私というストーリー トニー・パーソンズ

 
トニー・パーソンズは、そのウェブサイトで多くの文章を公開している。これまでそのいくつかを翻訳して紹介してきたが、今日はその最新のものであるThe Story of Meを紹介してみたい。

== 以下、翻訳 ==

私というストーリー

存在しているのは全体性だけだ。その境界のないエネルギーが、空、木々、感情、思考、あらゆるものとして現れている。それは、何もないことが同時にすべてとしてあるという神秘だ。

無境界のすべてと切り離されているものは存在しない。だが、それは何の制限も受けないため、それ自体から分離しているという現れ方をすることもできる。私というストーリーとして現れることもできる。見かけの上で起こっているすべてのこととしての現象には、良いことも悪いこともない。

人間の中で収縮したエネルギーが生じ、分離という感覚をつくり出し、そこから独自性という特有の感覚、自意識が生じる。私が生まれ、私のストーリーが始まるように見える。私はストーリーであり、ストーリーは私だ。それは片方だけでは存在できない。ストーリーと私のいずれもが、二元的な主体と客体という現実の中にしか現れることはできず、またそこでしか機能できない。すべては、本当に存在している時間の中で、本当に存在している私に起こる一連の出来事として、個人的に経験されているように感じられる。そのストーリーの中で、時間、旅、目的、自由意志、選択は現実のものであるように見える。

この分離という感覚は、ただの考え、思考、信念ではない。この分離感は、生体全体に組み込まれている収縮したエネルギーであり、それがあらゆる経験に影響を与える。その結果、「私」は木、空、他の人、思考、感覚を、分離というヴェールを通して経験する。まるで、私は何かであり、他のすべてはそれ以外の沢山の分離した何かであって、それらが自分に起こるかのように感じられるのだ。一度分離したという感覚から、かすかな不満の感覚が生じる。何かが失われている、あるいは何かが隠されているという感覚だ。

ほとんどの人たちにとって、この不満足の感覚はあまり理解できるものではなく、また、彼らは自分は自由意志を持って選択することができる個人であると信じているため、うまくいっているというストーリーを創りだそうとするようだ。良好な人間関係、健康、富、権力といったようなことだ。

だが、そうでなく、欠けているように思える何か別のものに関する高い感受性をもった人たちもいる。この感覚によって、より深く満たされるという感覚への切望が生じる。宗教や、セラピーや、あるいは悟りの意味について調べることがあるかもしれない。自分は自身のストーリーをコントロールする手段を手にしているとすでに確信しているため、自身の選択や決意や行為を通してその深い満足を見いだすことができるのだと思い込んでいる。

たとえば、「私」は自分に必要だと考えるものを見つけるために、聖職者やセラピスト、もしくは悟りの先生のところにいくかもしれない。

「私」が何かを失ったと感じるため、しばしば、そこには不十分という感覚がある。従ってそこでは、個人の変容をもらたしたり、自分を満足感にふさわしいものにするために何かをする必要があるという感覚に応じた教えが選ばれる。こうした活動すべては私というストーリーの中で見かけの上で起こる。その私というストーリーは、偽りの二元的な現実の中でだけ成り立つものだ。「私」は有限の中で無限である何かを探しているのだ。それは何かが他の何かを探しているということであるが、その何かが本当に渇望しているものは、すべてとして最初から存在していることによって、手にいれることができないものとしてあり続ける。それは、あたかも捕虫網を使って空気を捕まえようとしているようなものだ。それは難しいことなのではなく、見事なまでに不可能なことだ。この探求の本質的な無意味さによって、不可避的に、さらにもっと価値がなく分離しているという私の感覚は増幅する。

だが、探求という活動においては、その途中で、もっと探究しもっと努力することを促すような経験が生じることもありえる。個人的なセラピーによって、ストーリーの中で人格的な調和という感覚が一時的にもたらされるかもしれない。瞑想のような実践によって、平安あるいは静寂という状態がもたされるかもしれない。自己探究によって、一見したところではだんだんと理解が深まり気づきが深まるという経験がもたらされるかもしれない。だが、気づきというものが機能するには、それがあるということに気づいている何か別のものが存在している必要がある。気づきはただ分離を大きくさせるものであり、超然とした状態が生じて、それが悟りと取り違えられるかもしれない。こうした状態のすべては現れては消えるもので、それはすべて私というストーリーの中にある。

悟った状態に至るということに関する教えはすべて、信念を変えたり何らかの経験をしたりすることによって、一体性の認識、自己の認識、あるいは自分の本質の発見といったことに個人的に至れる、という観念に基づいている。漸進的な道に傾注するということすべてが、何かを獲得するという私のストーリーを強化し続ける。個人として明け渡す、あるいは受容するといった考えも、最初は興味をそそるものに思えるし、それによって満足できるような状態が生じることもある。しばらくの間だけだが。

切望されている一体性は、無限であり、何の制限も受けない。それを掴むことは不可能で、近づくことさえできない。なされる必要があること、変わる必要があること、改善される必要があることは何もない。すべてとしてあるものが既にあるだけだ。

私という経験は、非常にもっともらしいものとなりえる。なぜなら、私の住む「世界」は、多くのストーリーの中にいる沢山の他の私で占められているように見えるからだ。だが、私という構成概念は変わりやすいもので、そこには何の土台もない。私というストーリーのすべては、全体性のダンスにすぎず、そこにはどんな重要性も目的もない。

分離という偽の構成概念と私というストーリーの本質を徹底的に妥協なしに暴くことによって、それらを固定したものにしている束縛が緩み、探求がいかにジレンマの強化にしかつながらないかということが明らかにされる。だが、分離という見かけ上の感覚は、本質的にはエネルギー的に収縮したエネルギーであり、観念の上でどれだけ明晰になったとしても、その収縮が解かれることはない。

自己の探求を超えたものの可能性に対するオープンさがあるとき、収縮したエネルギーが、最初から存在していた無限の自由の中に消散することがある。だがこれも、完全な逆説を指し示し、表現しようと試みるまた別のストーリーにすぎない。その逆説とは、現実には一度も存在していたことがない何か、私というストーリーが、見かけの上で終わるということだ。

無限の自由、それが存在しているすべてだ。

トニー・パーソンズ
2012年7月

== 翻訳は以上 ==

いつものトニー節で、新しいことは無いように見える。よくこんなに毎回同じことばっかり言えるなあ、と呆れてしまう。が、向こうからすれば、よくそんなにずっと私というストーリーと同一化していられるなあ、ということかもしれない。

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