シフトという魅惑

 
何らかの気づき、覚醒、悟りについて語るということはトリッキーだ。

話す方はそれを非個人的なもの、ストーリーを越えたものとして話していても、受け取る方は往々にしてそれを個人的なもの、ストーリーの中にあるものとして理解する。

昨年ロジャー・リンデンのフィンドホーンでのリトリートに行った際、参加者の一人のイギリス人女性と話している時に、そのことについて何度か気づかされたことを思い出す。

彼女はいわゆる一瞥を体験した人なのだが、僕が「あなたがそれを認識したときには〜」と質問しようとすると、「私が認識したのではなくて、ただ認識が起こったのよ」と何度も繰り返した。

「そうは言っても、その認識について語っているのは目の前にいるあなただし、あなたが認識したというふうにしか感じられない」と言うと、「そうね。まさにそこがポイントなんだけど」と困ったような面白がるような顔をしていた。

昨日、ロジャーとの今回二度目のセッションに行ったとき、同じことを質問した。非個人的な覚醒、非個人的な認識と言いながら、なぜそれはいつも特定の人物の口から語られるのか、と。

ロジャーの答えはこんな感じだったと思う。

「(自分を指しながら)ここに誰かがいて、(僕を指しながら)そっちにも誰かがいて、こっちの誰かとそっちの誰かが会話をしているということであれば、そういう質問も成立するかもしれない。でも実際には、ここで起こっているのは経験であって、その経験をしている「人」は誰も存在してないんだ。

質問をしているという経験が経験されていて、答えが特定の身体 (それも実際には観念なのだが) から発せられるという経験が経験されているだけだ。

誰かがそこにいるという証拠はない。本当にない。

夢の中に誰かが出てきて、その人だけが真実を知っているかのように話しているとする。でも、それは、誰かが存在しているということではない。ただ、そのような経験が起こっているように夢の中では感じられる、というだけなんだよ。

ここで起こっていることもそれと同じだ」

でも理屈の上ではそうかもしれないが、そうは感じられないと言うと、

「シフトが起こったとき、自分が身体の中の存在だなんていう実際には何の根拠もないことをどうしてずっと信じていたのか、奇妙に思った。それと同時に、そのことをずっと知っていたこともすぐに分かった。もちろんそうだった、と」

という感じのことを言っていた。

そんなことを話しているうちに、前日までの愉快な気分が消えて、「ああ、分かりたい!」という渇望がよみがえってくるのを感じていた。

その後、夜のミーティングにも参加した。15人ほどが参加していた。

同じようなことがロジャーによって語られ、同じような質問が出ていた。結局のところ、シフトもしくは覚醒が起こらなければ、このことは認識されないし、それが起こるかどうかは全くコントロールを超えているから、どうにもならないという雰囲気になっていた。

途中、沈黙が続くと、自分の身体感覚が変わるような気分を何度か味わったが、それはロジャーのミーティングで以前にも感じたもので、「どうせミーティングが終われば消える」と、どこかで冷めていた。

ホテルに戻り、最新の記事の翻訳許可の件でジョーン・トリフソンにメールをしたのだが、ロジャーのところに行ったら探求と渇望のエネルギーが思いっきり戻ってきたということを書いた。

今朝彼女から返事が来ていた。思わず吹き出して、すぐに楽になった。こんな返事だ。

「もう、まったくあのシフト連中と言ったら!

探究すべき本当の質問は、シフトするのは誰なのか、誰がそんなことを気にするのか、ということじゃないかしら。

その質問を探究すれば、シフトは自分にも起こるのかなあというような懸念は、蜃気楼のような分離した自己という視点からしか出てこないし、そういう懸念はいつも幻の自己を参照しているんだ、ということに気づきはじめるでしょう。

全体という視点からしたら、どんなシフトも〈永遠に続く一つの踊り〉の中の非個人的な動きだし、そこには踊っている人はいないのよ」

ということで、ロジャーは実際にはシフトを個人的なものとして話していたのではなかったのだろうが、自分は確かに個人的なストーリーの中で起こるものとして受け取った。

そのあたりが、この時々「かくれんぼ」に喩えられるゲームの面白さであり、馬鹿らしさなのかなと思う。

広告

シフトという魅惑」への1件のフィードバック

コメントは受け付けていません。