マインドと物質 ジョーン・トリフソン

 
ジョーン・トリフソンの文章の翻訳はちょっと一休みしようと昨日は考えていたはずが、また翻訳を始めている。不思議なことだと思う。

ルパート・スパイラの文章をどんどん翻訳していた頃とは違い、肩にも腹にも力が入っていない。これを誰かに知らせたいというような思いはほとんどない。何かに動かされているようだ、と言うとスピリチュアルじみていて気味悪いが、そんな感じもする。ともかく自分がやっている感じがしない。昨夕、日没直前の空をぱっと見た瞬間、そこにあったものはただそこにあった。そのただあった、という感じに似ている。

今日はジョーンのウェブサイトから、Mind / Matterというものだ。

== 以下、翻訳 ==

マインドと物質
鶏と卵のどちらが先か、脳とマインドのどちらが先か?

一つの物を見る様々なやり方があるのだろうか、それとも、我々はいろいろな心像を一つの同じ物だと勘違いしているのだろうか?
道元

身体と精神の間、マインドと物質の間には何の矛盾もない。これらは、私たちがひとつのことを理解するために用いているただの言葉にすぎない。
ゾーケツ・ノーマン・フィッシャー

あなた自身を定義づけようとする傾向を脱すること、それだけで十分だ。
ニサルガダッタ・マハラジ

身体は実際にはどうなっているのかということを探究し、身体というものには実体がなく、永続性もなく、境界もないということを直接発見すると、多くの複雑な問題が、身体と一緒に跡形もなく消えてしまうことに気がつく。たとえば、マインドと物質のどちらが最初に現れたのか、あるいは意識は身体に限定されるのか、それとも、意識は身体を超えるものなのか、といったことについて活発な議論が交わされている。意識は身体が無くなっても残るのだろうか、それとも、脳と一緒に意識も死ぬのだろうか? 宇宙は最初に物質から始まって、もっと後になってから複雑な有機生命体の機能の一つとして進化プロセスの中で意識が現れたのだろうか? それとも、進化や物質といったものは、意識の中で展開する夢に似た現象なのだろうか?

私たちの知識や経験のすべて、知覚できて考えることができることすべてが、意識の中に現れるということを、否定することはできない。そして、それらがある意味で意識から「成っている」ということも否定できない。意識の外側で実際に何かを経験することはなく、また、意識以外の何かを経験することもない。意識の外側に「物質的な」世界が存在しているというまさにその概念自体も、意識の中でのみ現れることができるものであり、それを実証することは決してできない。ここに書いたことをそのまま信じないでほしい。自分自身で調べて、見てほしい。あらゆる経験において、つねにここにあるものは何だろうか? そもそも何かが現れるためには、初めに何がここになければならないだろう?

実際に今の瞬間に私たちが経験していることを調べてみると、そこにあるのは絶え間のない変化と全面的な相互依存性だ。すべてのものが、それ以外のあらゆるもので構成されていることが分かる。そして、固定して独立している物質というものが、観念として (そしてある程度までは条件付けられた知覚として) 概念的な形でしか存在できないことを発見する。しっかりと注意深く考察してみれば、物質間の境界というものは、流動的で、浸透性があり、抽象的なものであることが認識される。そして、いかなる物質も、その物質以外のすべての他のものと一緒にだけ、そしてそれらの存在ゆえに、存在している (存在できる) ということ、それどころか、いかなる物質もそれ以外のあらゆるものから構成されているということが認識される。この認識は時に一体性 (ワンネス) と呼ばれるのだが、このことに名前をつけて概念化した途端に、それがまた (想像上の) 対象物になってしまう。それゆえ、仏教では、空という呼び方を選んでいる。ある仏教の師が言ったように、すべてはそれ自体実体がなく、他の全てで満ちている。空とは、神秘的な空虚や真空ではなく、まさにこれ、この現在の瞬間のことなのだ。

何気なく見るかぎりでは、私たちは、明らかに実体があって独立していて継続している物質で構成されている世界を見ているように感じられる。そして、この見かけは消えることはない。こうした世界観には、目覚めているときの人生という夢に似た映画の中においては、ある程度の現実味があり、機能的な実用性がある。だが、瞑想か科学を用いて、もっときちんと注意深く調べてみると、境界は固定されておらず、物質は継続的な変化でしかなく、こうしたことすべてを見ているものと考えていた「自分」はどこにも見つからないということが分かる。「物質」というのは、椅子やテーブルのように、非常にしっかりしていて実体があるものだという考えを私たちは持っているが、どんな物質でもそれをじっくりと調べてみると、どんな意味でもそれが固定してもいなければ実体があるものでもないことが明らかになる。本当に調べてみるとき、物質は跡形もなく蒸発してしまうようだ! 形とは、まったくの流れ、絶え間ない変化、無定形性以外の何ものでもない。存在しているのは、この時間を超えた一なる現在の瞬間だけであり、それは決して出現することはなく、決して消えることもなく、同じまま留まっていることも決してない。

意識は脳が創り出しているのだと考えるかもしれないが、意識の外に現れたことのある脳は存在しない。もし脳を切り開いてみたとしても、私が今いるこの部屋を見つけることはないだろう。では、この部屋は一体どこにあるのだろう? 私がこの部屋の中にいるのだろうか、それとも、部屋は私の中にあるのだろうか? そう、あらゆる位置、あらゆる出来事、私が経験するあらゆることは意識の中に現れる。「世界」は私と離れて「外」に存在しているのだろうか? 私たちというのは、本当に、分離して独立した生物の集団で、感覚という窓を通して、誰かがそれに気づいているかどうかに関係なく「外部」に常に存在している唯一の客観的な現実という「外を見ている」のだろうか? この唯一の現実を、それぞれが少しずつ異なったやり方で見ているということなのだろうか? それとも、「外」にある客観的で外部的な現実をばらばらの異なる人たちがそれぞれ見ているというその観念こそが、根本的な思い違いなのではないだろうか? 道元はこうたずねたという。一つの物を見る様々なやり方があるのだろうか、それとも、我々はいろいろな心像を一つの同じ物だと勘違いしているのだろうか?

意識は脳の活動なのか、それとも脳は意識の中に現れているのか、そして脳と意識のどちらが先に生まれたのか、という疑問を私たちが抱くとき、その問題自体が意識の動きとしてしか存在できない。この疑問によって見かけの上で生じる「脳」や「意識」といった存在物は、概念的な抽象観念だ。そして、そこにおいて、思考は生の動きを、独立していて定義可能な対象物として固まったものにしようとする。私たちがまとめようとしたり、順番に並べようとしている対象物は、実際には分離したものとして存在しているわけではない。原因と結果という概念、あるいは時間という観念はいずれも完全に概念的なものだ。私たちの実際の経験は、何の原因もない時間を超えた実在だ。そして深い睡眠のあいだ、こうした疑問すべて、そして疑問に答えたいという思いにとりつかれているその人は、いずれも完全に消えてしまう。

明らかに、意識とは何であるかを私たちは「知らない」し、決して知ることはないだろう。それは、意識の外に存在するということも、意識を物質として観察することも決してできないからだ。実際、科学者は、何かを外部からそれを物質として観察するということが本当に不可能だということを発見しつつある。それはおそらく、知覚できるものも考え得るものも、すべてが意識だからだろう!

根本的には、私たちは何についてもそれが何であるのかを本当には知らないのだ! それに、そもそも、何かが何で「ある」かということに考えをめぐらすということは、どういう意味だろう?

私たちは意識が何で「ある」のかを知らないが、意識という現実を否定することは確かにできない。意識はあらゆる瞬間の親密な背景として常にここにある。存在していて気づいているということは、否定することのできない事実だ。ここに存在しているということについては全く何の疑いもないし、この確かな確信には、訓練も証拠も必要ではない。このことを疑うためには、まず意識がないといけないのだ!

意識というものは、私たちが何の疑いも一切抱かないものではある。意識は最も親密で常に存在する現実であり、あらゆる瞬間に必ず背景になっている。そうだとしても、この意識している実在を理解したり把握したりすることは決してできないし、正確に意識とは何なのかを言うことはできない! 意識には味も色も形も構造もない。そして、すべての味、すべての色、すべての形、すべての構造がある。誰かが言ったように、意識はとても澄みきっているため、簡単に見落としてしまう。そしてこの透明さ、この気づきの最初の光さえ、見かけの一部分であって、毎晩深い睡眠の間、この最小限の気づきの感覚すら、すべての知覚できるもの、考えられるものと共に完全に消えてしまう。そこで残っている無背景性は、絶対に知覚することはできないし、概念化することもできない。

禅やアドヴァイタのような教えは、情報や知識や答えを獲得するということには関係ない。私たちが知っていると思っていることすべてを捨て去り、〈ここ・今〉の活動性と流動性に目覚めることに関係する。本当に、把握できることは何もないのだ。

「マインド対物質」という問題全体が幻の問題だということが、たった今わかるだろうか? 言葉がなければ、ここでたった今、これは何だろうか? マインドだろうか? 物質だろうか? どんな言葉でも表現することはできない。深い睡眠のあいだに何が残っているだろうか? 宇宙が生まれる前、ビッグバンの前、ここには何があっただろう? 受胎の前、あなたの両親が生まれる前、あなたは何だっただろう? これらの質問を探究してみてほしい。それについて考えるのではなく、そして答えを見つけようとするのではなく。〈ここ・今〉の無回答性のなかに放り込まれることによって。

思考するマインドが宇宙の謎を解こうとしはじめるとき、私たちは基礎となる現実というものがマインドなのか物質なのかについて考える。私たちは、脳とマインドのどちらが先に生まれるのか、鶏と卵のどちらが先に生まれるのか、思いをめぐらす。自分はタンクの中の脳ではないのか、あるいは、意識は死後も存続するのかどうか、ということを考える。意識の前に何があったのかについて考える。こうした疑問はすべて、もしかしたら、自分は地球の端から落ちたらどうなるのだろうという疑問と同種のものかもしれない。人々はこのことを心配していたという。だが明らかに、当時は非常に深刻なものと考えられていたその分かりきった問題は、地球に関する誤った考え方に基づいていた。地球の端から落ちる危険というものは、実際には一度も存在しなかったのだ。

実際には、独立した何かが生まれたことは一度もなく、これまでに死んだものは何もない。見かけの世界の中での相対的なものを除けば、以前、以後というものはないし、「外」と「内」もない。

このことを認識したからといって、鶏と卵を区別する能力を失うというわけではないし、心理学で用いられる意味での境界がなくなるというわけではない。覚醒は、相対的な現実や、制限をして区別をする能力を否定するものではない。目覚めている理解というものは、相対的な現実の中においても機能する。ただそこには、相対的な現実を絶対的な現実と取り違えたり、相対的な対象物を絶対的真理と取り違えたりするときとは違い、困難や混乱は生じない。

徐々に、私たちは、マインドが分割し、抽象化し、それを具体的なものとみなし、それから混乱し、自らが今つくりだした断片をまとめようとするそのやり方に、ますます気がつきやすくなる。こうしたマインドの動きが起こっているその時に、それが起こっているということを認識するようになる。そして、自分たちの混乱すべてが、現実そのものにあるのではなく、どう考えているかということにあるのだということを、直に認識するようになる。実際にあるものというシンプルさに戻るのだ。

実際の直接的な経験に触れるようになるに従って、見る者、見ること、見られるものの間に分離がないことに気がつく。言葉は、実際には継ぎ目のない一つの全体であるものを分割するが、それは言葉の上でのことにすぎない。多様性は存在しているが、分離はないのだ。

このことを観念として信じるだけでは、宇宙的渇望を満たすことができない。信じるということの裏には常に疑いがある。このことを自身の直接的な経験から理解しているとしても、私たちの傾向によって、それを忘れてしまって再度「外」で自分を救ってくれるものを探したり、あるいは「ここ、今」をよそに探しに行ったりすることもある。この、目の前の宝石を見落としてどこか他の場所でそれを探してしまうという癖は、深く条件付けられたものであり、繰り返されやすい。一度も失くしたことがないものを探してしまうというのは、「宇宙的かくれんぼ」だ。この遊びの文脈のなかでは、すべてが「自分」に関することであるように見え、さらにすべてが非常に深刻に見える。

目覚めにおいて、無境界の単一性という観点から見ると、悟りか迷妄か、明晰さか混乱か、ということはまったく問題ではないことが認識される。空想上の断片という視点からのみ、「自分」が悟っているかどうかということが問題になりえるのだ。ストーリーから目覚めるとき、意識は何度も何度も認識する。何も本当には失われたことはなく、何ごとも分離していたことはなく、どこへ行ったように見えても〈ここ・今〉から出ることはありえないのだ、ということを。

探究し、尋ね、疑問をもつことは、意識の性質であるようだ。目覚めているときの人生という夢に似た映画においては、継ぎ目のない存在が、大海の表面の波のように、大勢の個人として現れる。そして「私たち」は、瞑想、科学、身体の気づきのワーク、芸術、性愛行為、政治、哲学、心理療法、あらゆる方法を通してこの探究をする。意識は自身を探索し、それからその探索から帰還する。「私たち」はあらゆる言葉、望遠鏡と顕微鏡、コンピューターや絵筆やカメラを脇に置いて、深い睡眠あるいは死の沈黙へ落下する。その沈黙が私たちを回復させる。すると、やがて、夢の世界が現れ、それから目覚めているときの人生という映画、それはまた別の種類の夢なのだが、その映画が現れ、その夢に似た映画の一編の終わりには、毎回「私たち」はすべてを手放し、回復させてくれる深い睡眠へとまた戻る。それは、宇宙全体が絶え間なく拡張と収縮、死と再生、吸入と吐き出しを繰り返しているのとちょうど同じだ。

あなたは、この表現のしようがない存在には終わりも始まりもなく、それを定義する必要はないということに気がつくかもしれない。あなたはショーの全体なのだ。

== 翻訳は以上 ==

このブログのこれまでのテンプレートは文字が小さく、行間も詰まりすぎていたから、別のテンプレートに変えてみた。

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