ハッピーエンドという幻想 ジョーン・トリフソン

 
ジョーン・トリフソンのウェブサイト(joantollifson.com)にある最新の文章No Happy Endingを翻訳して紹介したい。

No Happy Ending

== 以下、翻訳 ==

ハッピーエンドという幻想

歴史上のいかなる時代と比較しても、現在ほど人類が岐路に立たされていることはなかった。一方の道は、失望とまったくの絶望につながっている。もう一方の道は、完全な絶滅につながっている。私たちに正しい道を選ぶ智慧があることを祈ろう。
ウディ・アレン

生は、単に優しくて心地良い経験ではありません。母なる自然は豊かな表情を見せますが、自らの子どもたちを悩ませることもあります。この頃は、存在の本質として愛と平安が強調され、愛と平安以外のものはある意味で存在の本質を汚すものとして扱われているようです。そのようなあり方は、実際の生のありように対する心構えとしては十分なものではありません。
ダリル・ベイリー

私たちは、常に善くありたいと望み、あらゆる悪を排除しようとします。でもそれは、善というものが、善ではない諸要素から作られているということを忘れたために起こることです。善のみであることはできません。悪が排除されることを期待することはできません。それは、悪のおかげで善が存在しているからです。そして、その逆のこともまた言えるわけです。
ティク・ナット・ハン

ハッピーエンドなど無い。それこそが、美しさなのだ。
カール・レンツ

糞が乾燥してしまえば、その中にいる虫は死んでしまう。虫たちがどれだけ成長していたとしても、関係なく。
ニサルガダッタ・マハラジ

我々は、完全にはなり得ない世界に生きている。何かが未完成で、何かが欠けていて、何かに飢えていて、何かに腹が立つ、という感覚が常につきまとう世界だ。そういう小さな不快感から、拷問や貧困や殺人まで、我々はそうした宇宙に生きている。癒えることのない傷。人間の置かれているこの状況は、それ自体完全なものになることはないという状況だ。だがそこには、出口は無いという救いがあり、この状況の中で動きが取れなくなっているという救いがある。傷が癒されるという救い、適切な治療もしくは間違いのない宗教に出会うという救いのかわりに、出口は無いのだという智慧が確かにある。これが人類の置かれた状況であり、唯一可能な救いはそれを受け入れることだ、という智慧だ。それが我々の状況であって、その現実を完全に受け入れるということだけが唯一の救いなのだ。
レナード・コーエン

私たちの課題が苦痛からの逃避であるとしても、幸福の追求であるとしても、結果は同じだ。生それ自体から逃避し、この瞬間から逃避するという生だ。すると、この瞬間が存在する唯一の答えであり、存在する唯一の自己であり、唯一の教師、唯一の現実であることになる。すべては、はっきりと見える形で隠れているのだ。
バリー・マギッド

あなたであるものの奇跡を認識するためには、あなたがなるであろうものという空想を放棄しなければならない。
ラム・ツー

実在を実現するために、何らかの出来事が起こるのを待っているのであれば、あなたは永遠に待つことになるだろう。実在は現れることも消えることもないからだ。
ニサルガダッタ・マハラジ

悟りや自己の認識というものが、一度きりの出来事であるとか、永続的で一生消えることのない状態や経験であるという考えは、間違った概念だ。
セイラー・ボブ・アダムソン

スピリチュアルな解放によって、自分を完全なものにするという、不幸を誘発する空想から自由になります。この瞬間、私は私であるものであり、あなたはあなたであるものであり、どちらも宇宙のダンスです。解放は、そこから抜け出る行為ではありません。解放とは、それ以外のありようはありえないという認識です。
ダリル・ベイリー

我々の苦しみとは、逃げ道があると信じていることだ。
ソージュン・メル・ワイツマン (私の最初の禅の先生)

私が子どもの頃に最も多く聴いたコマーシャルソングの中に、GEの宣伝でロナルド・レーガンがうっとりさせる声で「進歩は私たちの最も大切な製品です」と歌うものがあった。1950年代と1960年代の初期には、ほとんどのアメリカ人が、物事はどんどん良くなっていくもので、自分もどんどん良くなり続けるのだと考えるのを好んでいた。それがアメリカンドリームで、誰もが幸福を追求する権利を保証されていた。

1960年代に登場したカウンターカルチャーにおいても、私たちは基本的に同じ考えを抱いていた。革命によって、あらゆる形態の抑圧と不正が一掃され、素晴らしいユートピア的世界が実現し、そこでは誰もが大地の恵みを共有し、人種差別も性差別も同性愛に対する差別も階級差別もいかなる不平等も存在しない世界の中で、お互いに助け合うだろうと。

ここ数十年の間に現れたスピリチュアルなニューエイジでも、より輝かしい未来、黄金時代、ニューアースが約束され、その未来においては人類は意識のより高いレベルへと進化し、よりホリスティックでエコロジカルでグローバルな世界観から行動することになるだろうとされた。我々は紛争や分裂や強欲を超越するだろう。古くからの敵対意識は癒されるだろう。人類はモノの消費に夢中になることがなくなり、消費によって突き動かされることもなくなるだろう。私たちは清らかな存在になり、新しく協力的でオーガニックで完全菜食主義で犯罪が存在しないエデンの園で、その後ずっと幸せに暮らすことになるだろう、と。

だが、結局明白になったことは、いくつかの領域では明らかに進歩があったものの、戦争も強欲も殺人もレイプも貧困も憎悪も紛争も飢餓も老いも死も障害も伝染病もあらゆる種類の不正も残っているということだ。更に、極めて明白になったことは、進歩とは何なのかということに関して、人々の間に全く正反対の考え方が存在しているということだ。私たちがどれほど進歩して見識を得ようとも、身体・精神は身体的にも精神的にも激しい苦痛にさらされ続けている。略奪者はこっそりと近づいてきて、獲物を餌食にし、帝国は盛衰を続ける。人類は様々な進歩を達成したように見えるにもかかわらず、地球上のあらゆる生命の脅威となっている、気候変動と環境破壊と人口過剰と抑制のきかない消費という巨人を止めることのできる人は、誰もいないように思える。子どもの頃に私の父が言っていたように、いつか太陽は爆発し、この映画は終わりを迎える。ある意味では私たちはいつもこのことを理解していた。このことは、神の子イエス・キリストが十字架にかけられいばらの冠から血が落ちる、あるいは骸骨のネックレスをつけたカーリーが自分の子どもたちを貪り食うという、宗教的なイメージに表現されている。

一見したところでは、これは恐ろしいことのように思える。でも、もしハッピーエンドがなかったとしたらどうだろうか? 私たちが本当は全くどこにも向かっていなかったとしたらどうだろうか?

もしこれ、まさにここでたった今、この一つの永遠の現在の瞬間がそれだとしたらどうだろうか? もし生がずっと、好ましいものと好ましくないもの、苦痛と喜び、成功と失敗、悟りと迷妄、涅槃と輪廻の入り混じったものであり続けるとしたら、どうだろうか? もし始まりも終わりも無いとしたらどうだろうか? もし存在しているのがただこれだけ、全く今あるがままのこれ、〈ここ・今〉だけだとしたら、どうだろうか?

安堵を感じられるだろうか?

自己改善の追求というものは、もしそれが無価値観や欠如感に根ざしていて、特別な人間になりたいとか太陽の当たる側でだけ永遠に生きていきたいという欲求に駆り立てられているものであれば、それは必ず落胆、幻滅、屈辱、挫折へとつながる。だがそれは実は素晴らしいことだ。というのは、徐々に私たちは、片面だけのコインは無いのだという事実、生というものは完全にすべてを包含し絶え間なく変化する事象なのだという事実に目覚めはじめるからだ。

このことは、あるテーマを思い起こさせる。それは、多くの人が究極のハッピーエンドだと考えている、悟りというテーマだ。スピリチュアルの世界に関して腹立たしく感じることの一つが、世間で人気のある最終的な悟りという神話だ。その神話においては、永続する悟りを開いた人が、永久に続く幸福と至福の状態に永遠に確立し、永遠に苦しみから自由になると信じられている。この悟っている人物という神話では、重大で派手な出来事と体験が強調される傾向がよく見られる。私は、苦しみから自由になることはありえないとか、どんな人も (人生のどんな瞬間も) 等しく明晰であり、迷妄から等しく自由であり、等しく現在にいて、あるがままのシンプルさに等しく目覚めている、ということを言おうとしているわけではない。明らかに、人間の中には (そしていろいろな瞬間の中には) 幅広い範囲がある。だが、どんなに高くても低くても、速くても遅くても、荒れていても落ち着いていても、他の波よりも濡れている波はないし、他の波よりも海に近い波はない。そして、どんな波も、絶えず変化し分割されていない継ぎ目のない海の動きから離れて、いかなる形であれ固有の持続する物体として独立した存在を持っていることはない。完全性 (統一性、タオ、自己、一なる生) が在るものすべてであり、そこから逃げる方法はなく、そこに入る必要もない。人が、最初からずっと自分がそうであったものに近づく、ということは全く不可能なのだ。

人間は、さまざまな経験をする。すべての人が (気質と成長の結果として) 独自のやり方で、自分の経験を後から概念化して構成し表現する。誇張して尾ひれをつける人たちもいれば、最小限に抑えて控えめに言う人たちもいる。私の好む言い方だが、それぞれの身体・精神に (気質と成長の無数の条件付けの結果として) 独特の気候があり、それは地理的に違う場所にそれぞれ違う気候があるのと同じなのだ。シアトルが雨でどんよりとしていることが多く、ロスアンゼルスが晴れていて陽が照っていることが多く、オクラホマでトルネードが多く、シカゴで稲妻や雷雨が多く、フロリダやニューオーリンズにハリケーンが来るのと同じように、生まれつき晴れていることが多い、つまりより落ち着いていてより衝動を抑制できていてより気楽な性格の人たちがいる一方で、生まれつき曇や嵐の多い、つまりより不安や心配や落ち込みや中毒やその種の傾向が強い人たちもいる。状況は変わることがあって、時には状況に著しい変化があることもあるが、特定のパターンが繰り返されがちだ。シアトルが突然ロスアンゼルスになるということはあまり考えられない。だがそれと同時に、シアトルもロスアンゼルスもただの言葉であり、それは、実際にはひとつの分けることのできない継ぎ目のない出来事を、見かけの上でだけ分けているにすぎない。

では、悟りというのは、シアトルがロスアンゼルスになることを意味しているのだろうか、それともそれはこの継ぎ目のない出来事をただ認識することなのだろうか? 明らかに、人々は覚醒、悟り、自由、解放というような言葉を、かなり違うやり方で全く違うことを表すのに使っている。段階的に展開するという経験をする人たちもいれば、劇的な出来事や連続する劇的な出来事を経験する人たちもいる。その後、ありのままの経験そのものが、思考と記憶によって固められ抽象化され、それは「私と私の覚醒というストーリー」(もしくはその裏面のストーリー「まだ目覚めていない私」) というお話の一部となる。最近では、沢山の悟りのストーリーが公開されている。だが、本当の覚醒や悟りの核心は、詰まるところ、実際には分離や二元性というものはなく、主体と客体はひとつのものであり、見かけの上での二元的な経験でさえ、それ自体が経験者も他者も存在しないこの継ぎ目のない性質以外のなにものでもない、という認識なのだ。

明らかに、知覚や意識の状態の様々な転換は起こりえる。曇った日に太陽が姿を現し、あなたがコーヒーあるいはワインを飲み、あなたが誰かと寝て、あなたが海の前に立ち、あなたが七日間を沈黙の中で過ごし、あなたの子どもが車の事故で死に、あなたが更年期を経験する。それは永久に続く転換だ。究極の転換は、すべての転換は一なる生の動きであり、そこには転換の主体となる人はおらず、どんな転換にも実体も固体性も永続性も固有の実在性も不朽の形態もない、と認識することだ。この認識は、「誰か」が時間の流れの中のある時点で獲得してその後ずっと持ち続けるような「何か」ではない。この認識は、まさにその「何か」や「誰か」や「その後ずっと」という幻想が消え去ることなのだ。そしてそれは、その幻想でさえも、〈これ〉以外のものではないという認識だ。蜃気楼のような「私」の視点からのみ、「私」が縄を蛇と見間違えるかどうか、ということが問題となる。だから、究極の転換とは、その究極の転換という観念こそが無意味なおしゃべりに他ならない、と認識することなのだ。

私は誰か他の人の経験を評価しているのでは全くないし、何らかの溶解についての彼らの説明が本当か嘘かとか、控えめか大袈裟かということを言っているわけでもない。だが、「重大な出来事」のことで大騒ぎしていたり、自分は「最終的な悟り」を開いたと言っているのを聞くと、私のでたらめ検知器がすぐに鳴り始めるのだ。私は長年の間、そうした最終的な出来事を追いかけ、私には何かが欠けているとか、何かを脱落させて二度と戻ってこないようにしなければいけないとか、他の人は「重大な大発見」を経験したとか、自分が越えていないゴール線があるとか、他の点では好きな先生たちが私の目の前に未来の人参をぶら下げるとか、そういうストーリーを信じてきた。結局、そうした執着やストーリーや悟りの探求は、すべて消えた。それは、ビッグバンのような決定的で爆発的な出来事の中で消えたのではなく、徐々に静かに感知できない形で消えていったのだ。

「私は悟った」という新しいストーリーに置き換わったわけではなく、〈ここ・今〉は絶えず変化し続け、すべてを包含するものだという理解に置き換わった。偉大な賢者たちが理解したことの中心は、〈ここ・今〉で認識されていることに他ならないのだ、ということを私は今は明確に理解している。これは、あらゆる偉大な賢者たちが経験したことをジョーン・トリフソンがすべて経験した (あるいはその反対) とか、私の心理的、感情的な天気が彼らと同じように落ち着いていて、彼らと同じくらい不安から自由になっているとか、この身体・精神がいつもマインドフルな実在の状態にあるとか、縄を蛇と間違えることは決して二度といつなんどきでもありえないとか、そういう意味ではない。そうではなく、「私」は他の人と比べて幻想に騙されることが多いか少ないかとか、「私」とラマナ・マハルシを比べてどうかとか、分離の感覚が時々戻ってくるかどうか、というようなことを気にするということが、ここでは起こっていないということだ。そういう心配は、今では馬鹿げたことに感じられる。

架空の人参を追いかけるのを止めて、蜃気楼が蜃気楼を追いかけるのを止めたとき、そこには大いなる安堵があった。この脱落は勝手に起こったことで、それによってジョーンという名前の波が、常にずっとそうであったよりも海にもっと近づいた、ということはない。それは安堵ではあったが、そこには何の重要性もなかった。それと、脱落があったからといって、ジョーンの人生から、緊張や不安や落ち込みや動揺や収縮や苦しみやまた別の嵐や曇りの天気がその後永遠に消えたということではない。そこにただあったのは、「ジョーンの生活」というような「もの」は本当に存在しないのだという認識だ。ただ生があり、生はショー全体を包含している。そして今、私の心を欠如感や切望感でかつては満たしたような表現に接すると、それとは違うメッセージを表現するように、自分が生に駆り立てられていることに気づく。最終的な悟りや最終的な悟りを得た人という人参は、私が腹を立てるもののひとつになったようだ。それは、私がかつてそうだったように、他の人たちがそのストーリーによって苦しめられ、いろいろな「目覚めた先生たち」の足元に座り、先生たちが得ていて自分たちが得ていないことがらについて次々と質問したり、もしくはそうでなければ、覚醒という出来事をでっち上げて、完全に悟った人間としての自分の新しいイメージを守ろうとしているように見えるからだ。当然ながら、こうしたことすべても生がそれとして起こっていることであり、それにもしかしたら、その最終的な悟りの公案と格闘する中で、自分を閉じ込めている架空の泡が割れ、問題全部がすっかり消えてしまうかもしれない。

だがここではっきりさせておきたい。これはすべてただの言葉であり、言葉は空想の中で一種の仮想現実をあっという間に描き出すものだ。何かを閉じ込める泡も、分離も、本当には決して存在したことはなかったのだ。存在の分割されておらず継ぎ目のない性質は、ここになかったことは一度もない。すぐ上に書いた、泡が割れるということは、物語の中の最終的な出来事でもないし、ジョーンが越えたゴール線でもないし、それによってジョーンが永久に目覚めた人になったということでもない。それは過去の出来事ではないのだ。それは、たった今ストーリー全体から目覚め、架空の問題の正体を見抜き、いかなる意味でも無かったことも壊れたこともぼやけたことも欠けたことも決してなかったものを認識するということだ。架空の問題ですら、それは架空の問題として現れている、この分割されていない出来事に他ならないのだ。この活動性は私のものでもあなたのものでもない。それは単にこの現在の出来事、そのままのそれ、〈ここ・今〉なのだ。これがそれだ! 今のありようと少しでも異なっている必要があるものなど何もない。

在るもののシンプルさに目覚めているとき、悟りも迷妄も実際には見つけることはできない。どんなかたちであれ、すべてから離れている人は誰もおらず、今を離れたところに永遠はない。改善する必要があるものなど何もないのだ。私たちは、生に動かされ、ジムに行ったり、瞑想を始めたり、ヨガをしたり、車を修理したり、外国語を学んだり、環境保護の活動をしたり、オリンピックに向けて練習をしたりすることがあるかもしれないが、私たちが〈ここ・今〉以外のどこかに行くことはないということは明らかだ。ハッピーエンドは無いのだ。終わりも始まりもない。あるのは、ただこの定義を超えた出来事であり、それはすべてを包含している。

それに、私たちは今までずっとここにいるのだ。ああ、良かった!

== 翻訳は以上 ==

ある意味では辛辣とも思える文章だが、ハッピーエンドを求めなくていいという安堵は少し感じられる気がする。

更に、三つほどの文章について、ジョーンから翻訳の許可をもらった。ゆっくりと少しずつになるかもしれないが、進めていきたい。

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ハッピーエンドという幻想 ジョーン・トリフソン」への2件のフィードバック

  1. いつも楽しみにしております。
    今回の記事がジョーン・トリフソンの中で一番分かりやすかったです。

    俗っぽい質問ですが西洋のアドヴァイタ系の先生たちは本業が別にあるのでしょうか?

  2. こんにちは。知るかぎりでは、本業が別にある人や、すでに財産があるために先生としては収入を得る必要がない人は、少数派のように思います。たいていの人たちは「先生業」になっているのではないでしょうか。

    ただしこれは人前で話をする人たちのことであり、そうした特殊な境遇にある人を除けば、探求が終わったかどうかに関係なく普通の仕事をして普通に生活している人が大多数ではないかと感じます。

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