を疑うことはできない。そして、この現在起こっていること (聴くこと、見ること、感じること、考えること) を否定することもできない。この起こっていることに関する表現や説明なら疑うことができるが、それがあるという現実、その本質を疑うことはできない。

どんな信念も必要とせず、疑うことのできないこれ、〈ここ・今〉 (もちろん私たちはここから離れたことは一度もない) のシンプルな現実に私たちが「戻る」とき、自己も他者も二元性も問題も存在していない。あるのは単にこれ、あるがままのこれだ。

今の瞬間に経験していることに注意を向けることによって、ただこの常に存在し絶えず変化を続ける出来事があるだけだということ、この今経験していることの中心には誰もいないということが分かりはじめる (中心に誰かがいるように思えることが時にはあるとしても) 。私たちは、このやむことのない展開は決してどこかに向かうということはないということを理解する。それは、この展開は常に〈ここ・今〉にあるからだ。この今起こっていることは明白であり、免れることができないが、それと同時に、掴むことができないものでもある。

そして、私たちはこれを掴む必要がない。単一性というのは、私たちが「手に入れ」なければならないようなものではない。単一性は、私たちがそれであるものだ。それが、存在するすべてなのだ。

だが、自分は単一性から切り離されていると思うたび、疎外されていて、傷つきやすく、何かが足りないと感じる。ここには欠けていると思える何かを私たちは探しはじめる。海を探し求めている波、一度も水を経験したことがないと言い張っている波と同じだ。他の人が到達した素晴らしい意識状態や、すべての苦しみと混乱を超越した状態を想像し、私たちはその架空の約束の地に達することを望む。その約束の地を追いかけるのは、砂漠の中で蜃気楼の湖に向かって走るのと同じだ。見込みはない。

だが、これは実は厄介なことではない。というのも、私たちが現実に関するこの誤ったイメージから目覚めるとき、欠けているものは何もなく、壊れているものは何もなく、悟ったり悟らなかったりするような人は存在せず、失われたり見つけられたりするようなものもないということが分かるからだ。海が波として現れているということの他にはこれまで何もなかったのだ。蜃気楼の湖に向かって走るということさえ、海が波として現れていることにすぎない。

この認識は、覚醒、悟り、解放などと呼ばれることもあるが、こうした言葉はさまざまな混乱を生み出す。それは、マインドにはある種の達成や永遠に続く経験を思い描く習慣的な傾向があり、マインドはその空想上の達成を個人的なものとしてとらえ、悟っている「自分」、あるいは悟っていない「自分」というものが存在していると想像する傾向があるからだ。それは考え違いだ。私たちは、波が海を探し求め、どの波が最も湿っているかを判断するという呆れるほど滑稽な冒険に戻ってしまう。

悟りとは、晴れの日が永遠に続くということではない。晴れの日が続くことはないし、曇りの日もそうだ。それに、晴れた空と曇った空の間を行ったり来たりする「私」は存在していないし、陽光の中で永遠に安定しているような「私」も存在しない。ただ天気があるだけで、そこには天気の持ち主もいなければ、天気を操る誰かも存在しない。雲と陽光は分けることのできない一つの出来事であり、それはコインと表と裏と同じことだ。

単一性はすべてを包含している。単一性は、光と闇、上と下、悟りと迷妄、明晰さと混乱、考えることと感じること、夢みることと目覚めること、修練することとしないことを包含している。それは、深い睡眠と目覚めているときの人生という映画 (もしくは複数の映画) を包含している。それは、想像と空想を包含している。単一性とはすべてであり、すべてが単一性だ。単一性の外側には何もなく、単一性でないものは何もない。

これは、ヒトラーが悟っていたという意味ではないし、私たちが椅子と机を区別できないという意味でもない。ただ、私たちが実用的、慣習的にヒトラーや椅子として参照し、ヒトラーあるいは椅子だと考えているものは、実際には他のすべてのものから独立して存在する固定したものではない、という意味だ。見かけの上でのすべての存在は、動きと変化にすぎず、すべてのものは他のすべてのものから切り離すことはできない。ヒトラーと切り離された「私」は存在しないし、永遠に悟っていたり永遠に考え違いをしているような永続的な「誰か」は存在しない。唯一の永遠は今であり、今が同じ状態であり続けることはない。

こうしたことは全部、もし知性だけで解釈し、思考で理解しようとすれば、とても難しく抽象的であいまいなように聞こえるかもしれない。だが、今の瞬間に起こっている経験にただ注意を向ければ、ものごとは実際にそうなっているのだということがより微妙な形でだんだん明白になってくるだろう。だが、それは「私に」とって明白になるわけではない。そうした思考はまた、架空の主体、行為から切り離された架空の行為者を差し挟むものだが、現実には (私たちの実際の経験においては) 、そうした主体や行為者は実は存在していない。一度もだ。直接的な経験では、それについて考えなければ、見られるものから切り離されている見る人は存在せず、分割されていない見るということが起こっているだけだ。

非二元性は、「私」が二度と混乱することがない人、人間的な欠点もなくなった人になる、ということとは関係ない。非二元性とは、「私」がマインドフルな実在という特別な境地に24時間あり続ける人になる、ということではない。「私」にはもう自己がなくなったということではない。「私」が、自分は誰でもないということに常に気づいている「誰か」、ある種の特別な経験としての非二元的な無限性に常に気づいている「誰か」、蜃気楼に二度と騙されない「誰か」、自分が何かに封じ込められているとか切り離されているという映画のストーリーに二度と巻き込まれない「誰か」になる、ということではない。永遠に悟っている人という概念そのものが、悟りによって乗り越えられたとされるまさにその考え違いを前提にしているのだ。

では、私たちは頭の中でこうしたことすべてを解き明かそうとするのを止め、自分がいる場所のまったくのシンプルさにただ戻ることはできるだろうか? 車の往来の音、身体の中の感覚、コーヒーの味、吸ったり吐いたりする息、窓を通り抜ける涼しい風。

もしマインドが「それはただの現象の観察だ。それだけでは不十分だ」と言うなら、そうした思考を思考として聞いておいて、思考が描く絵に影響されないでいることは可能だろうか? その思考が描いた架空の絵の中に、分離、二元性、欠乏がある。そしてその中に、何かをもっと欲しがり、特別な何かを求める「私」が存在する。だが、車が走る音の中には、私も分離もない。そこにあるのは、非二元的な絶対、ありのままのそれだけだ。

自分が思考に浸っていたり、頭の中のトレッドミルの上で走っていたり、幻影や蜃気楼と追いかけていることに気がついたら、目を覚まして、何かに向かって走ること、もしくは何かから逃げることを止め、たった今ここにただあることはできるだろうか? 呼吸を感じ、緑色の葉の上できらきらしている雨滴や、側溝の中の雨水に浮かぶ美しいタバコの吸殻を見ることは可能だろうか? そして、人間のほとんどの行動の根底にある不満足と落ち着かなさと不安の感覚がどういうものか、よく調べてみることも可能かもしれない。この不満足の感覚がただここにあるままにし、そこから逃げることも解決する方法を探すこともなく、ただその感覚を感じて、その感覚に伴う思考を思考として見て、そのすべてが展開し、姿を現し、勝手に消えていくのをそのままにしておくことはできるだろうか?

この、ここに何があるかにかかわらず、それにオープンでいるシンプルな目覚めの中で、私たちはすべてが〈ここ・今〉に含まれていることに気がつく。裁きや欲望でさえもが、抵抗や探求でさえもが、そして「これは違う」とか「私は自分の人生をダメにした」というようなよくある思考を生み出す人間のマインドでさえもが、すべてがここにあることを許されており、そのすべてはただ単にひとつの一時的な現れであり、単一性が形作るひとつの一時的な形にすぎない。そこには個人的なものは何もない。そこには問題となるようなことは実際何もない。

この存在がそれ自身に目覚めるとき、あらゆるものに対する愛が生じる。この無条件の愛、この無限の気づき、この開かれたハートによって、嫌悪と無知は消える。嫌悪と無知は、それを非難することによってではなく、それと戦うことによってではなく、それをコントロールしようとすることによってではなく、それを非個人的に起こることとして受け入れることによって、そして生が実際どうなのかということに光を当てることによって (こうであればいいのにとか、こうであるべきだとか、こうであったかもしれないとか、こうだったのにといった思考に没頭するかわりに) 、消える。

そして忘れてはいけない最も大切なことは、目覚めるということは常に、たった今、まさにここ、ということに尽きるということだ。目覚めるということは、どこか別の場所にあることはなく、昨日起こったことでもなく、状態が違ったりましだったりするどこか未来の時点での話でもない。それは、ただこれ、ありのままのこれなのだ。

どこまで単純でありえるだろうか?

== 翻訳は以上 ==

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