ジョーン・トリフソンのインタビュー (2) 2004年

 
ジョーン・トリフソンのウェブサイト (joantollifson.com) にあるインタビュー記事の翻訳の続き。(その1はこちら)

原文 Here Is What You Are

== 以下、翻訳 ==

質問者 (以下K): あなたの本を読むと、一方ではあなたが献身の教え (バクティ) に惹かれ、また一方では知的な道 (ジニャーニ) に惹かれていたことが分かります。ジョーンの消滅というストーリーの中で、ハートとマインドの役割というのは何だったのでしょうか?

ジョーン (以下J): いい質問ですね。ひとつ言わせてもらうと、私はいわゆるジニャーニの道を知的なものとはみなしていません。私が魅力を感じた調査と探究の方法というのは、知的というよりも、オープンな気づきと好奇心、いま在るものの純粋に感覚的な経験 (感覚、音、視覚)、ストーリーをストーリーとして見ること、思考を思考として見ること、という種類のものです。私は、長い間、いわゆる「決定」とか「選択」というものは実際にはどうやって起こるのか、ということを探究しました。そういうことについて分析的に考えるのではなくて、実際に起こる様子を見ることによってです。コントロールしている誰かがそこにいるんだろうか? 選択は行われたのか? 「自分」はそこにいただろうか? そういうことを論理的に考えるのではなくて、見ようとしたわけです。このことには知的な側面もあるかとは思いますが、直接的に調べるということが中心でした。それから、純粋な実在の中に、マインドによる上塗り無しで、この瞬間の音や感覚の中にただくつろぐということもしました。その当時の私の中心的な先生はトニ・パッカーでした。

その後ある時、私はアドヴァイタに出会いました (初めにニサルガダッタとジャン・クラインを通して学びました) 。そして新しい何かが開き始めました。今なら私はそれを非二元的な理解と呼ぶと思いますが、それは単純に、獲得すべきことはなにも無くて、〈意識〉が存在しているすべてなんだ、という認識です。

アドヴァイタに出会う前は、私は自分がとても重要な進化という仕事に携わっているんだ、という感覚を持っていました。オープンな気づきの状態で安定して、利己的なストーリーとか神経症的な癖というパターンに巻き込まれている状態を超越しようとして、四苦八苦しながらです。二つの違う領域の間を「私」が行ったり来たりしているように感じていました。一つの領域は、分離していて何かに封じ込められている「自分」で、もう一つの領域は、すべてを含む無限性です。世界そのものが現実にはっきり存在しているように思えていましたし、もっともっと気づいて今にいるようになるというプロセスは、自分の個人的な問題を解決するためだけではなくて、地球上のもっと大きな対立を解決するためにも、とても重要なんだと思っていました。私は、トニ・パッカーの言い方ですが「この瞬間のワーク」ということに自分が携わっているんだと考えていたんです。見て、探究し、注意を向け、今にある、というものです。かなり深刻で、重々しい雰囲気でした。

それとは違って、アドヴァイタの方は、世界や目覚めている時の人生という映画のことそれほど深刻にはとらえていないように見えました。私のことすら真剣に受け止めているようには思えませんでした! 進化のパラダイム全体を真面目に受け取っているようには見えませんでした。見ることとか注意を向けることにも、それほど関心があるようには見えませんでした。私は、人が騒々しく笑ったり、お互いの目に見入ったり、愛や献身について語るようなスピリチュアルの世界にいることがだんだん多くなっていました。最終的には、私は原理的な非二元論者と呼んでいるんですが、ウェイン・リカーマンやトニー・パーソンズのような人たちに出会ったんです。彼らは何の妥協もなく本当に非二元的で、それに愉快なほど非礼ですし、「非スピリチュアル」です。重々しく深刻な、注意を向けるとか、「今にある」とか、「この瞬間のワーク」とか、スピリチュアルな仕事とかいったこと全部が崩壊しました。あったのは在ることだけでした。それ以上でもなく、それ以下でもありません。

スピリチュアルなことは、いちど組織化されたり制度化されたりすると、限界を持つようになります。そこにいる人たちは、特定の状況でしかそれは起こらないとか、静かな環境や菜食といったことが必要なんだと考え始めます。先生の人格が覚醒の性質と結びついてしまって、そのために、たとえば先生がたまたま聖人のような人格をもった人だったとしたら、覚醒は必ず聖人のような感じなんだな、と人は考えます。これこそ「スピリチュアル的に正しいこと」だと自分が考える行動や食事やライフスタイルを採用するんです。

アドヴァイタと原理的な非二元の世界に出会うことによって、私に自由をもたらしたことがひとつあります。それは、何がスピリチュアルで何がそうでないかということについて、私がまだ抱えていた習慣や観念をすべて破壊してくれたことです。それは、貝殻を壊して外に出るようなものでした。

本当のバクティというのは、私の考えでは、グルを崇拝したりご機嫌をとったりすることとは全く関係ありません。グルに対する途方もない愛はあるかもしれませんが、本当のバクティというのは、単に、明確に見るということの本質なんです。

恋愛をしているとき、最愛の相手のあらゆる点や微妙な差異にあなたは喜びを感じますよね。恋人に夢中になります。見えるのは美だけです。あなたは何も隠しません。抑制もありません。どんな抑制も溶けてなくなります。あなたは完全に裸です。自分と相手の間、見る人と見られる人の間、与えることと受け取ることの間には、もはや何の境界線もありません。あなたは消えます。すべてに恋をしているということに気がつきます。世界全体が輝いていて、きらめいているように感じます。

覚醒というのは、特定の対象物だけを恋するということではありません。それはあらゆるところに〈最愛の人〉だけを見る、無条件の愛のことです。気づきは、まさにその本質として、すべてを受け入れます。それが真の愛なんです。それは実際に在るものであって、人がすることではありません。

私は本の中でバクティについて少し書いています。

「私がずっと持っていた恐れにこんなものがある。もし自分できちんとコントロールしていなかったら、私は献身の中で恍惚としている盲目的なバクティ型の人間になってしまうと。まったく役立たずで愚かで、羞恥心もない自分。まったくのぼせていて、完全に正気を失った自分になってしまうと」

「雨、交通、葉の間を通る風、裸の気づきの完全なシンプルさ、そうしたことに帰依する、単純で恍惚とした献身者であるということは可能だろうか?」

K: 夢の中の登場人物の思考によって、見かけの上で紡がれたストーリーの中で、ジニャーニとバクティの側面を発見したり出会ったりすることは重要なことなんでしょうか?

J: ジニャーニとバクティは二つの別のものではないと私は思います。発見というのは、この無条件の愛、この純粋な気づき、あるいは存在が、存在するすべてなんだということです。その発見が映画の中で見かけの上でどのように展開しようとも、それはあまり重要なことではありません。それが見かけの上で展開するやり方は百万通りはあるでしょう。本当に、原因は何もありませんし、何も起こっていないんです。ずっとそうだったんです。

== 翻訳は以上 ==

その3へ続く

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ジョーン・トリフソンのインタビュー (2) 2004年」への2件のフィードバック

  1. お久しぶりです。
    こちらの記事によって、最近クリアでなかった部分がストンと落ちて、 this is it! となることができました。
    感謝します!
    気になって、彼女のHPにいってみたり、動画をチェックしました。私にはとてもわかりやすい、なにか感性が似ているものを感じました。本を読み始めたところです。

    これからもブログを楽しみにしています!

  2. りょうこさん、こんにちは。コメントありがとうございます。

    ジョーンは本当に深刻さがなくて、明るくて、しかも妥協がなくクリアだけれども愛がある感じで、僕も好きです。彼女の本も、どれもそれぞれ異なった味わいがあって、素晴らしいと感じています。

    それと、アメリカや女性に対してバイアスのかかった見方をしがちな僕にとっては、このメッセージがアメリカ人女性から出てきているというのも、ひとつの祝福です。

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