今を探究する (1) ジョーン・トリフソン

 
ジョーン・トリフソンが〈ここ・今〉と言うとき、それはいろいろな場所に対するここや、過去・現在・未来という時間の流れの中の今を指しているのではない。

最初にジョーンのHere/Nowという表現に出会ったとき、「ああ、また例のbe here nowか」と思った。だが、よく読むと、彼女の言うHere/Nowは、絶対にここしか存在しえないHere、永遠にそこにいるしかないNow、そこからは個人も物も未来も惑星も何も離れることはできないHere/Nowなのだということが分かってきた。

以前、ルパート・スパイラのリトリートで、彼が物体というものは独立したものとして存在しているわけではないのだ、ということを繰り返し説明していた時、部屋の端にある大きな何か (ランプだったか?) と自分との間に本当は距離はないんだ、という驚きを一瞬経験した。

それは、自分が独立した何かとしては存在していないという驚きでもあった。

認識だけがあって、自分も物も無い、というその感覚はすぐに消え、概念化エンジンがフル稼働して、いつもの自分の感覚にすぐに戻った。だが、その記憶もそれ自体確かなものではなく、今浮かんできたというだけであり、まったくこの不思議さには愉快になる。

ジョーンのウェブサイト(joantollifson.com)にある文章を翻訳するシリーズもそろそろ終わりで、今回はExploring What Is: The Pathless Path of Meditation and Inquiryというものだ。この文章は、ジョーンの新刊Nothing to Grasp (Non-Duality Press刊) から再構成されてウェブサイトに転載されているもので、著作権についてcopyright Joan Tollifson and Non-duality Press 2012という表記をしてほしいという要望を受けている。

二部構成で、今日はその最初の「真の瞑想」というもの。

== 以下、翻訳 ==

いまあるものを探究するということ
瞑想と問いの道なき道

真の瞑想 – どこにも行かないという技術

いまこの瞬間に現れようとしている状態が何であれ、ただそれがあるだけということは可能だろうか? そこから少しでも離れようとすることなく。その状態からは得られないものや、得られないように思えるもの、たとえばエネルギー、刺激、ひらめき、喜び、幸福など何であれ、そういうものをもたらしてくれそうな何かへと逃避することなく。ただ完全に、無条件にいまここにあるものに耳を傾ける。それは可能だろうか?
トニ・パッカー

修行とは、好ましい感覚や愉快な感覚を感じるというようなものではない。修行は、変えることでもなく、どこかに至ることでもない。そうした考え自体、初歩的な誤りだ。だが、そうした欲求を観察することによって、その性質が明らかになりはじめる。より良くなりたい、「どこかに至りたい」という激しい欲求自体が幻想であり、苦しみのもとになっているということを、理解しはじめるのだ。
シャーロット・ジョーコー・ベック

瞑想するということは、私たちの意識の中に火を招き入れるようなものだ。真の瞑想においては、瞑想者や瞑想というようなものは存在しない。なされるべきことは何もない。
アナム・トゥブテン

人は、人為的でなく開放的な広大さの中にくつろぐ。それは、自己を意識した瞑想状態でもなければ、気が散っている注意散漫な状態でもない。
スティーブン・バチェラー

熱望をもたずにいなさい。わずかな欲求ももたず、むき出しで、無防備で、何の保護もなく、不確かで、独りで、起こっている生に完全に開放され、生を受け入れ、すべてがあなたに物質的、あるいはいわゆるスピリチュアルな歓びや益をもたらすべきだという利己的な思い込みもなしに、ありなさい。
ニサルガダッタ・マハラジ

瞑想は、今、まさにここで始まる。瞑想はどこか別の場所で、あるいはいつか別の時に始まることはない。瞑想の中で、私たちは私たちが初めからそこにいた場所、このうつろい続け変化し続ける、絶えることのない今へと戻る。
スティーブ・ヘイゲン

あなたがスピリチュアルの道を歩んでいくに従って、その道は狭くなることなく、広くなっていく。いつかその道があまりに広くなって、道が全く存在しなくなるまで。
ウェイン・リカーマン

どこかへと行こうとするかわりに、何かを手にいれようとするかわりに、そして何かを取り除こうとするかわりに、それをただ止めて、まさにここで、たった今、どうなっているのかに注意を向けたらどうなるだろうか?

どうなっているかを定義しようとすることなく (ラベルを貼ったり、分析をしたり、説明しようとすることなく) 、そのかわりにものごとがあるがまま、ただそのままにしておいたらどうなるだろうか?

どうだろう?

これは答える必要がある質問ではない。これは、この瞬間に気づいているということへの誘いだ。止まって、見て、聴く。完全に在り、完全に気づき、隠していた姿を見せるものごとを発見する。そしてものごとが正体をあらわしていくことには、限りがない。

スピリチュアルな実践のうちで私が関心を持っているのは、あるがままの生に気づいているということに関係するものだけだ。迷妄から目覚めるということに関係するもの、ただし一度目覚めたらそれで完結ということではなく、いまここで、自分たちを縛っていると思っている架空の問題の本質を見抜くということに関係するものだ。この種の実践は、自己の改善ということに焦点を当てないし、未来のいつかに想像上のゴール線を超えるとか、特別な意識の状態に到達するとか、人間としての欠点をすべて解消するとか、二度と痛みを感じないようになるといったこととも関係しない。それは、ただ目覚めていて、気づいているということ、いまここで実際にどうなっているかということに気づいているということだ。

あるがままの〈ここ・今〉は、あまりに明白であって、それどころか避けることができないものであるために、人間のマインドにとっては、非常に難しく謎めいていてとらえどころがないように感じられる。それは、はっきりと見えるところに隠された秘密だ。隠されているように見えるのは、この瞬間の現実を無視して魅惑的な夢を追いかけるように私たちが深く条件付けされているからだ。私たちは複雑な思考と鮮明な想像という迷路の中で迷子になる。まったく明白ですぐ近くにあって避けることのできないものを私たちは見落とし、かわりにその空想版をどこか「あっち」の方に探しに行くのだ。

瞑想、探究、サットサン、非二元性に関する書籍といったものは、そのすべてが、見かけ上の問題が本来架空のものであるということを明らかにし、私たちを最も単純で最も明白で決して無いことがないものに目覚めさせる手段だ。芸術や音楽やダンスのように、こうしたものはいずれも、生がそれ自体を探究し明らかにし展開させ愛し楽しませる、当然で自然なやり方だ。白血球が集まって身体の中の感染を撃退するのと同じように、こうしたものは人間の混乱と苦痛に対する自然な反応だ。こうしたことの背後には行為者はおらず、それがどこかに至らせるということもない。それは、あるのは〈ここ・今〉だけ、場所のない場所、時間を超えた今、非二元的な無境界性、宇宙の遊戯だけ、無限で終わることのない自己認識だけだからだ。

言葉やこのような文章による指し示しが役に立つということはありえるし、すべきことは何もなく、ただあるがままのこれがそれなのだ、という原理的なメッセージを耳にしただけで、わだちにはまった探し求めるマインドが止まるということも、時にはある。だが、そうでない場合、本を読んだり話を聞いたりすることは、結果として、こうしたことすべてについて思考し、分析的に考えたり哲学的に思索することによって知的に解き明かそうとすることにつながる。そうした、思考するマインドを使って真理を理解し把握しようとする知的な努力は、必ず挫折と失望に終わる。それは、止まることのないトレッドミルの上でおなじみのニンジンを追いかけるのに似ている。あるいは、思考によって理解しようとすることによって、別の信念や教義、非二元性という教義に飛びつくという結果に至ることもある。

しかし、真の非二元性というのは信念でも教義でもない。それは、絶えず在り続け、絶えず変化し続ける、非常にすぐ近くにあって、避けることのできない現実性であり、それはたった今それ自体を何の努力もなく現している。そして、「すべては夢だ」、「すべてはひとつだ」、「自己は存在しない」、「すべてはそのままで完璧だ」といった観念を、ひとつの哲学あるいは信念としてただ単に受け入れても、そもそもスピリチュアルな探求を引き起こす要因となった根本的な不安や切望が解消されることはない。信念は必ず疑念という影を伴い、海が荒れるときには崩れ落ちるという傾向がある。だから、迷妄と苦しみが生じ続けるのであれば、何らかの形の実践というものも多分生じ続けるだろう。それは、アルコールを摂るという実践であったり、衝動的な買い物という実践であったり、瞑想という実践であったり (形式にのっとっていたり、自然に生じたりする) 、実践をする人は誰もいないし行うべきことなど何もない、と伝える非二元の教師の話を聴きにいくという実践であったりする。

もしマインドがまだ「これはそれではない」と確信しているとしたら、言葉や考えや信念や概念によって作られた仮想現実の中で茫然自失している状態から目覚めるために、実際の直接的な経験に対して開かれた注意を向けるといったような、一種の直接的で非概念的で非言語的な探究をしてみるのも役立つかもしれない。ここで今、どうなっているかということにただ気づいていてみよう。何が起ころうとも、それを気を散らすものだとか妨害するものだととらえずに、そして何が現れようともそれについて判断せずに、何ごともどんなふうにも変えようとしたり改良しようとしたりすることもなく。何かを把握しようとしたり何かを達成したりしようとする代わりに、ただくつろいで、すべてがそれ自体を成就するのにまかせ、そのままであるのにまかせる。これを瞑想と呼ぶこともできるが、おそらくどんな呼び方もしないというのが最もいいだろう。

これは肘掛け椅子に座っているときに起こるかもしれないし、職場へ向かう市バスの中で起こるかもしれないし、診療を受ける前の待合室で起こるかもしれないし、飛行機の中で起こるかもしれないし、公園のベンチで起こるかもしれない。自然の中を歩いているときに起こるかもしれないし、街を歩いているときに起こるかもしれない。台所や監獄の中、病院のベッド、あるいはオフィスで起こるかもしれない。少しの間 (数秒、数分、数時間、あるいは数日間) 、実験として、雑誌や本やiPodやスマートフォンを脇に置いてみよう。コンピュータやラジオやテレビのスイッチを切ろう。編み物も数珠も置いておこう。そしてただ今にあってみよう。何も手に持たずに。何がその姿を見せるか、みてみよう。

クルマの往来の音、鳥の鳴き声、別の部屋から聞こえるテレビの微かな音。緑の葉から落ちそうな雨滴、側溝に落ちている煙草の吸殻、青空をゆっくり動く雲。花の香り、市バスの排気ガスの匂い、土砂降りの空気の甘さ。呼吸、胸の緊張、胃のむかつき、肩の痛み、暑いとか寒いといった感覚。これらすべてに浸透している広大さ。

こうした探究によって、あなたは思考の精神的領域から出て、感覚的な気づきという非概念的な領域に移る。それによって、流動性、非永続性、空間性という直接的で感覚的な経験が得られる。呼吸、音、感覚を把握することはできないし、しがみつくこともできない。それらは境界も継ぎ目もない動きだ。実は、思考することや概念化することも、境界も継ぎ目もない動きだ。だが、思考や観念を使うよりも、感覚の知覚によって気づくことのほうが遥かに容易だ。思考のない気づきとしてただここにあることによって、すべてが変化していて、生のすべては継ぎ目がなく分割されていない動きあるいは実在であるということを直接的に経験する。あなたはじかに、自分とこの現在生じていることとの間に距離がないこと、そして生じていることというものが全くじかにあるということ、自分はこれなのだ、ということを発見する。

こうした非言語的で非概念的な探究は、歩いているとき、走っているとき、あるいは市バスに乗っているときでも起こりえるが、本当は、普段の生活の慌ただしさから一旦離れて、時間と場所をとって、電話のスイッチを切って、ただ静かに座り何もせず、この探究を比較的静かな場所で行うということがとても役に立つ。静かな場所というのは、ただ他の人やあなたの注意を引くようなことに中断されることがなさそうな場所という意味だ。一日のはじめに静かに座ってみて、一日の終わりにまた座ってみるということを試したらどうだろうか。丸一日何もせずに静かにしているということも試してみるといいかもしれない。これはただ、普段の行動 (しゃべったり、何かをするということ全部) を止めてみて、この瞬間に何が起こっているかというありのままの (非概念的な) 現実に気づいているということをするための一つの方法だ。これはある種の単純化された空間であり、そこでは気づきがあるかもしれないし、私たちが習慣的に何を見落とし、何を上書きし、何を無視し、何を避けているかということに目覚めるかもしれない。これは、なにか特別な経験を得ようとしているのではなく、生じることを取り除こうとしているのでもない。ただ、いまあるものに気づいているということなのだ。

このようにありのままにあるということは姿勢には左右されないし、もちろん、完全に在って気づいているために蓮華座に足を組む必要はない。ただ、マインドと身体は別のものではないため、伝統的な瞑想においては、たいていは姿勢ということが大いに強調される。いろいろな瞑想の流派や学派が、それぞれの「正しい」座り方、「正しい」手の組み方を教えてくれるだろう。さらに、目を閉じることが大切だとか、開けていることが大切だとか、半眼にすることが大切だとか言うかもしれない。こうしたことのいくつかは極めてばかげていて、他の何よりも硬直性が引き起こされかねない。だが、実のところ、グラウンディングしていて、開放的で、くつろいでいると感じられるようなやり方で座ることは役に立つかもしれない。なぜか? 座っている形の仏陀の像と、ロダンの「考える人」の彫像を比べてみてほしい。そうすれば、考える人が頭の中にいるのに対し、仏陀が目覚めていて非常に異なるあり方で完全に統合されていることは、まったく明らかだろう。もしくは、簡単な実験として、前かがみになり、頭を抱えて、「私は本当に幸せだ!」と言ってみてほしい。この姿勢は、幸福な心の状態をあまり支えてくれない。逆に、背筋を伸ばして座り、両腕を上へ伸ばし、見上げながら、「私は本当に落ち込んでいる」と言ってみてほしい。同様に、この姿勢ではそういう心の状態は維持されない。身体・マインドはひとつの全体的な出来事であり、それが禅において、まっすぐで両足を組んだ姿勢それ自体が悟りであると言われることがある理由なのだ。私は、あなたが両足を組み、真っすぐになって座らないといけないと言っているわけではないが、いろいろな座り方で実験してみたらどうだろう。リクライニングチェアや肘掛け椅子に座ったり、横になってみたり、真っすぐな背もたれがついた椅子に真っすぐ腰掛けたり、クッションの上で両足を組んでみたり。そしてそれぞれの姿勢が心の状態にどう影響するかみてみよう。目を開けたら、目を閉じたら、半眼にしたら、それぞれどうなるかみてみよう。正しい方法や間違った方法はないのだが、オープンさを妨げたり停止させたりするよりも、今にあって気づいていることを助けてくれるような身体のあり方を見つけることは役に立つだろう。とは言っても、究極的な現実はどんな姿勢にも左右されないし、完全に在って気づいているためになんらかの特定の姿勢をとらなくてはいけないということはない、ということを再度強調しておくことは大切だろう。そして実際、もしあなたが結跏趺坐の姿勢で30年間座禅を熱心に続けてきたとしたら、ソファにどさっと座っているときも気づきは完全にあるということに気がつくことによって限りなく解放されるだろう。だから、どのように座ってもいいが、現れていることが何であれ、それにただ気づいていよう。呼吸、聞くこと、見ること、感じること、気づいていること、考えていること。なんであっても、それがあるままに気づいていよう。思考が急に現れたとき、それがただの思考であって、それに従う必要も信じる必要もないかもしれず、また思考が主張するのと違って実際には思考は現実を客観的に表したものではないかもしれない、ということを認識することは可能だろうか? こうした思考がいかに頭の中で映画とストーリーをすぐに創り出すかということ、そのストーリーがいかに魅惑的かということ、それらがいかにリアルに感じられるかということを認識できるだろうか? 思考することと感じることの間の違いに気づけるだろうか?

現在の瞬間にただ注意を向けることによって、「自分」という蜃気楼と「自分の人生」というストーリーが、思考と想像によってどのように作られるか、そして苦しみがどのように作り出され維持されるか、さらに苦しむことなく痛みや困難な状況に接する方法があるのかどうか、ということを発見するかもしれない。すべてのものがあるがままでこの上なく美しく完璧であることに目覚めるかもしれない。

この、開かれて聴くこと、あるいはありのままにあることは、意図的なやり方で起こるかもしれないし、台所でコーヒーを飲んでいるときに自動的に起こるかもしれない。形式にのっとって起こるかもしれないし、形式とは関係なく起こるかもしれない。どのように起こるとしても、それはこの瞬間に起こりえる唯一のやり方で起こる。目覚めているときの人生というあなたの映画の中に禅の修行が現れるとしたら、それはあなたにとっては禅の修行が明らかに必要だということだ。それが (もしかしたら) 必要なくなるまでは。別の人にとっては、禅の修行を通してもたらされるような洞察が、公園のベンチに座っているときや、子どもを育てているときにもたらされるかもしれない。一つの正しい道というものはなく、究極的には、道というものは全くない。あるのは〈ここ・今〉だけだ。

私自身のストーリーの中では、私は正式な禅の修行から始め、次に、元は禅の師で後に禅の伝統、階層制、儀式、作法、教義を捨てたトニ・パッカーのもとで過ごした。トニ・パッカーのリトリート・センターに五年間住み、そこで働いた。リトリート・センターでは、長時間座って瞑想をするサイレント・リトリートをしたが、日程は常に選択可能で、瞑想用クッションの上に座ることも、肘掛け椅子やリクライニングチェアに座ることもできた。自分がしたいときは森を歩くことも昼寝をすることもできた。通常の意味での「修行」、呼吸を数えたり、公案に取り組んだりということはしなかった。勧められていたのは、ただ、何であれ起こっていることに気づいているということ、呼吸を感じ雨の音を聴くこと、分離した「自分」という感覚を調べ、それが実際に存在するかどうかを見るというようなことだった。その後、アドヴァイタのサットサンの世界に関わり、最終的には原理的な非二元のメッセージに関わることになった。形式にのっとった瞑想をすることはほとんどなくなったが、気が向いたときには静かにして「何もしない」ということを今でも楽しんでいる。ただ、私はそれを「瞑想」としてはとらえていない。時々はクッションの上で両足を組んで座ることを楽しく感じるし、より形式にのっとった禅のような方法の美しさや価値は分かる。だが、私自身の自然な道は、それらと比較すると全くかっちりしていないものであるようだ。

今いろいろな瞑想的な探究を勧めているとき、私が指し示しているのは、開いていて努力のない存在のあり方だ。これは、あなたがただ全く止まることのない白昼夢に無思慮にふけったり、強迫的な思考やストーリーに浸るということを意味しているのではない。そういったことも時々は起こるかもしれないが、それが起こったとき、それにあなたが気づいたとき、それを手放して、非概念的に経験するという努力のないシンプルさに戻るということが可能かどうか、みることができるかもしれない。道を通る車の音を聴くこと、呼吸を感じること、雨の音に耳を傾けること、身体を感じること、暑さや寒さを感じること。何が生じていようが、どのようになっていようが、ただそのありのままの現実に気づいているということに戻るのが可能かどうか。

あなたの人生は全体としてあらゆる種類の活動や心の状態を含んでいる。だから、私は「いつも」この種の瞑想的な探究をするように努めるべきだと言っているのではない。私が指し示しているのは、人生の他の部分から離れた何か、蓮華座を組んでクッションの上に座りながら一日一度だけするようなことではないのだ。そうではなく、それはあなたの人生全体のことだ。と言っても、このことは、テレビを決して見ないということでもないし、厳しく骨の折れる完璧主義的な結果優先のやり方で、すべての思考や感覚や行動に常に気づいているようにするということでもない。

ここで言っている探究は、目的志向の自己改善ワークのことではない。せいぜい、この探究によって起こることと言えば、たまに少しだけものごとをゆっくりさせて、状況を単純化させ、いつもは注意を引くようないろいろなことを剥ぎ取ることによって、何かが姿を現し、それに伴って、通常は見過ごされていることが表面化するようになる、ということくらいだ。だが、特定の何かが明らかになるという期待をしないでほしい。これは、特別な経験をするということでもなければ、並はずれた理解を得るということでもない。それはいま在るもののありのままの全くのシンプルさ、それだけだ。

もし、改善しようとかどこかに到達しようという考えをもって、ここで提案したことのいずれかに無理をして従っていることに気づいたら、そのマインドの動きにただ気づき、それが何であるのかを見て、そこにある緊張状態に気づき、もし可能であれば、今の瞬間のシンプルさ (聴くこと、見ること、感じること、気づくこと、あること) に戻ってくつろいでほしい。もしくつろぐことができないのであれば、自分が緊張しているのをただ放っておいてほしい。緊張は単なるエネルギー的な動きであって、それ自体に間違っていることは何もない。それは「悪い」ものではないのだ。緊張は苦しいかもしれないが、生は苦しみを包含している。解放とは、生がまったくあるがままであるという自由であり、こうであるかもしれないとか、こうなるかもしれないとか、こうあるべきだということではない。あなたはどこにも行くことがない。〈ここ・今〉が存在するすべてであり、それは最初から完全に在るのだ。

それから、この探究はいつも心地よいわけではないし、平穏なものでもない。むしろ、普段の活動をすべて止めて、開いた気づきとして在ると、自分がこれまでにないほど思考しているように思えるかもしれない。それどころか、強迫的な思考にこれまでになかったほど気づいている。もちろん、考えないようにすることは勝ち目のない戦いだ。だからもしこういうことが起きたら、考えているということにただ気づき、可能なときは、単純にあるということ、車の音や鳥の歌を聴くこと、身体の感覚を経験すること、呼吸を感じること、このすべてを包含し何にも抵抗しない無境界の存在という広大な開放性に気づくということに戻って、くつろいでみてほしい。

人がはじめて座って瞑想をしたり、サイレント・リトリートに参加したりするとき、通常の活動がすべて取り除かれ、在ること以外には何もしないでいると、ある種の隠遁の状態を経験することは珍しいことではない。特に現代の文化においては、私たちは絶え間ない高速の刺激に慣れている (中毒になってさえいる) 。そのような刺激が突然取り除かれると、動揺させるような感情や感覚が現れることがある。そうした感情や感覚には、人間のほとんどの行動の動機になっている、欲求不満、落ち着かなさ、不安という基本的な根源的感覚が含まれる。だが、この不快さのありのままの感覚と共にただじっとして、その感覚がそのままそこにあるままにしておくと、そうした感覚が相当程度我慢できるものだと感じるかもしれないし、場合によっては興味深いとさえ思うかもしれない。自然な好奇心が生じて、この基本的な不安を探究してみよう、それが何なのか見つけてみよう、という関心が出てくるかもしれない。それについて考えたり、ラベルを貼ったり、それに関するストーリーを語るのではなく、気づきをもってその感覚の根底までずっとたどっていくことによって。その時、この不安の感覚が前と同じではないということに気がついたり、不安の感覚の中心には一切何も無いということが分かったりするかもしれない。

また、瞑想を始めた人たちが、以前は気づかなかったような、自分自身についての様々な嫌なことに気づきはじめるということも珍しくはない。あなた自身が (もしくは他の人たちが) 、あなたは (もしくは他の人は) こうあるべきだ、というあなたの考えに合わないやり方で行動しているのに気づいたら、たとえば、もしあなた自身が (または誰か他の人が) 操作的であったり、執念深かったり、受動攻撃的だったり、自己憐憫的だったり、自己陶酔的だったり、けちだったり、批判的だったり、独善的だったり、ずうずうしかったり、卑屈だったり、何でもいいのだが、そういうふうだと感じた場合、そうしたことをコントロールしている人は誰もいないのだということを、もしかしたら認識することもできるかもしれない。あなたは、この瞬間あなたがどうあるかということを意図的に選択しているわけではないし、どこにも自分で選択している人はいない。すべては自動的に起こる。あなたの思考というのはひとりでに生じる脳の分泌物のようなもので、あなたの衝動や行為は生そのものから生まれるということを認識しはじめるかもしれない。そして、より大きな文脈というものがあり、あなたはその中であなたという人格が現れている無限の気づきであり、あなたがショー全体であり、またショー全体を見ているのだということに気づきはじめるかもしれない。この広大さの中には、すべての見かけ上の生の欠点や不完全さがそのままにあることを許容する余裕があることを発見するかもしれない。

私たちが全宇宙を包含していて、仏陀の種もヒトラーの種もどちらも私たちの中にあり、私たちがショーの全体である、ということを認識するとき、全くあるがままの状態のすべての人、すべてのものに対する自然な慈悲を私たちは持ち始める。一切の混乱をあまりに深刻に受け取るということがなくなる。

ということで、この探究は、あなたの欠点をなくして、至福と静けさだけを経験するというようなことではない。これは、あるがままの生に目覚めているということに関するものなのだ。苦しみが生じたら、たとえば自分が苦しく強迫的な行動にはまってしまったように感じられたり、落ち込んだり不安だったり怒っていたり悲しんだりしていたり、身体的な痛みや不快さを味わっていたり、不快だとか望ましくないと感じるような環境や状況にあったりしたら、どのような不快な、あるいは不安な感覚が生じているにせよ、ただそれを経験することが可能かどうかみてみよう。そうした感覚をどこかにやろうとせずに、この探究から何らかの結果を期待することなく、状況を理解しようとしたり分析しようとしたり直そうとしたりすることなく、批判もすることなく。そのままの感覚をただ経験するのだ。

あなたは気がつくかもしれない。このありのままに経験するということのシンプルさから、思考がいかに離れようとするかということに。そして、思考がいかに幻影のような被害者を創りだし、いかに時間という観念 (過去の出来事や、未来の不幸に対する恐れや、将来は解決されるだろうという希望の、永久に続く再生) を創りあげるかということに。苦しみに対して私たちが習慣的に反応するやり方は、その見かけ上の問題について考えるというものだ。何が起こったか何度も反復し、ラベルを付け、それについてのストーリーを構成し、分析し、責任を押し付け、批判し、未来の肯定的なシナリオと否定的なシナリオを想像し、解決策を探すのだ。「これは我慢できない。もしもっと悪くなったらどうなるだろう? 私は駄目になってしまうだろう。なぜこんなことが自分に起こるんだ? あなたが私にこんなことをするなんて信じられない。これは不当だ。私は本当に間抜けだ。私は何もうまくできない。もし〜だったら? あのとき〜しておけば。たぶん私は〜すべきなのかも。」 風や雨の音に耳を傾けるのと同じやり方で、こうした思考に耳を傾けることは可能だろうか? 自然で起こる非個人的なものとして。思考を放置して、ストーリーから注意を離し、この瞬間のありのままの現実に注意を戻すことはできるだろうか? 身体の感覚、車の音、存在の感覚に。この瞬間の非概念的でエネルギー的な裸の現実がただあるとき、苦しみに何が起こるだろうか? あなたの人生というストーリーの全体が見かけほど確かなものではなく、苦しみや不幸を維持するためには思考と想像が必要となるということに、気がつくかもしれない。

生じることが何であれ、そこから離れることなく、そこにただ在ることで、痛み、不安、心配、憂鬱、怒り、悲しみ、恐れといった、自分にひどい苦痛を与えたり致命的だとしばしば感じるような、不快で恐ろしい経験に自分を開いていることが可能であることを学ぶ。離れようとすることなくただ在ることで、痒みは掻かなければそのうち消えるということを発見する。同様に、苦痛についても、苦痛に抵抗することによって、苦痛に対して緊張することによって、苦痛から逃げようとすることによって、苦痛はひどくなり、どうしようもないように感じられるのだということが分かる。それに対し、苦痛に対し完全に自分を開き、そのなかでくつろいでいられる時には、苦痛が圧倒的であることはなくなり、興味深くなることさえありえる。注意深く観察することで、「苦痛」には実体がなく、現れては消える、変化し続ける振動で作られていることを発見する。もちろん、時には私たちは確かに逃げるし、痒いところは掻く。それは起こる。それが起こるのは、無数の原因や条件のためであり、それが起こる瞬間においては、それが起こらないということはありえない。だからこれは、現実が自分の完全主義的な理想に達しなかった場合に、自分を責めるというようなことではない。そうしたことすべての本質を見抜くということなのだ。

禅では、呼吸、姿勢、トイレを掃除する作法、禅堂に出入りする時の作法、ご飯茶碗を持つ作法に対して、大いに注意が向けられる。熱心に悟りを求める禅の初心者にとっては、普段の生活のもっともありふれたものごとに対してこのように焦点を当てることは、まったく見当違いで、馬鹿馬鹿しいほど皮相的で、つまらないことだと感じられる。だが実際のところは、これは修行者の注意を今の瞬間に向け、現実について考えてしまって抽象と空論の中で迷子になるという習慣的な傾向を崩すためのひとつの方法なのだ。これは、悟りは今あるか、もしくは決してないかのどちらかであり、悟りは理論上のものでも哲学的なものでも形而上のものでも超自然的なものでもなく、悟りはまったく単純であり、それはまさにここ、この呼吸、このコーヒー、この便器の中にある、ということを表す一つのやり方だ。だから、どこか別のところを探すことによってそれを見逃してはいけない。私の最初の禅の師が言ったように、形は神聖ではないが、形は神聖なものが現れることを可能にするのだ。

すべての経験が、絶えることがなくここに無いということが決してない目覚めを明らかにしているということに気づきはじめる。その目覚めは、映画の中のあらゆる画像が現れることを可能にしているスクリーンのようなものであり、そのスクリーンは、暴力のシーンであろうと優しさを表現したシーンであろうと関係なく、どんなシーンであっても、そのシーンとして目に触れている。あるいは、その目覚めは、どんな鏡像の中にもどんな鏡像としても等しく存在している鏡のようなものであり、また、すべての波として現れている水のようなものだ。この目覚めは、現れるものがどうであるかにかかわらず常にある。現れるものによって目覚めがある、ということは決してない。夢の中に現れるあらゆる要素がその夢を見ている人に属しているのと同じように、目覚めている時の人生という映画の中に現れるものはすべて、〈あなた〉(二つめのない一なるもの) 以外のものであることは決してなく、それらは常に新しい変装と常に新しいあなた自身の相であなた自身を驚かせている。

このことが認識された時、あなたにはまだ意見があるかもしれないし、目覚めている時の人生という映画の中で最善と思われることをするために適切な行動をとるかもしれないが、もはやあなたは偽りの確実性や、空想上の分離という位置から行動することはない。劇の中のさまざまな登場人物は、それが良い人であれ悪い人であれ、すべて自分自身なのだということを認識している。すべてが非常に真剣であるように感じられる時でさえ、より大きな文脈の認識と、すべては実体のない劇なのだという理解がある。

そして、もしあなたが目の前に生じていることを拒否したり抵抗したり批判したり、すべてを非常に深刻に受け取ったり、生のありようと言い争ったり、イライラしたり動揺したり激怒したりしていることに気づいたら、それは誰が又は何がおびやかされていると感じているのか、そしてこの動揺の根っこには何があるのか、ということを探究する素晴らしい機会になりえる。結果として、常にそれは空想上の「自分」に関することであり、詰まるところはそれはいつも死の恐怖、消滅の恐怖である、ということが分かるかもしれない。何かが「私」と私の生存を脅かしているようだ、というような。こうした脅威は、ある状況においては相対的には現実性があるのかもしれないが、深い意味では、私たちが考えるようなやり方で実際に起こっていることは一切何もない。何が現れているとしても、それを注意深く調べてみれば、そこには持続しえるような形や実体が何もないということが分かる。傷つけられるような人は存在せず、私たちを傷つけられるようなものも何もないということを発見するかもしれない。もちろんこれは、バスの真ん前を歩くとか、身体的あるいは感情的な痛みを一切感じなくなるというようなことではない。ただ、何ごとも長く留まることはない、という意味だ。

人が瞑想やそれ以外のスピリチュアルな実践を最初に始めるとき、あるいは、原理的な非二元のミーティングに初めて行ったり、本を読んだりするとき、たいてい彼らはこれが自己改善に関することか、どこかに到達することに関することだと想像する。道なき道 (直接の道) は、実際にはこうした考えの本質を見抜くということがすべてである。究極的には、それは外にある宇宙から切り離されている「自己」がここに存在しないということを認識するということに関係している。明晰さと混乱の間、「それを得る」と「それを失う」の間、無限の気づきとの同一化と人格との同一化の間を行ったり来たりするような「自分」は存在しない。「霊性」と「他の部分」の間の境界は実際には存在しない。あるのは、〈ここ・今〉の無境界の直接性、ただそのままのそれだけだ。

あらゆる状態と経験は、現れては消える。非二元的な絶対というのは経験でもないし、「人」がそこに永遠に又は一時的に入れるようなある状態のことでもない。「人」は一時的な見かけであり、非二元的な無境界性の中で現れては消えるものだ。

解放とは、いまあるものを愛することだ。まさにそのままの自分を愛し、まさにそのままの世界を愛し、長所も短所も含めて人生を愛すること。だから、あなたが今演じているまさにその通りに、自分の役割を演じることだ。そうしないということは不可能だ。ショーを楽しもう。あなたは既に〈家〉にいる。ずっといたのだ。〈ここ・今〉にいないということは本当にできない。失敗するということはありえない。

私たちがそこから逃れることができないと想像していた束縛は、実はもとから無かったのだ。一生懸命解決しようとしている問題は、架空のものだ。私たちが改善しようとしている「自分」は、存在さえしていなかったのだ。真の瞑想は、それをすべて直接発見するということであり、それは長年のつらい修行を経て未来のいつかに達成することでもなく、記憶の中の覚醒体験という過去に起こったことでもなく、一度体験したらそれで完了というものでもなく、たった今あるものだ。道は、つねに〈ここ・今〉にしかない。そして、最も自由をもたらす洞察は、必要なことは何もない、ということだ。これは今すでにそれなのだ。まったくそのままで。

== 翻訳は以上==

この文章の第二部Inquiry: What is It?の翻訳はこちら

(2012年12月18日追記: 瞑想の姿勢についての原文が改訂されたことに伴い、翻訳を改訂)
(2012年12月22日追記: 12月22日の時点で、原文にいくつかの細かい改訂がなされたが、文章の伝えている意味そのものは何も変わっていないから翻訳は必ずしもそれを反映する必要はない、というジョーンのアドバイスに従い、12月18日時点の文章を翻訳したもののままとした)

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