死と不死 ジョーン・トリフソン

 
ジョーン・トリフソンのウェブサイト(joantollifson.com)にある文章を翻訳して紹介するシリーズの続き。今日は死に関するものだ。

Death and the Deathless

== 以下、翻訳 ==

死と不死

死とは、灯りを消すということではない。死とは、夜明けが訪れたからランプを消すということなのだ。
ラビンドラナート・タゴール

世界の一部が世界を去ることができようか?
水分が水から離れることができようか?
ルーミー

これまでに失われたものは何もない。以前物質という形をとったものは、今は、その「記憶」という形をとっている。
ルパート・スパイラ

鐘消えて花の香は撞く夕哉
芭蕉

一滴の水は、蒸発すると、無限となる。どんなものにも死というものはない。あらゆるものは、終わって無限となるだけだ。生まれ変わりという考えは観念だ。というのは、何かが生まれ変わるためには、何かが死なないといけないからだ。何が死んだだろう? 何も死んではいない。生まれ変わるべき誰かが存在するだろうか? 誰も生まれた者はいないの。
ニサルガダッタ・マハラジ

私が死んだら何が起こるだろうか、という問いは、私が立ち上がったら私の膝上に何が起こるだろうかとか、私が手を開いたら拳に何が起こるだろうか、という問いと同じように、実に見当違いだ。
ラメッシ・バルセカール

身体は存在している。もしくは存在しているように見える。それはあなたが死があると信じているからだ。身体と死は、同じ幻想の一部だ。
エックハルト・トール

輪廻は空想です。存在が、繰り返され得るような形をとったことは一度もありません。存在は永遠に形を成しません。宇宙のはるか向こうにある銀河が変化することは、私たちの身体とマインドが変化するのと同じ変化という出来事です。こうした変化によって何かが形を成すということは決してありませんでした。それは変化と流れにすぎません。何か他のものになるものは何もありません。あるのは、形を成さないまま在り続ける、形のない一つの壮大な実在だけです。
ダリル・ベイリー

私たちが免れることができないと考えていること ― 生まれることと死ぬこと ― は、目覚めた者にとっては、不動のものの中で動きが表現され、不変のものの中で変化が表現され、無限のものの中で終わりが表現される、ひとつの様式であるにすぎない。目覚めた者にとっては、生まれるものは何もなく、死ぬものは何もなく、継続するものは何もなく、変化するものは何もなく、すべては時間を超えてあるがままにある、ということは自明のことなのだ。
ニサルガダッタ・マハラジ

永遠の命がありえるかどうかとか、このマインドあるいは自己は存続するのかどうか、という問いは、はじめからあなたである他のすべてのものを無視するものだ。死についての問いは、収縮した状態からしか尋ねられることはない。そうした問いは、全体からすれば意味を持たない。
スティーブン・ハリソン

永続するものが何もないのであれば、何が永続しないものでありえるだろうか?永続するものと永続しないものの両方があるのだろうか? それとも、どちらも無いのだろうか?
ナーガルジュナ

あなた方は毎日の一瞬一瞬を、深く、生の驚異に触れながら生きることができます。そうすれば、生きることを学び、それと同時に、死ぬことを学ぶことができるのです。いかに死ぬかを知らない人は、いかに生きるかを知りません。その逆のことも言えます。あなた方は死ぬこと、直ちに死ぬ方法を習得しなければなりません。これは修練です。
ティク・ナット・ハン

死について心配するということは、平らな地球の端から落ちたらどうなるだろうか、と心配するのと同じだ。その問題は想像上のものだ。何が死ぬだろう? 何が生まれるだろう?

私の赤ちゃんのボビーが生まれる、という言い方をするかもしれない。でも、ボビーとは何だろうか? ボビーと呼ばれるこの赤ちゃんは、他の生命体の中から現れ、生き残って成長するために、空気、食物、水、他の存在との関係に完全に依存している。ボビーと呼ばれるその絶えず変化する見かけを、意識の外側で見つけることは決してできない。そして、私にとってのボビーがあなたにとってのボビーと全く同じということはない。さらに、私にとってのボビーも、一瞬一瞬同じボビーではないのだ。おどけているときもあれば、イライラしているときもあれば、寛大なときもあれば、自分本位のときもある。

素粒子から、有機体、神経化学、感情、認識作用に至るまで、あらゆるレベルにおいて、「ボビー」は不断の流れと非永続性であるにすぎない。と言うより「ボビー」は観念的な抽象概念であり、それは機能的には役立ち、相対的には現実のものではあるのだが、究極的に言えば、ボビーの絶えず変化し続ける実態とは関係ないものだ。地図が、それが表現している土地そのものと関係ないのと同じだ。「ボビー」は抽象的な観念であって、それは胎芽、乳児、幼児、ティーンエイジャー、成人、老人、遺体に、連続性という幻想を与えている。だが、科学的あるいは瞑想的によく探究してみれば、ある瞬間から次の瞬間まで継続するようなどんなものも、実際には見つけることができない。

もしかしたらボビーはある時点で性転換をして、ロバータになるかもしれない。あるいは、ボビーは戦争に行き、手足を失った状態で帰ってくるかもしれないし、もしくは、脳の外傷によって言語や感情や認識の能力が完全に変わってしまうかもしれない。あるいは、25歳のときには荒々しい急進派だったボビーが、65歳になったら頑固な保守主義者になっているかもしれない (又はその逆かもしれない) 。こうしたすべての絶えず変化し続ける動きの中で、「ボビー」がどこにいるだろうか?

最後に、ボビーは死んだと私たちは言う。だが、死んだのは正確には何だろうか? ボビーと呼んでいた何かの現実性を否定することはできない。でも、ボビーを実際に定義することも、ボビーとは何であるか正確に特定することもできないのだ。もしかしたら誕生と死はあらゆる瞬間であり、もしかしたら始まったり終わったりするような固定したものは何もないのかもしれない。

私たちは死を恐れる。それは、私たちが最も大切にしているのは、私たちの存在だからだ。私たちの存在とは、私たちが自分の身体・精神だと考えている観念的な抽象概念と合体させるようになった、気づいている実在の紛れもない感覚だ。だが、この身体・精神は、私たちが考えるような、分離していて継続的な独立した「もの」としては存在していないのだ。

そして、この気づいている実在の感覚は、毎晩深い睡眠の中で消えて、その感覚がなくなったことに気づく人は誰もいない。毎晩、私たちの固有の目覚めているときの人生という映画は完全に止まる。そして、実体のない観客もまたいなくなる。ショーが終わったことに気づく人は誰も残されていない。このことは私たちを元気づけ、若返らせるように感じるが、恐ろしいこととは感じられない。だが、私たちは死について考えるとき、自分が生き埋めになるとか、テレビのスイッチを入れなおして「私というストーリー」で次に何が起こるかを見ることはもうできないのだ、と想像する。この恐れは、平らな地球の端から落ちることの恐れと同じだ。

自然を見るとき、すべてが終わりなく再循環していることに気がつく。そこに終わりも始まりもない。あるのは継ぎ目がなく境界もないひとつの動きで、それは常に〈ここ・今〉にあって、この時間と空間と場所を越えた場所にある。それは、仏教で空と呼ばれアドヴァイタで自己と呼ばれる、背景のない背景だ。

そして仏教の師であるスティーブン・バチェラーが見事に表現したように、「空は状態ではなく道だ」。それは私たちが最終的に理解する何らかの概念ではない。それは、分離と個体性という二元的な幻想から瞬間瞬間に目覚めるということだ。それは、ありのままの生の自由落下の中にくつろぎ、落下している人は誰もおらず激突する地面もないということを認識することだ。

「ボビー」は錯覚が作り出したもので、それはパラパラ漫画のページが作り出す、あるいは映画のコマのめまぐるしい動きの中に現れる、連続性と物語という幻想に似ている。ボビーは全体性のひとつの動きであり、それは波が海の動きのひとつであることと同じだ。ひとつの波と別の波の間には実際には境界はなく、ある波が別の波よりも湿っているとか、別の波よりも水により近いということもない。

私たちの本当の永遠の生命は、死を撃退することにも、身体を永久に生かそうとすることにも、身体を去って天国に行くか新しい身体の中に生まれ変わるかするような個人の「魂」の中にもない。私たちの本当の永遠の生命とは、始まりも終わりもない、継ぎ目のない空に目覚めるということだ。目がそれ自体を見ることができず、手がそれ自体をつかむことができず、火がそれ自体を燃やすことができず、剣がそれ自体を斬ることができないのと全く同じように、あなたがこの無限性を見出すことはありえない。なぜなら、あなたはこの無限性から離れたものではなく、「それ」は理解することができるような「もの」ではないからだ。

この継ぎ目のない性質を認識することは、悟りの門のない門を通り抜けることだ。この門には門がないと言われるが、それは分離という幻想の正体が見抜かれる時、見かけの上での封じ込めという泡がはじける時、あなたは自分がここにいなかったことは一度もなかったことを発見するからだ。そして、どんな門をも通過したような人は決して存在していなかったことも明白だ。何かが欠けていたことは一度もなかった。だがそれと同時に、このことを意識的に認識していることと、分離と欠乏というストーリーによって混乱し我を失っていることの間には、否定することのできない、人生を変えるような違いが存在している。それが、全く門が無いと言うのではなく、門があると言われる理由である。偉大なアドヴァイタの賢者ニサルガダッタが言ったように、「お前の椀は純金でできているかもしれないが、それをお前が知らない限り、お前は乞食なのだ」。

目覚めるということは、死ぬことと同じだ。過去に死ぬこと。既知のものに死ぬこと。自分のあらゆる思考、観念、信念に死ぬこと。自分はこういう人だ、こういうものだと考えているものに死ぬこと。よりよい何かへのあらゆる希望に死ぬこと。すべてに死ぬこと。つかまろうとするあらゆる試みを手放すこと。失われ得るものすべてを失い、何が残るかを発見すること。

== 翻訳は以上 ==

自分の場合、死というものについてあまり真剣に考えを巡らせたことがない。身近であまり死を体験していないかと言えば、そういうこともないと思う。自分のこととして感じたことがない、というのが正直なところだ。

が、面白いことに、この翻訳を終えた後、肉親の死ということについて他の人と話をする機会がたまたまあった。

そして、死というものは常に今あるものなのかも、ということを感じた。

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