今を探究する (2) ジョーン・トリフソン

 
昨日の続きで、ジョーン・トリフソンのウェブサイト(joantollifson.com)にあるExploring What Is: The Pathless Path of Meditation and Inquiryの後半部分。

繰り返しになるが、この部分はNon-Duality Press刊の著書Nothing to Graspからウェブサイトに転載されているもので、著作権はJoan TollifsonとNon-Duality Pressにある。

== 以下、翻訳 ==

それは何だろうか?という探究

この神秘が浸透するには、形而上学的な命題や宗教的な信念のような答えという代用品によって浸透が妨げられることがないようにすることが必要だ。質問によって開かれた空っぽさを埋めようとして言葉や表現に手を伸ばそうとする癖を止める方法を身に付ける必要がある。
スティーブン・バチェラー

私たちが真理を認識するのを妨げているのは何かということを調べはじめると、妨げているものは何もないという理解に至る。障害物は何もないのだ。
アナム・トゥブテン

自己の探究は、自己 (アートマン) はまだ認識されていないとあなた方に思わせている障害物を取り除くことによって、自己の認識に直接至らせるものだ。
ラマナ・マハルシ

私とは誰 (あるいは何) だろうか?

まさにここで、たった今、ここに何があるだろうか?

知覚できるものと考えられるもののすべてが消えたとき、何が残るだろうか?

あなたの両親が生まれる前、あなたの顔はどんなものだったろうか?

このすべては誰に起こっているのだろうか?

これらの質問は、概念的な答えを求めているものではない。思考するマインドは、答えを見つけるという仕事に従事している。それが思考するマインドの役目なのだ。そして生き残りのための機能だ。ある領域では、マインドは見事な働きをする。だが、こうした究極的な質問に関する限り、マインドは全く役に立たない。マインドが見つける答えはどれも死んだ言葉、死んだ観念だ。

把握するということは、最も早くから始まり最も原初的な、人間の生存のための反射作用だ。人は手を使って、直感を使って、そしてマインドを使って掴む。人間の条件付けによって、答えをつかもうとする傾向は強化される。学校では、正しく答えることが価値あることだとされ、もし答えを知らないと自分は馬鹿だと感じる。そのため、はじめは、答えを求めないということは非常に落ち着かず不慣れなことだと感じられる。

非概念的で瞑想的な探究において提示される質問は、学校で出されるような問題とは性質が異なる。これらの瞑想的な質問では、答えが求められているわけではない。だが、私たちは、こうした質問に対して思考するマインドを使って簡単に答えを出してしまう。スピリチュアルの世界に少しでも関わったことがあれば、おそらくこうした質問すべてに対する「正しい」答えを知っていることだろう。私とは何か?と聞かれれば、「純粋意識」と考えるかもしれない。あるいは (もしスピリチュアルの書籍をあまり沢山は読んでいなければ) 「自分」と答えたり、自分の名前を言うかもしれない。または (別の「上級の」答えとして) 「まったく何でもない」と言うかもしれない。あるいは「空の空間」。それとも「一なる自己」と答えるだろうか。コンピュータを見ながら、「それは何か?」と尋ねたら、「私のコンピューター」と答えるか、あるいはもっと洗練されていて「エネルギー」とか「意識」とか「ワンネス」とか「空」と答えるかもしれない。だが、たった今、こうした答えはいずれも言葉だということに気づいてほしい。それはラベルだ。それは、言葉でも概念でもない何かを指し示しているのかもしれない。それでも、言葉自体は、それが指し示しているそのものではない。

正しい答え、正しい言葉を習うこと、つまりきちんと答えを言うことは比較的簡単なことだ。ただ、これらの質問は、全く他の何かを促すものだ。それは、知らないという開かれた空間へ入るよう私たちを誘うものであり、「質問によって開かれた空っぽさを埋めようとして言葉や表現に手を伸ばそうとする癖を止める」ことをすすめるものだ。これらの質問は、決して本当には言葉や概念にすることができないものを発見するように私たちを促すものだ。それを言い表したり、それを指し示したりすることに言葉を使うことは確かにできるのではあるが。

探究は、私たちが興味をもった質問と共に生きるということも意味している。たとえば、自由意志はあるか?とか、選択をしているのは誰か?とか、決めるということは実際どのように起きるのか?といった質問がある。

このテーマに関して他の人たちが何を言っているかということを見つけて、「正しい」答え、それがどんな答えであろうと、その答えを答えようとするかわりに、探究は自分で調べて聴いて見るということを促す。私たちはどうやって決めているのだろうか? これは、決めるということが起こっているときにそれを注意深く調べて念入りに観察するには素晴らしい質問だ。日常的な活動をしているとき、選択が起こった時に、それを実際に非常に念入りに調べ始めてみるといいかもしれない。しばらく座っていた後に、立ち上がろうかどうかというような小さなことでもいいし、あるいは、結婚するかどうか、新しい仕事につくかどうか、という大きなことでもいい。プロセスが展開しつつあるときに、本当に念入りに注意深く観察してみよう。こうした方がいいかな、ああした方がいいかなという行ったり来たりする思考が勝手に現れてくるのに気づいてみよう。最終的に片方が勝った決定的な瞬間をつかまえることができるか、それがどのように起こるかをコントロールしていた誰かがいたかどうか、みてほしい。あなたの思考を生み出しているように見える「あなた」を見つけることができるかどうか、みてほしい。指揮をとっている思考者あるいは決定者を実際に見つけることができるだろうか? こうしたすべてについて、考えるのではなく、気づきをもって慎重に注意を向けることによって調べてみてほしい。

生じてくる思考はあなたがコントロールしているのだろうか? 次の思考がどんなものになるか知っているだろうか? ポジティブな思考を考えることを自分で「選んでいる」というように感じられるとき、そうしようという衝動、意図、そのようにできる力はどこから生じているだろうか? それはいつもうまくいくだろうか?

決定は起こるものであって、その決定がどのように起こるのか、何が決定という事象を生じさせているのかを正確に突き止めることはできない、と気づくかもしれない。私たちには「自由意志」や「決定論」についてのストーリーがあるかもしれないが、結局のところ、いずれも概念的なモデルにすぎない。解剖学の本にある図と同じように、そうしたモデルが生命そのものの流動性やめちゃくちゃさをとらえることは決してない。

この種の瞑想的な探究は、あなたの答えと信念のすべてを手放すことから始まる。何が分かるか知らないまま、まったく新しく思いがけない何かを見つける可能性に常に開かれたまま。

解放は、最終的に正しい答えを手にするとか、必ずうまくいく解を選ぶというようなことではない。解放は、私たちの苦しみと混乱の根底にある架空の問題 (思い違い) の本質を見抜くということだ。私たちが選んでそれにしがみつくようなどんな答えもどんな解も、それは新たな問題となる。探究はあらゆる答えを溶かしてしまう。

探究は、私たちの思考のすべて、信念のすべてを疑うためのひとつの方法でもある。もし思考が現れてこのように言ったとしよう。「私は人生全体を台無しにした」「彼はあんなことをすべきじゃなかった」「もし選挙で彼女が選ばれたら国は駄目になってしまうだろう」 こうした思考がどんなに説得力があって理にかなっているように思えても、こう質問することはできるだろう。それが絶対的に本当だと私は知っているだろうか? その思考を信じているとき、私はどう感じているだろうか? この思考を信じていないとしたら、私はどう感じるだろうか? 考えて答えを見つけようとするのではなく、身体とマインド全体を使ってこの質問を深く感じてみよう。何が姿を現すか見てほしい。ここに今いるということを除いては、他のどんなことについても完全に確かだということはありえないということが分かるかもしれない。また、思い込みがないとき、あなたは全く幸せで問題がないということに気づくかもしれない。

探求は結果志向で、不満足で不完全だという感覚に根差しているが、そうした探求と違って、この種の瞑想的な探究は、好奇心や興味や愛に根差している。人が恋人のことを探究するのと同じように、この非二元的で非概念的な探究は、愛と献身の行為だ。こどもが開かれた好奇心と驚きで世界を探究するのと同じように、この探究は遊びと自己発見のひとつの形だ。それは、完了して終わりというようなものではない。答えや経験を求めようとすることは、なくなることがある (もしあなたが幸運なら) 。だが、探究は一生続く調査と発見であり、決して終わることはない。それは存在のあり方だ。というよりも、それこそが生そのものの本質なのだ。

== 翻訳は以上 ==

ジョーンの文章についてはもうひとつ最新のものと、それから2004年に彼女が受けたインタビューに関して、翻訳の許可をもらった。

追って翻訳し、紹介していきたい。特にインタビューは、2004年から今までジョーンのメッセージが基本的に全然変わっていないことが分かって、面白い。

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