ジョーン・トリフソンのインタビュー (1) 2004年

 
ジョーン・トリフソンのウェブサイト (joantollifson.com) にあるインタビュー記事を翻訳して紹介したい。長いため、2回か3回に分かれる。

Here Is What You Are

== 以下、翻訳 ==

ここ、それがあなたです
Kees Schreudersによるインタビュー (2004年、Amigo誌)

(註: このインタビューはAmigoの第7号 (2004年4月)に掲載された。以下のバージョンにおいては、私の言わんとすることをより明確にするために、いくつかの回答についてその表現を改めた。改訂は小さなものであり、意図された意味はまったく変わっていない。インタビューの全般的な内容と全体像は当初のままだ。- ジョーン・トリフソン)

Kees (以下K): あなたの本『Awake in the Heartland』を読んで、他の多くの人もそうだろうと思いますが、あなたが大発見という経験を切望し、探求していたことがわかりました。いろいろな先生たち (ガンガジ、トニー・パーソンズ、アイザック・シャピロ、ウェイン・リカーマン、トニ・パッカー、スティーブン・ハリソン) を訪ね、彼らと話し、手紙を書く。そうした大発見という経験の必要があるのかどうか、理解しようとしながらです。最終的には何が大発見だったのでしょうか? 切望や探求にはどんな意義があったのでしょう?

Joan (以下J): 終わりというものはありません。あるのは〈ここ・今〉だけです。いわゆる「大発見」というのは、この現在経験しているということの中心には本当は誰もいないのだということに気づいていることです。ここで今。「探求者」 (思考者、行為者) というのは頭の中のイメージ、一種の蜃気楼であって、変化し続けるストーリーの中に現れる架空の登場人物なんです。この気づきというのは、探求者に起こる出来事ではありません (探求者は存在していないんですから!) 。そうではなく、それは、探求をしていた誰かというのは (他のどんなことも) これまで一度も存在したことはなく、存在するのはこの現在起きていることただそのままのそれだけであり、達成することができるように見えるものはいずれも過ぎ去る経験であって、目覚めている時の人生という夢に似た映画の中の束の間のシーンなのだということを、明確にただ見るということです (見る人はいません) 。「あっち」の方で探されていた超越、自由、真理は、実際にはまさにここにあるんです。そして意外な事実は、収縮、抵抗、苦しみのように見えることの真っ只中にあるときでさえ、探し求められているものはここにあるということです。なぜなら、分離 (そして分離した自己) というものは常に架空のものだからです。

多くの人が (スピリチュアルな人生という映画の中で) 出来事を待っています。それが起こればすべてが完全に違うことになるだろうという、爆発的な瞬間です。でも、永遠に続く出来事、永遠に続く経験はありません。現象として現れることすべては変化し続ける見かけであって、そこには固体性も実体もありません。

在るものは、「達成する」ことも「実現する」ことも「習得する」ことも「身体化する」ことも何をすることもできません。それを実現したり達成したりできるような、そこから離れた何かは存在していないんです。それを完璧に身体化していないものなど何もありません。すべての経験は等しく神聖で、等しく真実です。現実というのはいま在るものであり、ただそのままのそれなんです。

探求というのはそのすべてが夢の劇です。そこには何の意義も意味も目的もありません。それがその美しさです。それは、雲や木やテレビ番組や美しい夕陽や道に落ちる枯れ葉のような、束の間の見かけです。

K: ということは、トニー・パーソンズがよく言うように、ここには誰もいないし、あっちにも誰もいない、ということを発見するということですね。だから非難すべき人も、責めるべき人も、愛すべき人も、取り入るべき人も、崇拝すべき人も、責任を負うべき人も、いる人も誰もいないと。ただ毎日を生きる、ありのままに生きるということでしょうか?

私はよくこのことを回転扉として思い描きます。強く望むことによって、人は回転扉の中に入るのですが、結局は最初にいたのと全く同じ場所である外側に再び自分がいることに気がつきます。違いがあるのでしょうか?

これが、失望し、騙され、がっかりして、「回転扉」に夢中になってしまい、探求し続けたくなる理由でしょうか?

J: 「毎日を生き、ありのまま生きる」ことができるような人は誰もいませんし、回転扉に入ったり出たり回ったりできるような人も誰もいません。それ全部が見かけで、ストーリーにすぎません。

それに、同じ場所に「あなた」が戻るということでもありません。旅も、その旅をしている人も、架空のものです。ここは常にここにあります。そして今は常に今です。見かけは現れては消え、ストーリーは現れては溶解し、映画は上映されますが、〈ここ・今〉 (この位置をもたず時間を超えた実在) は現れることも消えることもありません。

〈ここ・今〉は神です。〈ここ・今〉は最愛の者です。〈ここ・今〉は気づきであり、あるがままのすべてを受け入れる無条件の愛です。〈ここ・今〉はあなたであるものです。〈ここ・今〉がいま在るものなんです。

失望も幻滅も素晴らしいことです。失望や幻滅は、完全にあきらめ、あらゆる希望を捨て、いかなる信念をも手放し、船が沈むままにしておくことへの招待状です (誰に宛てられたものでもありません) 。何が残るでしょうか?

残るのは、あなたが掴むことができないものですが、それでいてそれは明白で不可避なものです。残るのは、この無境界で継ぎ目のない変化し続ける現在の出来事です。

もしたった今マインドが〈ここ・今〉を対象物として認識しようとしたり、「この現在の出来事」を理解しようとすれば、欲求不満が生じるでしょう。すべてを含んでいて何にも含まれておらず、常に変化し続け常にあり続けるものを、マインドは掴むことができません。

でも、すべて (掴もうとすることや、探求することや、欲求不満でさえも) が常にまったくありのままであることを許されているということが認識されるかもしれません。「受容」というスピリチュアルな実践を正しく行った結果として「あなた」が認識するのではなく、偏在していてそこから逃げることできない、この全てを包括する〈ここ・今〉によって認識されます。〈ここ・今〉はすべてを受け入れます。〈ここ・今〉はすべてです。〈ここ・今〉が存在するすべてです。分離や分裂のどんな感覚もただの見かけにすぎません。そしてその見かけは、〈ここ・今〉がとっている一つの束の間の形であるにすぎません。それも、在るものです。

在るもの (〈ここ・今〉)を見つけることはできません。なぜなら、それを失うことは不可能だからです。それを認識することはできません。なぜなら、それは認識することそれ自体だからです。それは目に見えませんが、あらゆるところで輝きを放っています。あらゆる芸術作品の中で、あらゆるゴミのくずの中で、最も賢明に見える行動の中で、そして最も神経症的に見える行動の中で。そのことが認識されると、どこか別のところを探そうという衝動はなくなります。どこか別のところというのは存在しないからです。

言葉はただの言葉です。どこからともなく現れる面白い音です。他のすべてのものと同じように、言葉は〈ここ・今〉に一瞬現れ、そして消えていきます。〈ここ・今〉が残ります。

K: スクリーンの上に別の文字の組み合わせを持ってきて、それと「遊んで」みましょう。それは「真正さ」という言葉です。 (辞書の定義はこうです。真正な、信頼できる、あるいは本当である性質またはありさま)

源泉を探し求めるという探究が続いているとしたら、ブラックホール (言葉や理解を超えたもの) と出会うのは不可避であるように思えます。つまり、出来ないということ、無能だということの美に出会うわけです。そして、展開しているように見えるすべてのストーリーを通して「源泉」がそれ自体を表現しているのを見るということ、自身も「源泉」だということです。

それと同時に、この「真正さ」という言葉は、仮の個人に対して、誠実で真正であるという方向に向かわせるものであるように思います。そのままの〈ここ〉が表現するものを生き、仮の人格もなく、〈ここ〉を評価するための過去も未来ももたず、そのことを認める必要も無しに在るということです。愛し、混乱し、この上なく幸せになり、怒ります。それが起こるがままにです。

でも、なにか予期していなかったことが起こると、人は混乱します。たとえば、私はスピリチュアリティというものに熱中しています。瞑想、菜食、礼拝、欲望に屈しない、禁欲、禁煙、爪を噛まないといったことです。でも、私は気が動転したり、イライラしたり、怒ったりすることがあります。そしてそうしたことを抑圧するわけです。それを表現するかわりに。

別の角度から言うと、なぜそうなのかは分かりませんが、「純粋さ」というものは私たちを感動させ、強い印象を与えるように思います。私たちはそこから「ヒーロー」や「ヒロイン」を作り出します。マンデラ、ガンディ、JFK、マザーテレサのような人たちです。こうした人たちは、何のためらいもなく自身を表現しているように見えます。人々は彼らを尊敬しています。

J: 在るものは真正です。「真正になろう」とするどんな努力も、真正でないものとしてあることが可能だという思い込みに基づいています。そうですね?

スピリチュアル的に正しいあり方で生きるとか、「悟りを身体に統合する」といったことを話す先生たちは大勢います。あたかも、それが誰かがすることができる (またはすることに失敗することができる) ことであるかのように。

本当のところは、在るものがただある、そのままあるだけです。そうでないことは不可能です。在るものの中に個人的なものは何もありません。在るものは、分割されておらず分けることができない一つの完全なタペストリーです。分けている線というのはマインドの中にしかなく、現実にはありません。真正であることができる (あるいは真正でないことができる) 分離した何かというのは存在していません。いわゆる嘘をつくことは、いわゆる真実を語ることと等しく「真正」なんです。肉を食べることは、野菜を食べるのと同じだけ「真正」です。腹を立てたり爪を噛んだりすることは、瞑想をしたり、慈愛の実践をするのと同じだけ「真正」なんです。

本当に真正なもの (紛れもなく本当で偽りがないもの) とは、言葉で含むことができない〈これ〉であり、絶対的にすべてを含んでいてどんなものにも一切こだわらない〈これ〉であり、「これ、今、実在、空、純粋意識、見ること、在ること、自己、在るもの」というような言葉が指し示してきた〈これ〉です。〈これ〉は否定できません。免れることもできません。〈これ〉は信念ではありません。それは、あなたがたった今、一切何の疑いも持たずに絶対的に確信できるものです。あなたはあなたがここにいることを知っています。それを知るために、鏡も必要なければ、外部的な権威も必要なければ、学習コースも必要ありません。見ることは起こっています。聴くことは起こっています。すべてそれ自体で。これが在る。それを否定することはできません。

「悟った人生」を生きる「悟った人たち」に関するどんな観念 (あるいは理想) も、映画の中の架空の登場人物に関連するただの観念にすぎません。そうしたどんな観念も「自制」や「抑圧」 (あなたの言葉を借りますが) のひとつの形態です。でも、その自制や抑圧でさえも、真正な在るものであり、それは誰のものでもありません。それは非個人的な見かけであって、天気のようなものです。晴れていて太陽が照っている日もあれば、風が強く荒れている日もありますし、暗い暴風の日もあります。そこには何も意味はありません。それはただ在るだけです。私たちは、誰かを理想化することが大好きです。特に亡くなっている人たち、それに亡くなったグルたちを理想化します。彼らを、何も欠点がなく完璧で菜食主義の人たちだと心に描くことを好むわけです。

ニサルガダッタ・マハラジはインド人のグルで、私は彼の教えに大いに影響を受けていますが、彼は喫煙者で、喉の癌で亡くなりました。彼は生活のために煙草を売っていました。肉も食べていました。ボンベイの風俗街 (もしくはその近く) に住んでいました。彼は腹を立てて、人々を怒鳴りつけ、サットサンから人々を放り出しました。私は一度も彼に会ったことはないのですが、そういう話を聞きました。覚醒ということが、自分がラマナ・ハマルシやティク・ナット・ハンのようになるという意味ではないということが分かったことで、とても楽になりました。優しく話したり、喜びに満ちていたり、思いやりをもったり、菜食主義であったりする必要はなかったんです。

もう一人、私に大いに解放感をもたらしてくれたのは、トニー・パーソンズです。彼は前にこんな冗談を言っていました。自分に会いに来る人たちは菜食主義を止め、体重が増え、心臓病で死ぬんだと。彼にはそれで全然問題ないんです。彼はこう言いました。「あなたは恩寵の中にいないということができない。あなたに関するすべてが、完全に、絶対的に、完璧に適切だ。自分についてこれが良くないとあなたが思っていること全部が、まったく何も問題ない」と。それを聞いたとき、とてつもなく楽になりました。私は、人格を完璧にしようとして、ビッグバンのような覚醒体験を得ようとして、ジョーンのいろいろな神経症的な癖を直そうとして、もっとましな人間に変わろうとして、何か (これではない別のこと) を生じさせようとして、どれほど長い間いかに囚われてきたかということに気づきました。

自分を完璧にするため (そして個人的な悟りを得るため) の探求全体が夢想だったことに気づいたんです。この瞬間は、まったくそのありのままで、どんなになっていようが、まったく完璧だったんです。ジョーンのどんな点も変える必要はなかったんです。ビッグバンも必要ありませんでした。自分の人生というストーリーから目覚めようというジョーンの努力全体が、ストーリーの一部以外のなにものでもなかったということは、驚くべき発見でした。必死に探し求めてきた覚醒というのは、実際にはこれまでに一度も無かったことがなかったんです。でもこの覚醒というのは私が体験できるようなものではなくて (というのも、どんな経験もひとつの映画の中のひとつのシーンにすぎないからです) 、ジョーンに起こったわけでもありません。幻想が幻想から目覚めるなんて、ありえるでしょうか?

こうしたスピリチュアルなことがらについて書いたり話をしたりするとき、ジョーンという人格の神経症的な奇癖や特異性を暴露したいという抗しがたい衝動が私には生じます。私に対して、とても勇気があるとか正直だとか誠実だとか、そう言う人たちがいます。でも本当は、それはただ起こるだけです。私がコントロールすることはできません。そうしようとしているわけではありません。というより、長いこと、私はそういうことをしないようにしてきました。「純粋な真理」についてだけ話をして文章を書きたいという考えがあったんです。つまり、ジョーンのストーリー全部、ジョーンの混乱していて神経症的な人生のことは置いておいて、「純粋な気づき」 (それがどういう意味か分かりませんが!) についてだけ話したり書いたりしようと。結局分かったことは、「純粋な真理」とは「在るものすべて」だということでした。それは、ジョーンとその (明らかで絶対的に完璧な) 欠点という見かけでさえも含みます。獲得する必要があることも、のけものにする必要があることも、何もありません。毎日の生活の混乱というのは、実は真理の完璧な表現なんです。

たった今、何が真正でしょうか? これはいい質問です。考えられる答えは一つしかありません。在るもの、ありのままのそれです。

== 翻訳は以上 ==

インタビュアーの質問が多少混乱しているような感じで、そのポイントがなんとなく分からない気がしていたから、このインタビューはこれまで採り上げなかった。が、改めて読んでみると、なかなかいい。

インタビューの続き(その2)は、こちら

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