ジョーン・トリフソンのインタビュー (3) 2004年

 
ジョーン・トリフソンのウェブサイト (joantollifson.com) のインタビュー記事の翻訳紹介の続き。これで完結。(その1その2)

原文 Here Is What You Are

== 以下、翻訳 ==

インタビュアー (以下K): ジョーンが探求をしていたときと今とを記憶で比較すると、大好きなテーマについて話をしたいという気持ちに何か違いはありますか?

ジョーン(以下J): 書いたり話したりすることによって伝えたい、あるいは表現したいという衝動は、自然にここで生じます。以前は、この衝動についていろいろと思案していました。それについて考えたり、果たしてそれは「スピリチュアル的に正しい」のだろうか、どうだろうか、と思いを巡らせたりしていました。なにも話さず黙っていたほうが楽なんじゃないか? 書き続けるべきなんだろうか? 本を出版すべきだろうか? ミーティングをするべきだろうか? これは無限のエゴのゲームで、自分の人生に意味を与えようとするまた別の現実逃避のもくろみなんじゃないか? 自分はこういうことをするほど十分に優れていて、明晰で、目覚めているんだろうか? 自分は偽物じゃないだろうか? お金を取るべきだろうか? こういうことをして生活していけるだろうか? こういうことをすることを私の先生は許してくれるだろうか? というようにです。

いまは、話すことや書くことはただ起こります。明日になったら全部起こらなくなるかもしれません。どうなるかは分かりません。それが「スピリチュアル的に正しい」かそうでないか、ということを考えることはなくなりました。何かの使命を担っているという感覚はまったくありません。人に「奉仕」しているとか、人を「目覚め」させているとか、偉大な進化の波に参加しているとかいったような感覚はありません。そういう感覚は全然ありません。ただ起こります。もしくは起こっているようにともかく見えます。それから、ここにいてそれをしている「私」はいないということはまったく明白ですし、他の起こり方があったかもしれないという可能性がないことも明白です。

K: いま、明晰さがあることで、ジョーンの人生という見かけの上でのストーリーになにか変化はあるでしょうか?

J: 「明晰さ」という何らかの「もの」が「ジョーンの人生」にある特定の瞬間に入ってきて、ジョーンを聖人に変え、ジョーンの人生からすべての痛みと苦しみを巧みに消去した、というようなことではありません。そういうのは、個人的な悟りという夢物語です。

明晰さというのは、遍在していてそこから免れることのできない背景のない背景、〈ここ・今〉、〈これ〉、〈在るものすべて〉を指す言葉です。ジョーンはこの〈一なる現実〉のひとつの表現であって、その所有者 (あるいは発見者) ではないんです。酔っぱらいや麻薬愛用者 (30年前です) としてのジョーンの人生は、現在のジョーンの人生と同じくらい、〈一なる現実〉の完璧な表現だったんです。

ジョーンの人生について様々なストーリーがあります (たくさんのバージョンとたくさんの改訂版があり、常に改訂され続けています) 。人生そのものが、絶え間ない変化です。ジョーンはある瞬間は幸せに感じていますが、次の瞬間には悲しく感じています。ジョーンはある日はエネルギーに満ち溢れていて熱中していますが、次の日には頭痛と胃酸過多に悩まされます。ジョーンはある状況では落ち着いていて思いやりがありますが、別の状況では腹を立てます。ジョーンは憂鬱や不安を感じるとき、そういう不快な感覚に正面から向き合い、抵抗せず逃げることもなく、ただそれらすべてを完全に感じて、消えて行くのに任せる時があります。また別のときには、同様の不快な感覚を感じたとき、それを軽減しようとして慌てることもあります (本を読んだり、テレビをつけたり、指を噛んだり、メールをチェックしたり、コーンチップスを食べたり、どんなことをしてでも) 。悟っている人というのは存在していません。自分は悟っていると言っている人は、いずれも思い違いをしています。明晰さというのは、絶対的にすべてを受け入れる受容のことです。この受容は、人がすることではありません。受容というのは、常にはじめから在るものを言い表したものです。すべては、受け入れられて在るんです。たった今。

時間のように感じられるものを通じてジョーンというキャラクターに起こった沢山の変化について話すことはできます (かつて彼女は酔っぱらいでしたが、今は酒を飲みません。かつて彼女はいつも未来について考えていましたが、今は彼女は未来についてあまり考えません。かつて彼女は必死に悟りを探求していましたが、今は探求していません。かつて彼女の髪は金髪でしたが、今は白髪です。かつて彼女はコーンチップスを食べている時よりも瞑想をしている時の方が真理に近いところにいると思っていましたが、今はそうした思考は生じないように見えます) 。でも、そういう変化は全部映画の中の筋のひとつです。作り事なんです。偶発的なことで、無意味です。

そうした変化 (ジョーンについてであれ、あなたについてであれ、誰についてであれ) に焦点を当てることは、映画の筋の詳細に焦点を当てるということです。それをしても何もいけないことはありませんが、いくらそうしても、映画が上映されているスクリーンに少しも近づけるわけではありません。実際のところ、映画が上映されているどんな瞬間もスクリーンはそこにあって、あなたは映画を観ている間ずっとそのスクリーンを本当は見ています。スクリーンは、息を呑むような美しいシーンのときも、恐ろしい恐怖のシーンのときも、同じように存在しています。それは、鏡に映る像がどんなものであれ、あなたが実際に見ているのは鏡だけだということと同じです (こうした比喩すべてが、ある地点で破綻します。ですから、あまり文字通りには受け取らず、またこだわらないでください。スクリーンや鏡という比喩は、存在の分割できず継ぎ目のない性質を指し示しているにすぎません。生そのものと離れたところで「何も映っていないスクリーン」や「何も映っていない鏡」を見つけたと思ったとしても、それは映画の中のまた別の画像、もうひとつの鏡像、もうひとつの概念的な対象物にすぎないんです) 。「見る人」と「見られるもの」は抽象的で概念的な観念です。生きている現実、私たちの実際の今の瞬間の経験、それは分割されていない見ることです (主体は無く、客体もなく、分割もありません) 。この分割されていない時間を超越した実在、私が〈ここ・今〉と呼ぶこの場所のない場所は、すべてを受け入れながら (すべてとして) 在り、それは見かけの上で受け入れていないということでさえも受け入れています。除外されるものは何もありません。これでないものは何もありません。

本当に単純です。たった今、まさにここに、「ジョーン」は全く存在していません。直接的な経験のことを話しています。信念のことではありません。自分で調べてみて、本当にそうかどうか確かめてみてください。あるのは音、感覚、目に見える像だけです。それが全部です。「ジョーン」もいなければ「悟り」もなければ「明晰さ」もなければ「過去」もなければ「未来」もなければ「現在」もありません。マインドの中を除いては。思考と記憶と想像が「私」と「他の人」と「世界」というストーリーを紡いでいます。思考と記憶と想像が、時間と連続性という幻想を創り出しています。そしてすぐに映写機が回り、私たちは次々に映画を見ることになります。驚くほどリアルなものですが、すべては作り事です。「ジョーンとその悟りへの旅」「ジョーンとその失敗」「ジョーンとその成功」「明晰さがある今、ジョーンはいかに変わったか」「ジョーンとラマナ・マハルシを比較する」「ジョーンは存在するのか、しないのか」、どんどん続いていきます。それはちょうどテレビのスイッチをつけた時に似ています。テレビ番組がどんなにくだらなくても、もし30秒でも見ていたら、そこに引き込まれるんです。

そうなると、私たちは、スピリチュアルなことの目標はテレビのスイッチを切って、テレビに触れないことだという考えを手にします。そのことは、瞑想のいろいろな流派において、目標にされています。でも、その瞑想の実践ということも、テレビ番組のひとつです。根源的な幻想はまだ信じられています。その幻想とは、リモコンを持ってテレビを見ることができると信じられている誰かです。その誰かは存在していません。

見ることは起こりますが、それをしている人はどこにも存在していません。そのことはたった今、直接調べてみることができます。この言葉を見て、読んで、理解している「私」というのは事後の思考であって、頭の中のイメージです。見ることはただ在るんです。

すべてはただ在るだけです。

くだらないチャンネルと崇高なサマーディは違う番組、違う見かけです。どちらも終わりのないダンスの中で現れては消えていきます。つねに崇高なサマーディの状態にあろうとすることは魅惑的なゲームです。いかに長く希望が持続するかは、ほんとうに驚くべきことです (テレビとは分離していて、手にリモコンを持って、コントロールしようとしている「私」のイメージを維持しながら) 。最終的には、もしあなたが幸運であれば、ラメッシの素晴らしい質問がマインドに飛びつくかもしれません。「誰が気にするんだ?」

これは虚無的な質問でも、ひねくれた質問でもありません。「誰が気にするんだ?」は素晴らしい質問です。

==翻訳は以上 ==

ラメッシ・バルセカールの邦訳もされている著書Who Cares?!は、邦題が『誰がかまうもんか?!』になっている。が、「知ったことか」とか「誰が知るか」というような一般的なwho cares?の意味合いよりも、むしろ文字通り「気にするべき誰がいるのか?」あるいは「誰が気にしているというのか?」というようにwhoに力点が置かれるべきなのではないかと思う。

この指摘は、W先生の勉強会で以前初めて耳にして、当時はピンときていなかったが、今は少し分かる気がする。

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ジョーン・トリフソンのインタビュー (3) 2004年」への2件のフィードバック

  1. ヒロさん、いつもありがとうございます。
    無空さんの共同瞑想でちょっとご一緒したことがあるpariです。ご存知ないかもしれませんが、『アセンション館通信』という週一のメルマガを書いています。
    蓮さんのサイト経由で、アドヴァイタに関するたくさんの翻訳を公開されているヒロさんのサイトを知って以来、ときどき訪問して勉強させていただいていました。
    ところがヒロさんのサイトで一番翻訳が多いジョーン・トリフソンという方を知ってからは、立て続けに訪問させていただいています。
    特にヒロさんが最近、彼女の「悟りについて」や「インタビュー」の翻訳を掲載され始めて以来、毎日のように訪問させていただいて更新を確認しています。(*^_^*)
    ヒロさんの圧倒的な英語力のお陰で、これほど大量の新しい文章に出会えるのは、信じられないほどのありがたさと喜びです。
    「ネイサン・ジル」「トニー・パースンズ」「ジョーン・トリフソン」、どなたも素晴らしいですね。圧倒的です。
    ヒロさんの闊達な翻訳による、最近の「ジョーン・トリフソン」のインタビュー記事の圧倒的な印象に、是非ともひとことお礼を申し上げたくなりました。
    今後ともどうぞよろしくお願いします。
    Love pari

  2. pariさん、こんにちは。コメントありがとうございます。

    メルマガのバックナンバーを拝見しました。すごく長い間、メルマガを書いていらっしゃるんですね。最近のジェイムズ・ブラハのセイラー・ボブに関する著書の翻訳、とてもいいですね。購読させていただきます。

    ジョーンのメッセージは好まれる人がなぜか多い印象があります。深刻で濃い探求のエネルギーを緩和するからでしょうか。それとも、リラックスした感じが伝わるからでしょうか。悟りへの道といったものを含めた自分のストーリーに疲れている人にちょうどいいのでしょうか。それぞれだとは思いますが、これまでにない反響がある気がします。興味深いです。

    自分の翻訳力は気にせずに、好きだというだけで翻訳紹介をしていますが、喜んでいただいて嬉しいです。ジョーンにも伝えたいと思います。

    あと、無空さんの共同瞑想というのはちょっと分からないので、ヒロ違いのように思います。どこに行ってもヒロさんはいますね(笑)

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